十三話
龍次と菊之介は、ふつうに東海道を来るよりも早く着くから、ということで、酒を載せた九重屋所有の船に乗ってやってきたらしい。
皐月に江戸入りした季節外れの船とは、このことだったのだ。
龍次をことのほか可愛がる祖父である先代は、今は悠々自適の隠居生活に入っており、若いころ自分が物見に行った江戸を彼にも勧め、お目付け役に幼なじみでお店の手代である菊之介をつけ、船に乗せてくれたのだそうだ。商売物を積んだ船に乗ることにより、表向きは商売のための江戸行きという名目もでき、簡単に発てたという。
船の中で龍次はしぶる菊之介を説き伏せ、主人と従者の関係を偽ったらしい。そうすれば番頭の監視の目もすり抜けられ、気楽に遊べるから、とのことだが、本人はたしかに気楽だろうが菊之介にはいい迷惑であろう。とんだわがまま旦那だ。
そう言ってやると、龍次は聞かないふりをして、なよ竹がかっこうのためだけで実際に使ったことのない煙管に火をつけ、我が物顔で吸い付けた。菊之介は菊之介で、恐縮している。
初めはまんまとだまされ呆れていたなよ竹も、すっかり毒気が抜かれてしまった。
「やっぱり、菊の方が若旦那に見えるんだよな。みんなころっとだまされたじゃねえか。ま、俺にゃあ通人のふりなんかできねえからな、肩がこるぜ」
「わたしだって、いつバレるか肝を冷やしていたんですよ。慣れないことをさせないで下さい」
今やすっかり立場が逆転したふたりの会話を聞きながら、なよ竹は思った。
本当の若旦那は、龍次だったのだ。
なよ竹を気に入り、実際に揚代を払って会いに来てくれたのは、他でもない彼。
わざわざ身分を偽ってまで、なよ竹の本当の姿を見てくれたのも、彼だ。
あの稲荷での言葉──『もし俺が、若旦那だったら』──は、まだ正体を明かしたくないゆえの演技だったのだろう。
自分と彼のこの想いは、不義理でもなんでもないのだ。
そのとき、なよ竹の胸にいつぞやの卯花の台詞がよみがえった。
『うまくいけば、身請けして京へ連れてってもらえるかもしんないよ』
卯花は菊之介とのことを指して言ったのだが、今は違う。
合い惚れの龍次とのことだ。
まさか、とは思う。
そんな都合のいいことを願うのも罰当たりだ、とも。
しかし──。
なよ竹の身はにわかに火照ってきた。
彼はどんなつもりなのだろう。
きっと自分を好いてくれているはず。稲荷の夜の真剣な目は、そう語っていた。
菊之介に譲られた座布団の上にあぐらをかいた龍次を、なよ竹はすがるように見つめた。
視線を感じたのか、龍次もまたなよ竹のほうを向く。
目が合うと、きつめの顔をすこしほころばせた。その笑顔に、胸がぎゅっと絞られた。
「せっかく隠しごとがなくなってさっぱりしたところだが、そろそろ戻らねえとな」
「もう? 怪我もしてるし、今夜は泊まっていったら……」
なよ竹が返すと、龍次は首を振った。
「いや。そうじゃなくて、京に帰る頃合なんでな。さすがに祖父さんが文をよこす時分だ」
まるで天気の話でもするような、あっさりしたふうで龍次は答える。
「え──」
なよ竹の目の前が、瞬時にくらくなった。
首筋から背にかけて、ざざあと血の気が引く。
「大旦那さまは半年の間だけ、というお約束でしたからね。お名残惜しいですが……」
菊之介の言葉も、もはや耳に入らない。
ごくりと唾を飲み込むが、のどの渇きは潤いそうになかった。
そんななよ竹のようすを知ってか知らずか、龍次はのんきに笑った。
「評判のなよ竹おいらんを間近に見れた俺は果報者だ。一番の江戸土産になるだろうぜ。祖父さんにはおまえの錦絵でも買ってってやるかな。あの人ァ、今でこそ釣りだの俳諧だのと枯れちまったが、若いころは島原でも名の知れたお大尽だったらしいからな、きっとわしも一目ぜひ、つって江戸へ来たがるぜ。そのときゃお手柔らかに頼むぜ、なよ竹」
屈託なく笑いかけられ、なよ竹はかたまった頬を無理やり持ち上げて笑顔を作った。
ああ、そうか。
彼のほうでは、自分は単なる『噂に聞く吉原の傾城』で『いい江戸土産』でしかないのだ。
あの出格子の夜も稲荷の夜も、しょせん遊女相手の戯れか。
自分ばかりが熱を上げてしまうなんて、馬鹿らしいにもほどがある。
ましてや、身請けなんて夢のまた夢。
なよ竹は面を伏せた。閉じたまぶたの合わせ目に、涙がにじむ。
吉原は男と女の駆け引きの場所。
どちらかが負ければそれで終わり。
現にくだんの燕之助は、そうして駆け引きに負けたのだ。
本気で惚れたが負け。
まことを信じたが負け。
吉原とは、そういう場所なのだ。
──禿立ちの根っから遊女のくせに、そんなことも気づかないなんて、笑わせらァ
なよ竹はふたりに気づかれないよう、そっと目許をぬぐった。




