女帝の遺言
少年が馬の首を廻らせ、ゆっくりと門に向かうと、門兵達がザッと自分に向かって敬礼した。念の為、宮廷魔導師のマントを纏ってきて良かったと胸を撫で下ろしながら、門をくぐり宮殿に向かう。
かつて通っていた頃に比べ、明らかに建物も人口も増え、少し窮屈なくらい賑やかな大通りを抜け、宮殿の裏手の馬房に馬を預けて裏木戸を開けた。
「……あ……貴方様は……!」
警備兵は突然の来訪者のフードから溢れる髪色を見てゴクリと息を飲んだ。胸元の紋章に釘付けになる。
初代皇帝に連なる者である事を示す紋章だ。これを身に付ける者は、最早一人しか存在しない。
「陛下は?」
「は、はい。ただ今……!」
バタバタと兵士達が宮殿の中に伝令に走り、その後を追うように廊下を歩く。
喪に服した宮殿内は静まり返り、ただ走り回る兵士の足音だけが虚しく響いていた。
出迎えに来た近衛兵に連れられ、謁見の間の扉を開けると、喪章を付けた壮年男性が玉座から立ち上がった。
「……ご無沙汰しております」
白髪と化した髪を撫でつけ、銀色の双眸を伏せて最敬礼するのは、この帝国一の権力者である皇帝だ。彼が敬意を表する相手は限られている。
そしてこの訪問者はその数少ない相手。
訪問者がマントを脱ぐと、乳白色の髪がさらりと肩を撫で、その少女めいた美貌を彩った。彼はマントを近衛兵に預け、皇帝に問い掛ける。
「ガーシュ……ですか。立派になりましたね。お母上は?」
「はい。父の寝室に……」
「会ってもいいですか?」
「はい。きっと喜ぶと思います……」
皇帝は目を細めた。物心ついた頃から変わらない姿。彼はこの帝国の建国に大きく関与した英雄の一人だ。ここ半世紀ほど姿を見かけなかったが、流石に今回の訃報に駆け付けてくれたという事か。
一見少年の姿の英雄は近衛兵の案内に従って、謁見の間の奥の扉をくぐって行ってしまった。
「……ティアナ……」
誰もいない寝台に縋り付くように倒れ込んでいる老女にそっと触れて声を掛けると、そのやせ細った肩がピクリと震えた。
「……モトロ……来てくれたの……?」
振り返った老女の色違いの目は虚ろだ。
「みんな……逝ってしまったわ……。アルスも……ヒバリも……レイモンドも……フィアードも……!」
ハラハラと零れ落ちる涙をそっと拭う。喪服に身を包んだ身体はもうすっかり痩せ細り、背中も丸くなっている。
「……悲しむぐらいなら、無かったことにしてしまえばいいじゃないですか。貴女なら、彼と二人で永遠の時を生きられたのに……」
そんな事を彼女が望んでいない事は百も承知だ。それならば最初からそうしていた。わざわざただ人と同じように老いる必要などなかったのだから。
モトロはすっかり色を失ったティアナの髪を優しく撫で、最愛の夫を喪った悲しみに打ちひしがれる老女の身体をゆっくりと癒した。
「ああ……モトロ。ありがとう……楽になったわ」
くしゃりと顔を崩して笑い掛けられ、モトロはグッと胸が苦しくなるのを耐える。
「……貴女は……僕を置いて逝くんですね……」
「そうね、ごめんなさい。彼が……待ってるから……」
時を自在に操れる彼女であれば、同じ時を生きる事も出来るのに……こうまで手厳しく拒絶されるとは。
「貴女という人は……」
モトロの溜め息を聞いて、老女の目にようやく光が戻る。
「貴方は……変わらないわね。……アルス達の葬儀以来……かしら?」
「ええ」
母ヒバリと彼女の実父アルスの葬儀に駆け付けた後、モトロは女帝の前から姿を消した。世界中を巡り、戸籍の管理体制を充実させ、各地の情勢を確認し、連絡設備の保全管理をする事を口実に、老いていく彼女から距離を置いていたのだ。
「ティアナ……僕は……」
「モトロ、貴方にお願いがあるの」
ポツリ、と呟かれ、モトロは自分の言葉を飲み込んで目を伏せた。もう彼女の心は半分彼岸に渡ってしまっている。自分の言葉など届きはしないのだ。
「今後……私達の子孫が……帝国を我が物として、人民を苦しめるような事があれば……」
ギュッと袖口を掴まれ、モトロは瞠目した。彼女のどこにこれほどの力が残っていたというのだろう。
「……ティアナ……」
「貴方が……帝国を滅ぼして。国は……民あってのもの。民を蔑ろにするような為政者は……貴方が排除して。それが、私の血を引く者であったとしても……!」
カタカタと震える手を包み込む。
「……それが……貴女の望みであれば……」
「……お願い……ね……。ありがと……う……」
フッと力を失った身体を支え、抱き上げる。驚くほど軽くなってしまったティアナの身体を寝台にそっと横たえ、近衛兵に声を掛ける。
「すぐに陛下を呼んでください」
凛とした声に若干の緊張が感じられ、場が一気に凍りつく。
「……先帝……ダイナ様……危篤です」
モトロの声は風の精霊に乗って、宮殿中に響き渡った。
すぐに彼女に連なる者達が集まり、寝台を取り囲んだ。枕元には白髪の美少年が寄り添い、老女の命の灯火がすきま風に揺らめかぬように優しく優しく癒しの気を送り続けている。
「……ほら、皆さん……お揃いですよ……」
優しく耳元で囁くと、老女の口元が僅かに綻んだ。一筋の涙が頬を伝う。
「お疲れ様でした。後のことは僕に任せてください」
彼女の夫が亡くなって四十九日目。初代皇帝ダイナは愛する夫を追うように冥土に旅立った。
◇◇◇◇◇
不思議な事が起こっている。
薄緑色の髪、漆黒の目、白銀の目……神の一族に現れるその色彩。だが本来、神の色彩は親から子に受け継がれる事はないと言われてきた。
それにも関わらず、神聖帝国の皇帝は代々神の色彩を纏っているのだ。
「……これは、調べてみる必要がありますね……」
第6代皇帝の即位の知らせを聞きながら、モトロは杯を呷る。2代目皇帝ガーシュは白銀の目を持って生まれてきた。その息子、3代目皇帝は薄緑色の髪。そこまでは実際に立ち会ってきたから間違いはない。だが……。
モトロは古巣に戻り、初代皇帝の紋章を胸に、宮殿に向かった。
「なんだ貴様は?」
門兵はいかにも怪しげな白髪の少年を睨み付ける。少年は面倒くさそうに胸元の紋章を指差してチラリと門兵を見上げた。
「この紋章をご存知ない? 帝国軍人ともあろう者が、初代皇帝の紋章をご存知ないとは……」
ニヤリと笑う少年の姿に門兵の背筋が凍る。これはただの少年ではない。
「何事だ」
奥から出てきた上官らしき兵士はその少年を見て目を丸くした。
「その……紋章……、そのお姿……!」
「ああ、一応申し送りはされてるんですね。良かった。宮廷魔導士に空きはありますか? 少しお手伝いさせてください」
ニコリ、と花がほころぶように笑い掛けられ、上官以外のその場の兵士はみな顔を赤らめ、上官は真っ青になって大慌てで宮殿内部に伝令を飛ばした。
『大賢者モトロ様お越しです!』
モトロは帝国図書館に立ち寄り、その立ち入り禁止の書棚を漁っていた。自分が整理した戸籍と皇族の系図を見比べ眉を顰める。
4代目皇帝は、生まれて間もなく市井から養子に迎えられ、皇女の婿となって即位している。5代目も然り。この度即位した6代目は5代目の4番目の皇子であり、その母親は側室であった。
「……血が……途切れている……?」
モトロはゴクリと息を飲み、5代目の他の3人の皇子達が夭折している事に目を見張った。
そして、6代目の婚約者の系図を見て、ホッと胸を撫で下ろす。来春挙式予定の婚約者は元を辿れば初代皇帝の第二皇子の血統であった。
「……それにしても……」
まるで、神の色彩を持たない者を皇帝に据える訳にはいかない、という風潮はいかがなものか。そして、4代目、5代目を養子に迎えた経緯が気になる。まだ戸籍に痕跡が残っているのはいい。いずれ、この痕跡すら消して、形ばかりの継承が行われたらどうなるのだろうか。
モトロはそっと系図を棚に戻し、目を伏せた。やはり中枢から離れるべきではなかったのだろうか。常に自分が目を光らせておくべきだったのだろうか。
人間と同じ時を生きない自分が国政に口を出すのは憚られるのも事実。どの程度関与するべきか……彼はふらりと図書館を出て、中庭を歩き出した。
昔とあまり変わらない中庭を散策し、宮廷魔導士の塔に向かおうとした時、ドン、と小さな身体が勢いよく自分にぶつかった。
「……きゃっ……!」
ぺたん、とその場に尻餅をついた少女に気付き、モトロは慌てて手を差し伸べた。
「すみません、考え事をしていまし……」
「こちらこそごめんなさい!」
パタパタとドレスの埃を払って立ち上がった少女は背中まで届くであろう赤毛を美しく結い上げ、アーモンドの形をしたハシバミ色の目でこちらを見つめていた。
「……ティ……!」
記憶の中にある彼女の面影を色濃く宿した少女。その色彩は、彼等の血を引いている事を如実に表している。
「ティリナ様っ!」
パタパタと侍女らしき女性が彼女に駆け寄り、乱れた髪や服を直し始め、ギロリとモトロを睨み付けた。
「このっ! 魔導士風情が! このお方を誰と心得ているっ!」
「……あ……失礼しました」
いくら初代皇帝の縁者とはいえ、見た目は少年であるモトロはどう見ても駆け出しの魔導士だ。慌ててその場に跪き、頭を垂れた。
「この方はティリナ・デュ・アラセナ・モンデュール様。皇帝陛下のご婚約者ですよっ!」
「……は……。申し訳ありません」
モトロはやはり、と納得してまたチラリとティリナを見る。……似ている。いくら血を引いているからと言って、これほどまでに似るものだろうか。
胸の内に忘れていた感情が蘇り、ドクドクと心臓が早鐘を打ち始める。
「ごめんなさい、顔を上げてください。あのね、ジーナ。私がぶつかってしまったの。この人は悪くないわ」
「ですが……」
「あの……お名前を……」
「……モ……モンティと……申します……」
大賢者モトロの名は有名だ。場合によっては侍女が無礼を働いたと謗りを受けるかも知れない、と咄嗟にモトロは偽名を名乗り、その場をしのいだ。
「ごめんなさい、モンティ。わたくし……婚礼まで色々と覚えなければならない事も多くて……、少し気分転換をしたくて抜け出してきてしまいました。皆様には御内密に……お願いしますね……」
小首を傾げてお願いするその仕草までそっくりで、モトロの胸に熱いものがこみ上げた。
「……はい……」
モトロはすぐにモンティという男の戸籍を偽造し、宮廷魔導士の末席にその名を載せた。
その後も時々中庭でティリナに遭遇した。図書館で出くわす事も多く、会えば必ず挨拶し、世間話をするようになった。侍女に見咎められるかと思っていたが、ある日を境に侍女も何も言わなくなった。
そしてティリナと出会ってから一ヶ月が経った頃、モトロは宮廷魔導士の塔を訪れた侍女ジーナに捕まった。
「……モンティ……貴方……ティリナ様をどう思います?」
「愛らしい方です。聡明で明るく、よき国母とおなりでしょう」
当たり障りのない答えを口にすると、途端にジーナの顔が歪む。
「……何故……ティリナ様が御輿入れになる事になったか、貴方は知っている?」
「……ジーナ殿?」
「現皇帝は初代皇帝の血を引いておられない。だから……初代皇帝の血を濃く引くティリナ様を皇后に据える事で、体裁を整えようとしているのです」
モトロは目を伏せた。
「国民を……納得させる為……ですね」
「ええ。ティリナ様は……まだ陛下にお目通りすらしておりません。婚約者であるにも関わらず……! 初代皇帝の血筋であるにも関わらず……!」
ジーナの勢いに押され、モトロは口を挟む余地がない。
「その上……既に後宮には十人を超える愛妾がいると聞きます……」
「……ジーナ殿……それは……」
その噂は既にモトロは事実である事を確認している。酷い話だ。
「ティリナ様は……形だけの皇后として……初代皇帝の血を残す為だけに……あの……どこの馬の骨かも分からない……ただ色彩だけの皇帝に嫁ぐんです……!」
ジーナの目からポロポロと涙が溢れる。モトロは胸が掻き毟られるような気がしてグッと拳を握りこんだ。
その時、パリパリと空間が裂けた。
覚えのある感覚にモトロは眼を細め、その空間の裂け目を睨み付ける。
「……ひっ……!」
突然の出来事に腰を抜かすジーナの目の前に一人の男が姿を現した。
「……あ……!」
薄緑色の髪、でっぷりと太った身体。贅を尽くした衣装を身に纏った男だ。
成る程、薄緑の欠片持ちであれば、自分に叛意を持つ者を見つけ出して潰す事など造作もない事だ。
こうして上三人の皇子を葬ってきたのだろう。モトロはその醜悪な姿に顔を顰めた。
「……随分な言い様だな……たかが侍女の分際で……!」
ジーナに掴みかかろうとするその手を素早くモトロが掴んだ。一見少女のような姿であるが、魔人の腕力に鍛えていない人間が叶うわけもない。
「……なんだ貴様。たかが魔導士の分際でっ! 私が誰か分かっているだろう!」
痛みに歪める顔すら醜悪だ。モトロはギリギリ、と手を締め上げ、その太った体をジーナから引き剥がすように放り投げた。
ドシン、と尻餅をついた男は信じられないという顔でモトロを見上げる。こんな細い小さな少年が片手で太った男を放り出したのだから無理はない。
「6代目皇帝……ダリューノ陛下。お初にお目にかかりますね」
モトロはパサリ、とフードを外し、マントの中に留めていた紋章を引き出した。
「……?」
皇帝は不敵に笑う目の前の少年に違和感を覚えたが、その意図が飲み込めずに戸惑いを露わにする。
「おや。この紋章をご存知ない?」
「モ……モンティ……?」
ジーナの方が紋章を知っているらしい。パクパクと口を開閉し、すうっと顔が青ざめていくのが分かる。
「一ヶ月前に、この紋章を身に付けた者が来城したと通達はありませんでしたか?」
モトロは低く押し殺した声で男に詰め寄った。それはかつて彼等の村を治めていた長を思い起こさせるほどの威圧感をもって、その場を完全に支配する。
「初代皇帝より、状況によっては帝国を滅ぼしても構わないと言われています。たとえ貴方が彼女の血を引いていなくても、皇帝として民を幸せに導くのであれば口出しするつもりはありませんでしたが……」
「……な……ま……まさか……」
「己の欲望の為に近隣の美姫を集め、愛妾として囲うとは……呆れて物も言えませんね。こんな輩に、私の大切な姫の末裔を娶せることなど出来ません……」
モトロの水色の目がギロリと皇帝を睨み付けた。焦った皇帝が魔力を高めようと集中しようとすると、その眉間に氷の刃を突き付けられる。
「ああ、貴方程度の薄緑の力……、能力の発動前に押さえることなど造作もない事です。……初代宮廷魔導士フィアード様の魔力量からすれば、貴方の魔力など微々たるもの……」
「き……貴様は……大賢者モトロっ!」
ようやく思い至ったらしい皇帝が眼を見張る。
「初代皇帝の御遺言ですからね。悔い改めるならば見逃して差し上げましょう。そうですね……期限は……十年。その間、宮廷魔導士としてお側に仕え……貴方が何を成すか……ゆっくりと観察させていただきますよ」
ニヤリと笑い掛けられ、皇帝はその場に凍り付いた。
「もちろん、ティリナとの婚約は破棄です。彼女には自由な恋愛をしていただきましょう」
第6代皇帝ダリューノは即位後3年のある日原因不明の奇病でその生涯を閉じた。後宮には多くの愛妾がいたが、誰一人として身篭らず、結局、初代皇帝の末裔であるティリナ姫が第7代皇帝となった。
女帝ティリナの隣には常に白髪の少年賢者が在り、近衛兵の一人と恋に落ちて結婚した彼女を生涯支えたと言う。
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