2 (二)
「な……!」
一瞬、見えた。チロリと彼等二人を取り巻く朱色の炎。
もう一つ、駿河は目を疑い動きを止めた。
長い前髪があおられて、一対の澄んだ青い光が露になった。火炎とは対照的に清浄な輝き。外してはならないはずの眼鏡は、はじき飛ばされている。
騎道は半眼で碧眼を滑らせる。突風が眼威に従った。
吹き払われた木の葉が、円陣で二人を取り巻いて燃え上がる。焼けた枯れ葉の臭いが立ち昇り、炎はすぐに消えた。
それを最後に、辺りは静けさを取り戻した。
騎道の肩に顔を伏せる彩子が、力を無くして崩れてゆく。抱き留める騎道の腕にも、力強さはない。辛うじて、彩子を支えて膝をついてゆく。
駿河は気後れした。あまりにも信じられない光景だ。
「……彩子っ! ……炎を見たのか……」
彩子の状態は、炎への錯乱直後の虚脱感と同じものだ。
駿河は、騎道から彩子を奪い取った。闇雲に吼える。
「騎道! 眼を覚ませ!
何があった? オイっ!」
瞼を堅く閉じて、騎道は地面に爪を立てる。
「……駿河さん……? 炎……だ」
「バカ野郎! そんなものがどこにある?! 説明しろ!」
怒鳴り声も騎道の意識を引きとめられなかった。
「火だって……。ふざけるな……!?」
片腕で彩子を支えて、騎道を引き起こす。血の気の失せた頬。額の髪を払って、閉じた瞼に指を触れる。
何が起きたんだ? 騎道に……。
震える手を伸ばして、転がった黒縁の眼鏡を拾い上げた。
なんの変哲もない素通しのガラスに見える。
中庭の入り口に隠岐を置いてきた。自分だけのぞきにきた後悔はもうない。後をつけて来て良かったのだ。
胸ポケットに眼鏡を滑り込ませ、息を一つ吐いた。
まぶしいのは天井の照明か。ぼんやりと、視界がはっきりするのを待つと、ふいに遮られる。
「よっくも、てめー、俺の彩子ちゃんを襲ったなー」
「……三橋……?」
オソッタ……? ?
襟首を締め上げられて、騎道はのけ反った。
見覚えのある顔がぐっと迫る。
「アタシというものがアリながら、他の女にうつつを抜かすなんてばっ」
ハイトーンに裏返った声に、困惑が拡大する。
「はぁ?」
「ひどいわっ! あんまりよ!
他の女に渡すくらいなら、アタシがこの手で!」
次の瞬間。声も出せないほど、手に力が込められる。
ナンナンダ!?
「み、三橋さん! やりすぎですよっっ」
割って入ったのは隠岐だ。なんだかわからんが、助かった。騎道はぐったりして、三橋を押し返す隠岐の後ろ頭を眺めた。
ソファの背もたれの向こうで、皮肉な笑い声が上がる。
「ほっとけ、隠岐。
関わりあいになって、お前も襲われたかないだろ?」
「……センパイまでそんなこと言うんですか?」
あくまでも三橋に同調して、駿河はとぼける。
「何が楽しくて、彩子なんかを襲ったのかねぇ」
「……僕が、ですか?」
ピクリと、意地になり背中を向けていた三橋が反応する。
振り返り、身の軽い隠岐を突き飛ばして、がっしりと騎道を押し倒した。表情を殺した顔が再接近する。
「……そーだよ。てめーがヤッたんだよ……」
「落ち着け、三橋。何かの誤解だ……」
「頭打って、記憶が切れたんだな。同情はしないぜ。
ヤッたことは事実だ」
切れているのは三橋の目付きの方だ。
冗談とは取れない冷淡さに、騎道は頭を起こした。
「三橋、彩子さんに何かあったのか?」
「彩子は運が悪かったよな。入院と自宅療養で禁欲生活が長かった、最悪に見境のない野郎と鉢合わせてさ。
これであいつの一生は滅茶苦茶だぜ。……ま、俺が居るから不自由はさせないがな」
「あの後、何かあったのか? 説明してくれ、三橋!」
動揺する騎道に、三橋はさらに低い声を吐きかけた。
「……あの後、何があったか、だって? その前に何があったんだ? 説明してみろよ」
何が……? 騎道は記憶を辿った。
「駿河さん、何が起きたんですか。教えて……!」
体を起こそうとする騎道を、三橋は肘で遮った。
「駿河クンも居たわけか。説明して貰おうか?」
三橋は大いに不満顔でねめつけた。
「知らないね。俺が駆けつけた時には二人とも倒れてた。
……しっかり、抱き合ってね」
最後の台詞は三橋への当て付けだ。
「嘘はやめて下さい!」
「だったら、本当のことを言っていいのか!」
怒鳴り返す駿河。
騎道は、見下ろす三橋の視線を頬に受けながら、目を逸らした。
「何があった、三橋。僕には彩子さんを襲った心当たりはない。
炎に……。火を見たと、彩子さんが錯乱状態に陥った。
だから止めようとした。そこまでは覚えている。夢中でもみあった気もするが、記憶がはっきりしない」
ドアが乱暴に閉じられた。出ていったのは駿河だ。
三橋は依然、騎道を見据えている。
二人の間に、冷えた険悪な空気が流れる。
「なんにもありませんよ、騎道さん。
彩子さんは気を失っただけで。僕らが保健室に運んで水野先生に診てもらいましたから、大丈夫なんですよ」
二人の気迫にうろたえた隠岐は、一気に口走った。
「こいつや駿河クンみたいに、お前も彩子ちゃんのこととなると、えらく血相が変わるんだな」
声が柔らかさを取り戻した。二の腕を掴んで、三橋は騎道の体を起こすと、ふわりと口元を緩める。
「やだねー、いい男が凄むと決まっちゃってさ。
翔くん、タジタジっ」
三橋の豹変に、隠岐は口をあけて呆然となった。
まいったね、と口では殊勝を装いながら、上目使いでうかがう騎道をツンツンと肘で小突いている。
このくらいでも、三橋には愛情表現がまだ物足りない。生憎、右手首にギブスをはめたままなので、手が滑ったと殴るわけにもいかない。
さらなる反撃を企む三橋と、友の怒りが静まったようなのでヨカッタと安堵する騎道の目が、ガチンとあった。
見下ろす高さなのをいいことに、三橋はフンと胸を張って腕を組んだ。
「だがな、悪党! 『抱き締めた』だの『襲った』事実には変わりがないんだからなっ。
一切、彩子ちゃんには近付くな。以上だ」
捨て台詞を決めて、三橋は足音を立てて出ていった。
「悪党って……、僕?」
「さ、さあ……?」
残された二人は、顔を合わせて脱力した。
「用は済んだのか?」
学園長室を出た三橋は、廊下で窓辺にもたれる凄雀に出くわした。
「手間のかかるお子さんで、後見人様もご苦労ですよね」
にこにこと、三橋は凄雀に言った。
「君こそ、いろいろと面倒をみてくれているらしいな」
いえいえと、今度は謙遜する。でも、と付け加えた。
「親の顔が見たいっていうのは、あいつの為にある文句ですよ。よっぽど放任主義で非常識で支離滅裂で、自己意識をあいつに押し付けまくって、最後に放り出したとしか思えませんね。
どうやら本質的におきらく~な奴みたいだから、へろへろしていられるんでしょうけど。回りの一般人には『大迷惑』なんですよね」
意に介さず、凄雀は諭すような半眼で三橋を見下ろした。しばし考えて口を開いた。
「お人好しなのは騎道と張り合えそうだが、それ以外では勝ち目はないな。飛鷹某を取り上げられんように、十分予防線を張っておくことだな」
「! 代行には関係ない話しっす!」
「……いつまでそんな口が利いていられるのか。忠告は最後だぞ」
「俺には、そこまで言われる筋合いはありませんよ!」
声がマジになった。それは凄雀も同じだ。
「本気でないなら目障りだ。騎道にも飛鷹にも関わるな。大怪我をするぞ」
まなざしで怒りを返して、三橋は立ち去った。
凄雀が警戒するのは、近くなりすぎる三人の距離だ。
両刃の剣である騎道に、深入りするのは危険なのだ。
「あんな顔初めてだから、怖かったなぁ。三橋さんって、マジなのかジョークなのか、よくわからないし」
隠岐は騎道の隣に座って、肩で息をついた。
「彩子さんのことが心配なんだよ。冗談に本気を隠してるだけで、いつだってあいつは真剣だ。
でも、今度ばかりは僕ものせられたな……」
三橋と本気で睨み合った。あんな瞬間が来ることを、一度でも考えたことのない相手と。
恨めしいのは、やすやすと挑発に乗ってしまった自分だ。
「彩子さん絡みだと、弱いんですね。騎道さんてば」
「……そんなことないって……」
否定は弱々しいものだった。
三橋と入れ違いに、凄雀が部屋に戻ってきた。
学園長代行に緊張する隠岐を、騎道は先に帰るように促して、執務卓についた凄雀の前に直立した。
「飛鷹彩子を襲ったそうだが、事実か?」
「……。ジョークです。勿論」
叱責を覚悟して身構えていた騎道は、赤面した。
学園長室に運び込まれた理由は『彩子とは一緒にはできない為』らしいので、凄雀にも三橋は吹聴したのだろう。
「何が起きたのか掴めているのか」
「いえ。残念ながら、まるで」
「まさかとは思うが、次はどんな騒動を起こすか楽しみだといった言葉を、鵜呑みにしているのか?」
騎道の否定を、凄雀は聞き流している。
「あれもジョークだ。いくら私が退屈していても、お前に好き勝手はさせんよ」
沈黙を騎道は答えにするしかなかった。
一礼をして、部屋を借りた礼を言い、騎道は退出した。
ドアを閉じて、ほっと息を吐き出した。あれ以上の言葉を言われずに済んだことは、やや意外だった。
せくように、騎道はその場を離れた。
コツリコツリと、内履きのシューズを引き摺る音。不貞腐れて、隠岐が頑丈な階段を降りてくる。
「……ほんっとに。いっつも僕ばっかり除け者なんだから。
『だったら、本当のこと言ってもいいのか!』なんて、何か掴んでるよな、騎道さんの弱み。
騎道さん、珍しく顔が引きつってたし」
途中で、立ち止まった。
「あ……。騎道さんのカバン、持ってきちゃった」
しばらく考えて、ひしと抱え込む。
「ま、いっか。これさえ持っていれば、かならずまた会えるよな。そしたら、僕にも何か力にならせて下さいって、頼めばいいや」
思い付きが嬉しくて、にこにこしてしまう。
「……駿河先輩に『余計なこと』って、また怒られるかなぁ。でも先輩だって抜け駆けしてるし……。
彩子さんとだっていつの間にか仲直りして『秀一』って呼ばれて幼友達やってるんだもの。……僕なんか先輩のせいで、彩子さんに避けられてたのに……、ズルイ」
わはははっ。一人でけたたましい笑い声を上げた。
落差の激しい真顔に戻る。
「……こんな愚痴が先輩に知れたら、絶交されるかいじめられるか。……両方、だよな……」
もうしませーん。すみませーん。
謝りながら、駿河を探しに駆け出してゆく。
しんと静まり返った廊下に、吐き出されたつぶやき。
「ばーか……。聞こえてるんだよ」
階段から死角になる壁際に、駿河は背中を貼り付けていた。別に隠岐の愚痴を聞くつもりではない。
「んっとに、口は災いの元ってあれほど教えてるのに、わからないのかよ」
規則正しい足音が降りてくる。駿河は壁に頭を逸らした。
予測に反して、騎道は降りて真っ直ぐの廊下を選んだ。
「ズルして悪いな、隠岐。お前、口が軽いんだよ。
それに、あんな得体の知れない奴に肩入れできる、だまされやすい性格してるからな」
十分に間合いをとって、駿河は騎道を追いかけた。
一瞬、彼には似合わない執念を瞳に光らせた。