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朝顔  作者: 付焼刃 俄
3/7

後半にヒロイン登場です。

 多少見てくれが悪くても自転車に乗ってくればよかった。


 水筒やなんやかやがが入ったリュックを背負って歩きながら、健吾ははやくも後悔していた。

 背中と肩ひものところはすでに汗で濡れそぼっている。

 今朝も青色の花か゛開かなかった朝顔を観察ノートに記録して、お昼を食べたあと準備をして出てきたのだが、いったい何に意地を張っていたのか。


「こんなのに乗れるか」


 と、自転車の前を通り過ぎた自分が、今となってはただただ忌々しく愚かしかしい。


 陽射しを押し付けてくる太陽と、抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)するみたく喧しい蝉だけが話し相手だ。車が通ってくれれば、乗せてくれる親切な人がいるかもしれない。

 しかし、集落を出て山に沿って設けられた車道を歩いたこの30分余り、自転車はおろか人ともすれ違わなかった。


 蝉時雨に交じって、どこからか山鳩独特の(さえず)調(ぢょう)()が聞こえてくる。


 ふいに胸の内側で鼠が駆け回るような不安を覚えて、健吾の襟首はぞわりと粟立った。

 見れば、前にも後ろにも乾いた車道が蛇みたいに曲がりくねっているだけ――人音などまるでない。あるのは究極の生とも静とも謂える、物言わぬ木々の葉擦れか、姿の見えない蝉と鳩の声――。

 背中に冷たいものがはしって、健吾の足はひとりでに止まってしまった。全身をつたう汗が(さっ)と冷たくなる。


 健吾は意味もなく、前に三歩進み、振り返って六歩戻った。


 心臓が追い立てるように早鐘を打ち始める。


 帰ろうかな……。


 そう思った途端、健吾はその場に座り込んだ。アスファルトの熱がズボン越しにお尻を焼いてくる。顎から滴り落ちた汗が、ぽたりとアスファルトを黒く染め、見る間に乾いていった。

 水筒を取り出し、コップ二、三杯分を喉を鳴らしながら飲んだ。

 ほう、と大きく息を吐けた。まわりでしている数多の自然音が、ふっと遠退いていく。


 健吾は目を閉じ、降り注いでくる陽射しに顔を向けた。目の前が真っ赤に染まり、耳まで上ってきている心臓は次第に落ち着いていく。

 心臓が正しい位置に戻ったところで目を開ける。視界はまるで青いフィルターを通したみたいになっていた。


 大丈夫、見え方が変わっただけだ。


 誰にも理解できないだろう解釈で自分を納得させた時――。

 遠くで人の声がした。それもずうっと遠くから。どちらかと言えば後ろ。つまり行く道から聞こえてくる。大勢が一定のリズムでもって、短い言葉を張り上げているようだった。笑いを誘ってくる変梃(へんてこ)な抑揚だったので、お爺ちゃんの自転車が思いだされた。


 健吾はたっぷり五分休むと、また歩く元気がでてきた。


 ひと休みした場所から最初のカーブを抜けて少し歩いたところに、目印の場所があった。

 取り出した地図の通り、切り出された山の急斜面を補強しているブロックが、その区画だけぺこんと(へこ)んで山に入れるようになっている。横たわった倒木をよけて山に分け入ると、石灰で丸がつけてある一本を見付けた。電柱より細い程度の針葉樹の(みき)は、健吾でも余裕で手を回せそうだった。水飴が塗ってある部分は色濃く、てらてらとうねらせた光を反射している。

 でも、健吾の目の高さにあるそこに肝心なカブトムシはおらず、代わりに大量の羽虫が捕れていた。


 一定間隔離れたところに二本目、三本目もあったが、一本目と同じか、触角の長い毒々しい虫が陣取ってる姿が遠目に見え、(おぞ)()を震わされただけだった。


 かくして四十分ほど足を疲れさせられた初めてのカブト狩りは、ものの二分で終猟した。


 考えてみれば、過去穴場だったからと言って、今もそうである確証はない。一体、お爺ちゃんがいくつの時の話なのか、そこから怪しい。いや、そもそもお爺ちゃんはこの土地の人ではないのだ。ただのカブトムシ好きが高じて、当て推量したのかもしれない。


 もう帰ろう……。


 一層怠(だる)くなった足を健吾は車道に向けた。山独特の傾斜に気をつけながら下りていく。

 あと1メートルで車道に出ようかというところで、


「うわっ!」


 雑草に足を取られた。

 上る時には気付かなかったが、そこだけ若干傾斜が急になっていたのだ。

 健吾は尻餅をついた。斜面を滑り台よろしく滑り、勢い余って車道に放り出される。怪我はしなかったが、より一層疲れが増した。


 また溜め息を吐いていると、前方で軽い音がした。見ると、お爺ちゃんの手書き地図が風に引きずられていた。転んだときに取り落としたようだ。

 健吾はまたぞろ溜め息を吐いた。

 立ち上がって、尻についた埃を払う。やれやれと地図を拾い上げ――。


 『ダム』の文字が目に飛び込んできた。


 その字の筆付きにだけ、どこか他と違う勢いが感じられる――妙に目について離れない。

 なんでだろう? 頭の中を手繰ると、思い当たる(ふし)があった。

 去年のことだ。

 当時二年生だった健吾は、その年の夏休みにも両親に連れられて祖父母宅で数日を過ごした。その折り、ダムへ行きたいとねだったのだが、危ないから駄目、と反対されたのである。

 その時、さっきの変梃な合唱が聞こえた。

 ダムの方からだ。


 そして、今は反対する両親はおらず、地図によるとダムは目と鼻の先にある……。


 進む道と戻る道を見比べた健吾は、思い切って足先をダムに向けた。どうせ今から帰っても、途中でお婆ちゃんの条件、一時間毎の定時連絡をしなければならなくなる。だったらダムによってから帰っても、そう変わらない。それに、さっきの声も気になるところだ。


 2時間しっかり冒険しようじゃないか。

 そんな気分になっている自分に健吾はしたがった。


 10分も歩かないうちに、健吾はダムにたどり着いた。

 天端(てんば)は対岸の山を突き刺すように真っ直ぐ伸びていて、たもとのコンクリートに埋め込まれた大理石に『横川ダム』と名前が刻まれていた。

 立ち入り禁止を匂わせるチェーンが張られていたが、もっぱら車に限っての物らしい。警告板を下げるでもなく、チェーンを渡している支柱も、お互いにお辞儀するみたいに根元から曲がっていた――多分チェーンに目的以上の負荷でも掛かったのだろう。誰かが数人で腰掛けたとか……。

 ようするに、簡単に入れた。

 軽自動車だったら二台分くらいの幅がある天端の床は、学校の渡り廊下と似ていた。ふかれたコンクリートのあちこちに(ひび)がはしっていて白く浮き上がっている。


 それにしても、人っ子ひとりいないな。さっきの声も聞こえないし、空耳だったのかな?


 直下型の日光にじりじりと焼かれながら天端の中ほどまで歩いたところで――。

 健吾は右側に驚いて目を瞠った。我を忘れて縁に駆け寄り、両手で手摺りを掴んだ。


 ――ダム湖だ。


 ちょうど山峡(やかかい)(すく)われるような形で水を湛えた湖面は、磨き上げられた翡翠ひすいみたく澄んでいた。風のない快晴の蒼に染まった湖面に突き出た山々は、あたかも大空に浮かんでいる。


 その景色は、人工の域を遙かに超えて壮観だった。


 自分の小さな身体が、湖に吸い込まれてしまいそうに思えて、健吾は首をすくめた。

 足元にこぶし台の石が転がっているのを見付けると、思わず掴み上げて手の中で振ってみた――それなりに重い。

 湖の方へ振りかぶると、(ゆる)やかな放物線を描いて十数メートル下にある水面に落ちていった。


 健吾は目をつぶって着水を待った。少し長めの時間を感じた頃、水と空気が混ざって跳ね上がる低くくぐもった音がした。


 ややあって、少し高い音も……。

      

 音が二つ? 健吾は縁に身を乗り出して下を覗き込んだ。水面に大きく(ひろ)がっていく波紋がある。しかしそれは、健吾が投げ込んだつもりの位置からかなり左にズレていた。その右脇に小さな波紋があり、二つは今しも重なる。


「こんにちは」


 健吾の左耳に飛び込んできたのは女の人の声だった。

 突然のことに、飛び退く勢いで振り向く。少し奥に小屋みたいな建物があった。なんのためかは分からない取って付けたようなその小屋の陰から、声の主が姿を現した。


「おいおい、なにもそんなに怯えなくても」

 少し困った顔で白い歯を覗かせる。


 こちらに歩み寄ってくる女の人は、(いち)(りん)()しの花瓶を思わせるすらっとした細長い体をしていた。絹のように肩を撫でる長い黒髪。中性的に整った顔。袖まくりしたストレッチシャツと、(しち)()(たけ)のスキニージーンズが、女性らしい線を栄えさせている。


「地元の子?」

 朗らかに微笑む唇が開いた。


「い、いえ。僕は、ジイジとバアバの家に来ただけで――」


「君、随分おどおどしてるけど、なにか悪いことでもしたの?」


 健吾は反射的に首を振った。でもすぐに思い当たる。

「ここに……勝手に入りました」


「だったら私と一緒、不法侵入の同罪だね」

 それから、やや芝居掛かった口調で彼女は自己紹介してきた。

「私は――マヒル。よろしくね」


 マヒルと名乗った彼女の笑みからは、何をしたいのか読み取れなかった。

 健吾は不信感を(あお)られたが、そのお花みたいな笑顔には親しみもあり、その場の流れで自己紹介をしていた。



「じゃあ、健吾は夏休みで遊びに来たんだ?」


「遊びに来たんじゃなくて、親の勝手な都合でここに押し付けられたんです」


 〝遊び〟という言葉が――初対面で呼び捨てにされたのも――面白くなくて、つい余計なことまで口にしていた。


 そっぽを向いた健吾に、マヒルは悪戯っぽい声を踊らせる。

「ほほう、見た目に似合わず大人びてるねえ」


「お姉さんはなんなの?」

 健吾は声を吊り上げた。

 年の功を子供にひけらかす物言い。よくいる大人だと思った。


「恋人にフラれたの。私より大人っぽい子に二股かけてたみたい。だから、その傷心旅行」

 声の快活さとは真反対な内容を紡いだその顔に健吾は見覚えがあった。

 最近お母さんがよくしていた顔だ。『よくいる大人だ』と思った。


「大人ってずるいよね……」


 突然、共感を覚える言葉が飛び出してきて、健吾は知らずうなづいていた。


 マヒルがぷんっと頬を膨らまして続ける。

「その恋人ってのがね、大学の心理学の先生だったんだ。私をフッてからも、ほぼ毎日顔合わせてるのになんにも言ってこないし、態度もまったく変わらないんだよ」


「なんでそんなことを僕に言ってくるの?」

 なんだか傷口に塩を塗られているみたいで健吾は顔をしかめた。


「ん~、〝旅の恥はかき捨て〟って感じかな」

 マヒルが茶目っ気に首を傾ける。


 つまりは、愚痴の捌け口にされているということだ。8才の頭でも、ぼんやりとでも、そう理解できる。

 どぎまぎと高鳴っていた胸はにわかに冷めてしまった。

「僕、帰る」

 健吾は()(けん)(どん)に言って踵を返した。


 本当は対岸まで行こうと思っていたのに、とんだ邪魔が入ってケチが付いてしまった。

 はっきり言って居心地が悪い。


「そう? よかったら明日も来てくれない。傷心旅行って、ひとりで来ると暇で寂しいだけなんだよね。私、お昼のあとはここ散歩しているからさ」

 それじゃあね、と言う語尾を下げられる。

 手だけは振っておこうかと健吾は振り向いた。


 すっと目がマヒルの横顔に吸い寄せられた。湖を眺める姿は寂しげで、その口元に先ほどのような(やかま)しさはない。

 マヒルの瞳は――どこか揺れていた。


 縁に両肘をついたマヒルの姿は悲しげで、健吾と同じ風景を見ているようには思えない。

 健吾は昨日以上に胸を締め付けられた。それと分からないように、歩く足をできるだけ早く動かしてその場から逃げ出した。

 天端の入り口に張られたチェーンが間近に迫ってきた時――。


 背後から水面を叩く音がした。


 空気と水が混ざり合うくぐもった音も聞こえた。かなり大きな音だった。

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