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目の前の男子生徒は、初めて会う顔だった。
礼儀正しく『騎道』と名乗る彼に、この二学期に転入してきた二年生だと、彼女は思い当たった。
黒縁眼鏡の奥の瞳は柔和で、親しみやすい落ち着いた陽性の雰囲気を持っている。やや大きめの眼鏡は、端正な顔立ちにはあまりにも似合わなかった。
遠慮がちに、騎道は上坂の話しを切り出した。自分も三ヶ月ほど前に、知人を突然亡くしたと目を伏せた。
静かな思いやりに彼女は慰められた。だが、騎道の問いかけに、連城真梨は態度を堅くした。
「あなたは、上坂君とどういう関係なの?
どこかで彼と会ったりしたの? あなたが転入する前に事故は起きたんですもの、そんなはずないわよね」
肩までの真っ直ぐな髪を揺らして、目を逸らす。まるで突き放すような言い方だと、連城はすぐに後悔した。
騎道は困ったように言葉を失っている。興味本位でないことは、騎道の眼差しが十分に語っていた。
だから怖い。騎道は真剣に、何かを突き止めようとしている。連城も薄々疑念を抱いてきたことを、知りたがっている。
「すみません。疑うようなことを。失礼でした」
素直な謝罪に、連城は向き直ってしまった。
「いいの。……あんまり、思い出したくなくて。言い方がきつかったわね……」
騎道は眉を寄せて、悲しい笑みを連城に見せた。純粋な暖かさが乾いた心に染み込んでくる。
こんな風に真っ直ぐに、問いかけられたなら……。
「誰かの恨みを買うようなことは、何もなかったわ。隠し事をするのは下手な人だから、すぐにわかるはずだけど、変わった様子は何も。いつも通りの……」
そうしたならあの人は、上坂の最後の日、何を話したのかを教えてくれるかしら……?
視界が滲んだ。騎道の慌てた表情が歪む。瞼を伏せると、思いがけないほど熱い滴が頬を伝った。
「誰にでも真剣で、優しい人だったの……。事故じゃなくても、あんな形で、憎まれる理由なんかないのに……」
いつも通りだなんて嘘。上坂のひどい悩みようは、連城にはすぐにわかつた。強く問い詰めるたら、滑らせた一言。
『数磨君のことで……』
静磨の弟である、一年生の秋津数磨。気弱でおとなしい、常に兄の庇護を受けている少年だった。
「ただの事故よ……。誰かに疎まれたなんて言い出さないで……」
言葉を噛み締めて、浮かんだ兄弟の顔を追い払う。
秋津静磨は上坂の親友で、連城にとっても尊敬できる人物である。最後に上坂に会ったはずの彼は、彼女に何かを告げようとする素振りはなかった。上坂が信頼してきた静磨を、自分も信じ続けるしかないのだから……。
答えるように、手の中に白いハンカチが押し込まれた。
廊下を引き返してゆく騎道の後ろ姿に、連城は見つめ続けてきた上坂の広い背中を重ねた。もう一度、騎道とは会わなければならない。そんな予感がする。
その時は、自分は知る限りを告げてしまうだろう。今日よりも、強い真剣さをもって騎道が現れるならば、たぶん隠し続けてはいられない。彼女の中にも、真実を欲しがる理性的ではない彼女が居るのだから。
一人の女子生徒が休養室を出て、足早に廊下を折れてゆく。特徴のある、肩に触れる緩いウェーブの髪。彼女は飛鷹彩子。騎道ともう一人の男子生徒の三人で、よく連れ立っているのを見かけたことがある。
初めて騎道と会ったのは、上坂の死から一ヶ月も経たない。まだ暑い午後。あれから、騎道と顔を合わせてはいない。
しばらく彩子が去った方向を見守り、背後にも人影のないことを確かめてドアを開けた。
数磨が保健室に運ばれたと聞いて、二人きりで話せるのではないかと、落ち着いていられずに来てしまった。
低く落とした声で、名前を呼ぶ。
連城は、室内の異様な気配に足を止めた。薄暗い霞のような陰りに包まれて、数磨が背を向けて立っている。
彼が向かう電話機は、落ちた受話器が中空でゆらゆらと揺れている。ひくりと、数磨が身動ぎをした。
ほっとして、連城は続けた。
「……聞きたいことがあるの。
でも私、誰かに話すつもりはないわ。これだけは信じて欲しいの。あなたたちを傷付けるつもりなんてない」
何かが、連城に見えてきた。霞ではない。陰りは、人の輪郭に近くなる。小さな頭部を頂点に、まるで打ち掛けが裾を引くような。……女だ。
考えるより先に、連城の全身が震え出す。
数磨が振り返るのと、女の影が微笑んだように見えたのは、ほぼ同時だった。
「……!」
射抜く残忍な眼光。彼は脆弱な数磨ではないのだ。
後退りながら、恐怖が形をもって襲い掛かってくることから、逃れられないと確信していた。
目の前が絶望に紅く染まり、もう何も見えない。
この日。10月18日は、騎道にとってだけでなく、連城にも特別な日となった。