第六十一話:売られる恩
目覚めたとき、一番に目に入ったのは――
「オバサン、手をどけて」
開闢の顔だった。至近距離にあるその瞳は、冷たく光りながらもどこか愉しげだった。
視線を逸らし周囲を見渡すと、車内だと気づく。
「大人しくしてくれ。あまり手荒な真似はしたくないからね」
そう言いながら、開闢の指先がひよりの首筋をなぞる。
その表情は“手荒な真似はしたくない”という言葉と裏腹に、暴れるひよりを心待ちにしているようだった。
「っ!!」
「おっと」
急ブレーキが車内を揺らす。
信号で停まった衝撃で、ひよりの体は前へ投げ出されかける。
その瞬間、開闢が膝枕するような格好でひよりを支え、間近に顔を覗き込む。
「あ、叡智の魔女様ではありませんか!お久しぶりです!」
軽快で場違いな明るい声が車内に響く。
この声、この運転の粗さ、そしてキンキンに冷えた車内――間違いない。
「…もう二度とこの人の運転する車には乗りたくないと思ってた、あの警察官」
忘れられるわけがない。自分勝手で無謀すぎる運転。
一度きりの遭遇だったはずなのに、なぜか記憶に焼き付いている。
「はい!その節はどーもどーも!あの時は知り合いから警察の制服ひったくって借りてただけなので、実は警察官じゃないんですよ!」
まさかの再会に、ひよりはため息をつく。
「ひより、言っておくが、彼は旧自衛隊のメンバーからなる軍部――“始まりの使徒”の元帥だよ。
恩の押し売りが得意な男だ。あまり仲良くしないことだ」
開闢が肩をすくめるように言い、ため息を漏らす。
まさか開闢誰かに“ため息をついている”光景を見る日が来るとは思わなかった。
それにしても、なぜ軍の元帥が運転手をしているのか…。
「いやぁ、開闢様に恩を押し売っていたら、いつの間にかただのタクシー運転手から元帥になってまして。ぜひぜひ叡智様とも仲良くしたいです!」
「タクシー…運転手?この運転で?」
白目を剥きそうになるひより。
タクシー業界はよほど人材不足なのだろうか――と本気で心配になる。
「それより。降ろして」
運転手と話す気はないとばかりに、ひよりは声を低くして告げる。
だが、その問いに答えたのは開闢ではなく運転手だった。
「大変申し訳ありません!それができないんですよ〜!」
その軽い口調に、ひよりは眉をひそめる。
馬鹿にしているのかと苛立ちが募り、信号待ちの際にドアを蹴破ろうと考えた。
「お気をつけください。この車内は既に私のテリトリーです」
運転手の声が急に低くなる。
ミラー越しに視線を合わせると、その目には冷たい光が宿っていた。
“逃げようものなら、容赦はしない”――そう告げるような目だった。
「私を置いてけぼりでお話なんて、妬けるね…ひより」
横から、開闢が静かに口を開く。
ひよりが顔を向けた瞬間、開闢の手が首元へ伸びた。
「思うようには育たなかったけれど…今日から君が元帥だ。私自ら教育してあげよう」
“思うようには育たなかった”――その言葉の意味に、ひよりはすぐ気づく。
「いらない。私は私のために教団と生きる。辛いことも楽しいことも、全部私が決める」
首元に迫った手は、進路を変えてひよりの頬に添えられる。
真っ直ぐに開闢を見据える瞳には、強い光が宿っていた。
「同じところまで落ちてこなきゃだめじゃないか。ズタズタに壊して、快も不快も分からなくなるくらい狂わせるはずだったのに…余計なことをしてくれるよ、彼らは」
歪んだ笑み。しかしその奥に潜む怒りは、今までに見たどの開闢よりも恐ろしく感じられた。
それでも、ひよりの瞳は屈しなかった。
「開闢様、到着です!」
運転手が軽い調子で声をかける。
開闢はハッとし、あっという間にいつもの胡散臭い笑みに戻った。
「どうぞどうぞ」
素早く運転席から降り、後部座席のドアを開ける運転手。
開闢はひよりを見下ろし、にやりと笑いながら車外に出る。
「貸しですよ?叡智様」
運転手は開闢を背にそう告げる。
恩の押し売り――やはり、仲良くしたい相手ではない。
「あぁ、そうだ。ひより」
車を降りた開闢が振り返る。
「だめじゃないか。創造神様の思し召しに沿わないことをしたら」
“思し召しに沿わないこと”――ひよりの脳裏に、あの女性の姿が浮かぶ。
隼人と奏人と三人で訪れた、アーケード商店街近くの路地裏で対峙した反魔女の女――東雲朱里。
「あの人に…何を…」
拳を強く握り、目を見開くひよりに、開闢は軽く答える。
「創造神様の思し召しのためさ」
胃の奥から込み上げる何か。
脳が茹で上がりそうなほどの怒りが、血管を駆け巡る。
「許さない」
ドスの効いた声が、車内に低く響く。
「許さないも何も、それが私たちの仕事だよ」
それだけ言い残し、開闢は建物の中へと消えた。
残されたひよりは、怒りで震える自分の拳を見つめる。
強く握りすぎて、爪が食い込み血が滲んでいた。




