5 (二)
「あ!」
車の中から隠岐が声を上げた。
重厚な凄雀邸の門前に、二台の車がかち合った。
すでにダークグリーンの車を降りていた三橋は、妙案を口にした。それは、迷惑そうな顔で車を降りない駿河と、騎道にカバンを差し出す隠岐を眺めつつ。
「なんだ、物騒な役者が揃ったじゃないの。
ちょうどいいや。騎道、何か俺たちとこいつらに言うことあんだろ?」
さらりと要求する。
物騒な役者とは、三橋を除け者にして死闘の現場に駆けつけた人間たちを指している。意味を乗り込めない騎道は、彩子に睨まれてようやく悟った。
騎道は頭を深々と下げる。
「あの……。すみませんでした。ご心配かけて」
「皆様のお蔭で、無事、退院することができましたっ」
三橋が先んじる。恐縮して、騎道は言い継いだ。
「これからは身を慎むようにいたします。どうぞ今後とも、よろしくお付き合い下さい」
駿河が、何か言いたげに苦笑いをした。
「よーく、出来ました」
パチパチパチ。三橋が手を叩く。
一転。本気かよ? と呆れた目をずけずけと突き付ける。
「三橋にも、ごめん。心配かけて」
そうしてすぐに、照れてしまう二人だった。
深まった秋は、夜を清々とした冷気で包み込む。
風もなく、凄雀家の離れを囲む竹林さえ、葉を騒がせぬ一夜だった。
騎道は和用の机で、電話番号が記されたメモを前にしていた。お好み焼き屋で、三橋が席をはずしたすきに、彩子が制服の胸ポケットに入れたのだ。
『話しがあるの。今夜、電話して』
大事な話しとは何だろうか。三橋の前ではできない話し。とすれば想像がついて、騎道はためらっていた。
10時を、時計の針は回ろうとしている。
電話は母屋にある。立ち上がったが、伸ばした手は、メモをハンガーの制服に突っ込んだ。
耳を澄まし、冷えた床を歩く足音を聞き付けた。
引き戸を開けたのは凄雀だった。
「何か?」
「久瀬光輝の墓は慈円寺にある」
前置きのない言葉に、騎道は凄雀をまじまじと見返した。
「犯人を挙げるまで、墓参は許さない約束だったな。
明後日の午後なら空いている。そこで落ち合おう。墓まで案内してやる」
喜びと悲しみの入り混じった表情で、騎道はうなずいた。
引き返そうとする凄雀を、思わず呼び止めていた。
「なぜ僕に隠したんですか? 本気で、連城真梨が自殺したと思われたんですか?」
「今更騒いでどうなる? 死んだ者は生き返らないぞ」
「事件はまだ、終わってはいません……」
「久瀬の死の原因がはっきりしただけで十分だ。
あいつはドジを踏んだ。それだけのことで済んだ。
一点の不祥事もなくて、私は喜んでいるくらいだ」
取り合わない凄雀の態度に、騎道は言葉を無くした。
「この先どうするつもりだ?
年相応に学生を続けるのもかまわんぞ。誰と付き合おうと、詮索は控えてやる。火遊びでも十分楽しむことだ」
騎道には出来そうにない一例を上げてやる。
何かまだ言いたげな騎道へ、更に騎道は打つような言葉をかけた。
「飛鷹彩子のことは忘れろ。
お前さえ余計な手出しをしなければ、事はいずれ在るべき所に治まる。
人は終生、絶え間なく悲劇に見舞われるわけではない。
今を過ぎれば、幸福な道はひらける」
「……わかっています。ですが……」
知らないうちにワークシャツの裾を握り締めていた。
「ですが? 他に何か企んででもいるのか?」
「……いえ」
萎縮して否定する騎道に、凄雀は肩を落とした。
「私の気を変えたいのなら、もう少しはっきりとものを言え。そこまで抜けた男だと、私を失望させたいか?」
騎道は途方にくれた。彼を崩せないのだ。
凄雀にとって、事件の真の終結など意味のないことなのだ。そんな些細なことには拘らない。気かけているような顔をして、自分の立場からは一歩も出ない。
それは最良の生き方だ。同情や耽溺などとは無縁に近い。
『誰彼構わず同情なんかするな!
最後に結局、お前はそうやって泣くんじゃないか!?
無駄な愛情は最初っからかけるんじゃない!』
久瀬光輝に何度となく言われても、愛情の代償は騎道の場合、大抵は涙だった。
凄雀の言葉はすべて、傷付かずに生きる為の正論だ。
「お前は居るはずのない異分子だ。お前が発端になる。
少しは自覚できているなら、少々の悲劇を見過ごせるほど利口になれ」
異分子……。
全身の皮膚を、大きく裂かれたような思いが走った。
凄雀は最後に言い残した。
「期限は明後日。その間に、身の振り方を決めろ」
開け放した戸から冴えた夜気が流れ込み、騎道の体を冷やしてゆく。
騎道は、弱く首を振った。
「……違う。僕だけじゃない……。
光輝がここに来た時点で、もう動きだしていた。
僕らは引き寄せられたにすぎないはずだ……」
宿命の牽引力によって、集ってしまった。
引き寄せたのは何か?
今、騎道を引き止めるのは。
飛鷹彩子……。
騎道は部屋の明りを消した。デニムのジャケットを掴み、ためらわず外した黒縁の眼鏡を机に乗せた。
初めてかける電話番号だ。意味も無く焦る自分が、少し恥ずかしい。呼び出し音がふっと途切れた。
「夜分遅くにすみません。騎道君、居ますか?
私、飛鷹彩子といいます」
「あら。夕方いらした方ね」
しばらく待つと凄雀夫人は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね。部屋の明りが消えているから、もう寝付いたようだわ。起こした方がいいかしら?」
「あ。いえ……。それならいいんです」
もう眠っているの? こんな時間に?
そんなはずない、電話を約束したのに。また……?
きっと騎道は、夜を彷徨っている。
彩子はブルゾンを羽織って玄関へ向かった。自分なら、騎道を見つけ出せる自信があった。
理由なんかわからない。けれど今夜、騎道に会える。
会いたいのだ。
『そこを出るな……!』
声ではない。なのに、聞こえた。
頭の中に余韻がびいんと響く。
透明で涼しくて、厳しい制止の言葉。
思わず、門柱のコンクリートに手を付いた。
今のは何だった? 少なくともあれは、男の声。
……騎道?
会わなければという思いに、背中を押された。アスファルトへ恐る恐る踏み出す。何も、変わったことはない。
数十メートル先を、誰かが歩みよってくる。
街灯のくっきりとした光を横切り、背後にぼんやりとした光を引き摺った……。
陰のない女だ。陰っているのは、顔の部分だけ。両手を掲げて、着物らしい薄絹を支えている。
「! な……に……?」
体が知らずに震える。わかる。何であるか。
掲げた薄絹の下から、明るいきらめきが地面に雪崩落ちている。金色の波打つ髪だ。
その下で衣擦れをする裾を引いた打ち掛け。美しい帯の下、着物の裾まで動きはない。
歩いているわけでもないのに、近付いてくる。
彼女は、彩子にとって恐怖そのものに映った。
「こないで……!」
彩子が自分の存在に気付いたのが嬉しいのか、陰の下、それだけは生々しい紅い唇が、くっと歪んだ。
「……おいで」
細く若い女の声が誘う。彩子は首を振った。
「やめて!」
引き摺られる。甘い呼びかけが全身に絡み付く。
同じものを昼間見た。あの時は、醜くしわがれた声が彩子を呼んだ。
完全に記憶から欠落していたのに、今ははっきりと思い出せる。あの女が血の色の炎を操って、彩子に放ったのだ。
「怖がらなくともよい。
我らは……」
不快げに、右手を高くしてそちらを伺った。
すぐに、彩子をキッと仰ぐ。形相が変わる。
「速く! おいで……!」
突如として、老婆の悲壮な枯れ声が放たれる。
「いやっ!!」
女が眺めやった暗がりから、男の腕が突き出された。
逃げ出すように、女の体が水平移動する。
微かに遅れる。大気に一条、白刃の光が走り、薄絹を大きく切り上げた。
右腕から右肩口まで、鮮やかな手捌きに血液が吹き出した。まるで捌け口を求めていたかのような奔流。
アスファルトにも大量に撒き散らされ、さながら血の雨。
女はぺろりと一滴を舐めとると、至上の贄を味見した顔で、唇に笑みを造った。
白い華奢な手の上で、どろりとした血液は乾いたわけでもないのにどす黒い紅を見せている。それがめらめらと炎を見せ始める。
無言で相対する男、いや、黒い鞭のように研ぎ澄まされた肉体をもつ少年は、あるはずのない炎が再生される場を目にした。それが流れ出てやまない血液を吸い上げ、膨れ上がり彼に襲いかかる。
左手の掌で炎の腕を弾き返す。右手は大きく指を伸ばし、一度燐光させた。次なる炎が繰り出される。
音もなく、右の手刀が炎の腕を打ち崩した。
「……助けて……。誰か……! 騎道……!?」
声に振り返ると、彩子が炎に包まれ倒れている。無我夢中の呼び声が、少年をぎくりとさせた。
呼吸するのも困難なのか、彩子は肩であえぐ。炎に肌だけを焼かれて、唇を噛み締める。
少年は背後、女へと右手刀を振り下ろした。
白刃の軌跡が女に振り落ちる。うろたえ、わなないた。
不気味な炎が一瞬にして消えた。
攻撃の要を失い、敗北がこれから訪れようというのに、女は高く笑った。耳障りな甲高い怒鳴り声で、少年を指差した。
「お前……。お前を、知っているよ……!
お前もだ……!! あの男と同じように殺してやる……!」
なぜか、少年の動きを一瞬戸惑わせた。
振り切った彼は、右手を高く頭上にかざす。
「待っておいで! それまでおとなしく、待っておいで!!
よくぞここに来た。お前にも会いたかったよ!」
遠ざかる。少年は後を追う。
が、何者かの駆けつける足音が近い。
「どうした? 何かあったのか!」
闘争の気配と、少女の悲鳴を聞きつけてきたのだ。
飛鷹は道路に倒れる少女に気付き、抱え起こした。
少年の姿も不気味な女の姿もない。あるのは、路上に転々と広がる血。異臭を放ち乾こうという血液だった。
「どうした! 彩子!? こんなところで何があった!?」
「ええ……? 何、お父さん?
放っておいて……、眠いんだから……」
体を揺さぶると、彩子は辻褄のあわないことを言い出した。飛鷹はそんな彩子の姿に歯噛みした。
「! 騎道! そこに隠れているんだろう!?
……説明をしてもらおうか!」
少し先の右に折れる路地で、壁を背に気配を殺す騎道。
ジャケットやジーンズに浴びた返り血を見やる。これでは出てゆけない。もともと出てゆく気もない。
飛鷹は言い続ける。
「認めんぞ。巻き込むなと言っておいたはずだ……」
「何なの……。騎道がどうかした?
……何か、あったの……?」
瞼が上がらないほど、寝ぼけている。
騎道が眠りと恐怖を摩り替えたのだ。恐怖の深さが、睡眠を欲する強さに比例する。
腕の中でぐったりとして、まだ何か言いかける彩子。
「眠いなら寝ていろ。……何も起きちゃいない」
抱え上げて、記憶していた以上の重さに、飛鷹は内心動揺した。
年月を感じた。娘であることの距離を実感したのだ。
父子が立ち去ると、軽い足取りで引き返してきて、騎道は自分の服に残る血糊を見下ろした。
瞑目して、しばらく。チロチロと青い炎がそこから立ち昇る。路上も服も明るい青に包まれて、血糊は焼けて跡形もなくなってゆく。
騎道は唇を引き締めて、明りの灯った飛鷹家を仰いだ。
今なら、飛鷹に答えを返せそうだった。
飛鷹だけでなく、彩子に悪意を抱き、彼女の生を踏み躙ろうと画策するものすべてに突き付ける。
『彼女を守る』
たった一言の資格を探して、当てなく彷徨った。
迷子はもう、今夜で終わり。
『完』




