ぼやける
普段歩いて駅に向かうことはない。
理由は。
自転車の方がずっと早いから。
日本人は、時間を重要な、とても重要なもののように言う習慣がある。時は金なり。そういう言葉を一年に一度以上は、聞きながら育ってきた。昔から日本に伝わる言葉みたいに。たぶんその諺を作ったのが、アメリカ人だと言うことも知らないヒトがたくさんいる。そこは重要なことではないけれど。
確かに、時間は大切だ。
ただ、ヒトの行いを見ていると、その言葉に説得力はあまり感じられない。いろんなヒトの日常は、無駄にした時間を埋め合わせるように、とてもせっかちに回っているように見える。
「ん、ふう」
歩いている間も小さな溜息ばかり出る。
どういうわけか、絶景を見たり、名作に出会ったり、すばらしい言葉を聞いたときには、決まって溜息が出る。すばらしいものに触れることで、ちっぽけな自分たちのちっぽけさを目の当たりにしてしまうとか。そんな風に言ったら、もっともらしい弁にも聞こえるかもしれない。ホントのところは分からない。
ゆっくり駅に向かう。時間を使って。
真っ白なノートに自由に絵を描くように、雪の町を歩いているといろんなことを考えることができた。
僕は理想的な人間関係について空想した。そういえば、以前、夜中にコンビニに歩いて行った時にも、同じようなことを考えていたことがあるなと思い出した。僕は同じことばかり考えている。たぶん、自分の中に残り続ける思想なんて、そうたくさんはないのだ。だから、同じことばかりグルグル巡るように考え続ける。いつも出る答えは同じ答えばかりだ。
理想的な関係は、きっと名前が付いていない。友達じゃない、恋人じゃない、親じゃない、兄弟姉妹じゃない、親戚でも先生でも、同僚でも仲間でもない。お互いの関係を確認し合わないといけないようなことは、ない方が理想的だ。
いくつか、ドラマで見たような場面を思い浮かべてみる。「俺たち、友達だよな」とか「私たち付き合ってるんじゃないの」なんてセリフは、できれば僕は、聴きたくないな、と思った。自然に生まれるだけの、プラスとマイナスのようなただの関わりを、月と地球のようなただの係わりを、誰かとの間にもてたら、それはきっと、心地がいい。
つま先に積もる雪を見つめる。長靴と雪の関係は、とても自然だ。お互いに何も求め合っていないのに、雪の日に僕が長靴を履いたことで、そのつま先に雪が積もるというのは、必然的に生まれる関係だ。
白い町を眺める。
少しだけシンプルになった風景は、とても広く感じるのに、なんだか落ち着く。
「これを覚えておくことができるかなぁ」
景色を見ながら、思ったことがそのまま言葉に出た。
交差点で足を止め、近くの街路樹から遠くの街路樹までをゆったりした視線の動きで見ていると、白い風が伸びすぎた前髪をなびかせる。何かを否定する時のように頭を振って、目にかかった髪をよけた。左右を確認しても、車は通りそうにない。また、ゆっくりと歩く。
英単語の綴りや、数学の公式なら簡単に思い出せるのに、目で見た景色を頭の中で再現することは絶対に不可能なのだ。
こんなに心地いい景色なのに。
どんなに幸せな景色だって。
簡単に忘れてしまう。
試しに、誰かの笑顔を思い出してみようとした。なんとなく頭に浮かんだ人物を思い浮かべる。昨日会ったばかり麻原香織という、淡泊と、もの静かの間くらいの性格の少女が思い浮かんだ。高校時代のクラスメイトで、数人で時々集まって遊びに行ったりする。比較的付き合いも長いし、よく顔を見る相手だ。彼女はどんな風に笑っていただろうか。目を閉じ。できるだけ丁寧に思い出そうとする。けれど、それはとてもぼやけた画像にしかならなかった。誰の顔を思い出そうとしているのかも分からないくらいぼやけている、だいたいの体格と、セミロングの髪型を判別するくらいがやっとだろう。「はあ」と溜息を付きながら、目を開く。綺麗な雪が降っているなと、やっぱり思った。昨日見たばかりのはずの彼女の笑顔と同じで、この感情の記憶もすぐに薄れてしまうんだろう。
思い出せるのは、この雪景色の、ぼやけた画面だけ。繊細なニュアンスも分からなくなり、おそらく今感じている温かな胸の温度は、平熱に紛れて消えてしまう。