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朝顔  作者: 付焼刃 俄
2/7

「何かあったら、いつでも掛けてきなさい」

 携帯電話を健吾の手に握らせて、お父さんはそそくさと車のドアを開けた。

 逃げるように走りだした車が見えなくなるまで、お婆ちゃんは鋭い眼差しを投げつけていた。


 ひょっとして……。


 心臓を引っ掻かれるような不安が突き上げてきた健吾はふいに鼻の奥をつんと沁みる痛みに刺され、どうしても鼻をすすらなければならなくなる。こんなに(やかま)しいのに、鼻をすする音は消してくれない蝉が嫌いになりそうだった。


「大丈夫だ。大丈夫だから――なっ?」

 言いつつ、お爺ちゃんは頭をなでてくる。


 「何が?」と訊くのが無駄なことくらい8才でも察しがつく。

 一粒でも涙をこぼしたら、次から次へとあふれてきてしまう。

 鼻をすすっては飲み込み、健吾はなんとか誤魔化した。


「さあさ、いつまでも突っ立ってたって仕方がねぇだ。ケンちゃんずっと車の中じゃあ疲れつら?

 晩ご飯できるまでゆっくらさっし」


 急に快活な口調になったお婆ちゃんに促されて家に上がる。

 寝室としてあてがわれた客間に荷物を置くと、健吾は横になった。確かに疲れていた。祖父母宅とは言っても他人の家とそう変わらない匂いで満たされているのに、前庭が見える窓からの風が心地好くて安らげるのだ。


 まだまだわき上がってくる涙を必死になって押さえ込んでいるうちに、健吾は眠ってしまった。


 ――耳障りな音がした。

 その拍子、床が抜けた。下に引っ張られる浮遊感に襲われたと思うと、ずしっと倒れ込むような錯覚をおぼえた。健吾は小さな体を強張らせ、驚きに息を吸いながら目を覚した。

 ひどい寝汗をかいていて風が冷たい。

 汗の玉でびっしょりになった額を腕で拭い、音のした方に健吾は目をやる。

 窓から見える庭にお爺ちゃんがいた。こちらに丸めた背中を向けて屈み込み、何かをいじっている。

 お爺ちゃんが何をしているのか気になったが、それよりも気持ち悪くなった肌を乾かしたくて、健吾は庭に出て行った。


 外は赤と紫のあわいに染まっていた。汗に濡れた肌が冷やされて気持ちが良い。


「ジイジ、それなに?」


「おう、すまんな。起こしちまったか」


 言葉とは裏腹にまったく悪怯わるびれていない口調のお爺ちゃんは、「ほれ」と得意満面で顎をしゃくる。


 そこには自転車があった。


 なんとなくお爺ちゃんの隣に屈んでそれを眺める。


 ……なんだこれ?


 まっさきにそんな安い感想が浮かんだ。

 フレームは有名な社名ロゴが入った真新しい白のスポーツタイプなのだが、ハンドルはカマキリ型だった。さらにスタンドはサイドスタンドじゃなくママチャリに使われている一般車用。サドルは実用車仕様で、裏から指をはさまれてしまいそうな太いバネがぐるぐるとはみ出ている。おまけに前後輪でタイヤの種類が違う。フレームのさわやかな白さによって、しっかりと(しょ)(しょ)(つたな)さが主張してくる。

 まるで継ぎだらけの服みたいな物体が子供用自転車のサイズに収まっていた。


「あとは油をさせば乗れる、楽しみにしときな」


 嫌だ!


 健吾は間髪入れずに頭の中で拒絶した。今日日きょうび)こんな自転車に乗っていたら、田舎の子供にだって笑われるに決まってる。


「うん、ありがとう」

 健吾は無理矢理に笑顔を作り、嬉しそうな声を(つくろ)った。


「六段変速だ。速いぞ」


 健吾はぎくりとした。夕暮れのせいか、お爺ちゃんの顔が(かげ)って見えたからだ。

 自分の小賢しい演技を見破られた気がした。胸がぞわりと粟立ち、それが体の節々へと伝わっていった。自分に嫌気がして、心臓を絞り上げてしまいたくなる。健吾は言葉なしになり、作業を続けるお爺ちゃんの手許を、焦点の合わない目で見ていることしかできなくなった。


 それにしても、どうして自転車なんだろう?


「ケンちゃん、ご飯のまえでにお風呂入りっし 」


 はっとして目を馳せる。三角巾で顔を拭っているお婆ちゃんが戸口に立っていた。


「うん」


 健吾はいたたまらなさから、飛び上がるように立ち上がった。

 足早に玄関をくぐる。居間に入ると、すでに卓袱台(ちゃぶだい)に夕食が広げられて蝿帳(はいちょう)がされていた。エビと山菜の天ぷら、ほうれん草のおひたし、菜園で取れた生野菜のサラダ。卓袱台の脇には、おひつと味噌汁鍋が置かれている。


 ボストンバッグから着替えを適当に引き抜いて炊事場の隣にある浴室に行く途中、風呂焚きに使う罐焚(かまた)き場兼洗濯場のある勝手口を横目に見た――相変わらず不用心で、勝手口は針金で作った引っ掛け錠で閉めてある。

 脱衣所で服を脱ぎ、バリアフリーもなんのそののノブ式のアルミ戸を開けた。

 健吾は溜め息を吐いた。湯船からもうもうと湯気が立ち昇っている。さすがにもうかまどで沸してはいないらしいが、やはりそこはお爺ちゃんとお婆ちゃんのことだ。

 健吾は恐る恐るお湯に手を入れてみた。


 やっぱり熱い!


 即座に手を引っ込め、シャワーで済ませようと決めた。ぬるいシャワーで体を洗う。ふと、一人になれてほっとしている自分に気付いた。おのずと、さっきのお爺ちゃんとのやり取りが思い起こされて、瞬く間に沈んだ気持ちになった。

 このあとの夕食の席を思うと気が滅入る。

 湯気で(いぶ)されるみたいな入浴を終え、汗ばみつつ居間に戻ると、座布団に腰を落ち着けていたお爺ちゃんに手招きされた。


「ケン坊、もう三年生なんだし、カブト狩りやってみたくないか?」


 そうだ! その話題があった。


 健吾は野球グローブみたくよく焼けたお爺ちゃんの顔を前に正座してうなづいてみせた。本音を言えば興味はない。でも、この話題なら息苦しくない程度にお爺ちゃんはしゃべり続けてくれる。

 お婆ちゃんも居間にやって来て、座布団のひとつに腰をおろした。

 お椀にご飯と味噌汁がよそわれ、


「いただきます」


 夕飯が始まった。

 今だ後ろめたさは消えないものの、お爺ちゃんがカブトムシの魅力や、この辺りの穴場の話をしてくれるおかげで不安だった沈黙はなく、居心地の悪さもさほどではなかった。


「実は今日な、仕事の合間に〝横川〟に行く道にある三本の木に水飴塗っといたんだ」

 と、ポケットから手書きの地図を取り出して広げてみせる。


 〝横川〟とはダムのことで、健吾の足では40分は掛かる場所にあった。


 地図には、ダムからほんの手前の場所に簡単な地形の説明と『木の(みき)に石灰で丸の目印』と書き付けてあった。


「じゃあ、明日ジイジのトラックで行く?」


 健吾は当然と訊いた。が、エビ天に向かう箸が止まるほど意外な答えが返ってきた。


「いいや、ケン坊ひとりで行ってくるのもいいと思ってな」

 お爺ちゃんが箸を持ったままハンドルを握る仕草をする。


 なるほど、あの自転車はこのためだ。

 健吾はどんな顔をするのが正しい答えなのか解らず、どうとも表情を変えられないまま質問を重ねた。


「ひとりで?」


「ああ、こんな(せめ)ぇ田舎じゃあ、冒険ぐらいしかできねぇからなあ」


 「だろ?」と、お爺ちゃんに投げ掛けられたお婆ちゃんはいささか口を尖らせた。


「ケンちゃんが行きたいって言うなら止めはしねぇけどね。あっこだって車道だよ。行くなら山そばを飛ばなきゃだめさ。あと獣道には入らねぇこと、一時間くらい経ったらせえ電話すること。条件は、そのくらいだね」


 カブトムシとは関係ないが、健吾は魅力的な提案に思えた。確かに山や車道といった単語は子供にとって危険ワードだ。でも、道はアスファルトだし、街の国道と違って行く先にあるのはダムだけ、車通りは極端に少ない。地元の子供達は電車を使って隣街に遊びに行ってしまうのが多いとも聞いていて、駅はダムとは正反対の方角にあった。


 誰にも邪魔されず一人になれるかもしれない。


 でもしかし、自転車の残念な見てくれが、健吾のふくらむ期待感にブレーキをかけた。

「……考えとく」


「そうか、自転車はもう乗れるようにしておいたからな」

 お爺ちゃんの笑顔に、後ろめたさが増す。健吾は味のしないエビ天でご飯を掻き込んだ。


「いただきました」


 と、慣れない『ごちそうさま』で夕飯が終わる。

 歯を磨いたあと、算数のドリルを鉛筆でつついた。2ページも進まないうちに欠伸(あくび)がでてしまう。

 それを見てお婆ちゃんが言った。

「子供は9時には布団に入らねぇとダメだに」


 そう、祖父母の家では健吾の就寝時間は9時に定められているのだ。壁の振り子時計はもう8時半をさしていて、健吾は絵日記をつけて寝ることにした。


 ――数分後、色鉛筆を握ったまま船を漕ぎ終えている健吾を、お爺ちゃんが布団まで抱えていった。


 卓袱台の上には開かれた絵日記帳があった。

 ページの上半分にお爺ちゃんとお婆ちゃん、それと健吾の笑顔が大きく描かれている。その隅っこに、鼠みたいに走り去る青い車があった。

 『今日、ジイジとバアバの家にはじめて一人であずけられました。明日はカブトムシを捕りに行きます。とても楽しみです』

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