第六十話:箱入り
開闢の言葉といい…想定通りに悪い方へと進む展開に、菜摘の表情はみるみる強張っていった。
「私も鬼ではない。大人しくついて来れば、今逃げていった者たち――そして、そこにいる女は見逃そう」
「はぁ!?僕のどこが女なんだよ!!バァァァ〜カ!!」
空気を読めない冬樹が叫んだが、珠玉の耳にも菜摘の耳にも届かない。
一触即発の緊張が場を支配し、再び重苦しい静寂が訪れた。
「ほーんと、僕もいるのに置いてけぼりなんて…信じらんない」
小さく冬樹が呟く。
右手の薬指を折るように曲げ、低く囁いた。
「魅せるよ」
その瞬間、菜摘が珠玉に飛びかかる。
懐から素早くナイフを抜き放ち、真っ直ぐに首を狙って振り下ろした。
「なるほどな。これは相性が悪い」
そう呟く珠玉。
菜摘の攻撃を、まるで見ていないかのように間一髪で躱す。
しかし、長い黒髪が半分ほど宙を舞い、床に落ちた。
「チッ。魔法の解除に適性がある…開闢みたいに“効いているけど効いていない”状態ではないのが救いだが…」
菜摘の冷や汗が一筋、頬を伝う。
魔法解除の適性――それは才能ではなく、生まれに左右される稀な能力。
三等親以内に魔法使いがいなかった場合にのみ稀に現れる、と言われるが、その全貌は未だ謎に包まれている。その能力は様々だが、珠玉においては精神操作を初めとした精神への攻撃に対する魔法解除に長けているため、お互いに分が悪い――それだけは確かだった。
「そうか。お前は、魅了か」
「あーあ。バレちゃった。最低」
話しながらも冬樹は指をさらに曲げた。
「チッ!」
冬樹が何かをしている間も、菜摘は攻撃の手を止めない。
避けるだけで一向に反撃してこない珠玉に苛立ち、思わず舌打ちが漏れる。
「魅せるよ」
菜摘の刃をかわす位置を予測し、冬樹が背後に回り込む。
珠玉の真後ろで小さく囁くと同時に、菜摘は一気に踏み込んだ。
「っ!!」
さすがの珠玉もわずかに目を見開いた。
次の瞬間、菜摘のナイフが珠玉の腹部に突き刺さる。
「なんで…避けないっ!!」
菜摘は思わず叫ぶ。
目の前の珠玉は、既に魔法を解除されたはずなのに、微動だにせず菜摘を見据えていた。
「箱入り息子には無理だろうな。大切に、大切に育てられた証だ。お前は“殺し”というものをまるで理解していない」
珠玉の冷たい瞳が、菜摘の心を貫く。
刃は深く腹に刺さっている。しかし――狙った心臓からは程遠い位置だった。
「殺しとは、相手の命を奪うことだ。同時に、自身も殺される可能性を常に孕んでいる。相手を殺さねば、自身が殺されるかもしれない――そうは思わなかったのか?」
珠玉の声が低く響き、菜摘の背筋を冷たい汗が伝う。
指先が震え、刃を握る力が抜けそうになる。
「例え、家族だろうと。弟だろうと。私はお前を殺すぞ」
その言葉に菜摘の瞳が見開かれる。
ボキッ。
心のどこかで、鈍い音がした気がした。
勝てるはずがない――最初から分かっていた。
殿を務めることが自分の責務だと、そう思っていたはずなのに。
「菜摘!立って!!菜摘!!菜摘っ!!」
冬樹が何度も菜摘に呼びかける。
しかし、菜摘は座り込んだまま動かない。
腹にナイフが刺さった珠玉よりも、覇気のない顔をしていた。
「連れて帰る。運べ」
珠玉は冷たく告げ、踵を返す。
菜摘は無抵抗で腕を掴まれた。
「なっちゃん、お帰り。やーっと戻ってきた〜」
「やめとけやめとけ。母様のお人形をイジメたら、兄様にも父様にも怒られるぞ」
珠玉の影が伸び、そこから二人の男が現れる。
どちらも軽い調子で菜摘に言いながら、その腕を掴んだ。
コンコンコン
不意にノック音が響く。
珠玉が入ってきた扉からではない。
ドアが他にあるはずもなく、その場の全員が息を呑む。
「お手紙は読んで燃やして捨てました。宣戦布告なんて何時代の戦争ですか?どうやら、珠玉の魔女様はよほどご自身のお力を見せつけたいらしい。それ、厨二病っていうんですよ」
「「ぶふっ」」
どこからともなく聞こえた声に、二人の男は吹き出した。
だが――ほんの一瞬、瞬きをする間に菜摘も冬樹の姿も消えていた。
「癒しの魔女の手の者か」
珠玉の視線が窓へ向かう。
開いていなかったはずの窓が、今は開け放たれ、カーテンが風に揺れていた。




