96、大きな桜の木の下で
大好きだった。
桜の花を押し花した紙がわたしは大好きだったのだ。
その桜の押し花をもって、きみは出かけてしまった。
世界中のどこにいてくれてもいい。ただ、わたしのことを好意をもって思いはせてくれるだけで充分だった。
季節はめぐり、きみと別れてから何年もたち、今ではきみが何を考えているのかまったくわからなくなってしまい、桜の押し花の姿も思い描けなくなり、そして、わたしの心にからっぽな空白が生まれた。
いちばん大事にしなければならない桜の押し花のことがわからない。
あなたが何をして、何を考えているのかもわからない。
だから、わたしはもの思いに耽るたびに苦しむことになった。胸が熱い。腹がよじれるほど心苦しい。桜の押し花はどうなったんだ。
ある日、桜が咲いたというので、花を見に出かけた。
そこで、偶然出会ったきみの顔を見て驚いた。
いや、それは偶然ではなく、きみかわたしのどちらかがそれとなく意図して出会ったのだろうけど、わたしは心の空白を埋めるために桜の押し花に出会う必要があった。
きみは偶然、桜の押し花をもっていた。
わたしは心の空白を埋め、桜の押し花の現況を確かめなければならなかった。
「おれ、好きなんだ」
「え、何が」
「何でもない」
「なによお」
ああ、桜の押し花への思いがかすむ。
照れて笑うきみの顔を見れただけで、また数年がんばれると思ったのだった。




