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寒空のピエロ



 十一月に雪が降ったからといって、それはきっと、とてもすごい出来事というわけではない。十一月と十二月を区別するのは人間だけで、地球からみれば「ちょっと早い」程度のずれなのだと思う。そのちょっとのずれに敏感に反応してしまうんだから、人間は繊細な生き物だ。それに、ひねくれたことを考えていても、僕もその人間のひとりなんだろうなと思う。いつだって雪を見るだけで心地がいい。だけど、この雪が「ちょっと早い」。その付加価値だけで、とても美しい現象が起きている気がした。

 ザッ、ザク、ザク、ザク、ザザ、ザッ、ザク。

 プラプラ数センチメートル、地面より空中を漂った足首が、一歩一歩雪の中に沈む。

 とてもゆっくり歩く。豊かな時間の使い方だ。

 贅沢だ。と、思う。

 どんなに大金を叩いて、最高の音響でジャズを聴いて、舌鼓を打つ旨い料理を食べながら、大勢の大好きな相手と言葉を交わす濃密な時間よりも。

 同じだけの時間を使って、同じだけの金を支払って、ただの静かな草原で、よく晴れた日に昼寝をするようなことの方が、ずっとずっと贅沢という言葉に適している。

 多くのコストを支払って、できる限りのことをするのは、きっととても贅沢で、心のいろんな願いを満たすことができる。だけどそれは、本質的な贅沢とは、多分違うのだ。多くのコストを支払って、できる限りのことを何もしないことの方が、遙かに贅沢な過ごし方だと思う。いくら想像してみても、そんなこと、もったいなくてとてもできそうにない。

 贅沢と有意義は、きっととても遠いところにある言葉だ。

 だから、不意に生まれるこんな、今日みたいな、無駄な時間はとても贅沢に感じる。心地いい雪の降る街をいつもの何倍も時間を掛けて駅へ向かう。

 ガクッと、首が背中側に落ちてしまいそうなほど力を抜いて上を向く。ビニル傘を避けると、少しの時間差で鼻の脇に雪が落ちた。瞼に、頬に、触れた雪が溶かされる。

 気分が塞いでしまうような厚い雲の空も、こんな日だけは綺麗な景色に見えた。評価の基準は、気分次第で変わってしまう。大抵はそんなものだ。

 気分がいいときは、いつもより素敵に見える。

 気分が悪いときは、いつもより粗悪に見える。

 僕は、見たいように景色を見ているのだと思う。

 見るべきものや、大切なものじゃなく。事実や目の前にある本当じゃなく。見たい景色を見ている。だから、ふと、いつも見ているはずのものについて思いだそうとしても、まったく思い出せなかったりする。

 歩行者用信号の赤いLEDが目に入った。

 交差点に近づいていることに気付いて、曇り空を感傷的な気分に近い感情で見上げていた首を元に戻す。

 道路を走る車は、ごく僅かだった。

 雪のせいだ、と思ったけど、この通りはいつもこのくらい車の通りが少なかったかもしれない。ただ、そんな思考はすぐに別のことに紛れた。

 通りの向こう。横断歩道の反対側に、何かを待つように少女が立っている。

 何かを待つ。といっても、横断歩道の前で待つことなんて、大抵は信号機の光る色の変化だ。

 だけど、その少女は、それとは別の何かを明確に「待っている」ように見えた。

 誰かが何かを待っている。珍しいことではないし、彼女も雪の日に、こんなところで何かを待っていなければならない理由があるのだろう。僕が関わり合うようなことではない。ただ、サイドテールの髪型に、サングラスという出で立ちは、少し異質で、少しだけその少女に気を奪われたまま、信号が青に変わった。やはり少女は、横断歩道を渡らない。凍り付いたマネキンのように、厚い紺のコートと、ボリュームのあるマフラーに顔を埋め、静かに立っている。

 そのまま、横を通り過ぎようとした。しかし、どうにもその少女の存在が気になって、一瞬視線を向けてしまった。そこでいくつかのことに気が付いた。

 少しだけ通り過ぎて、足を止めた。今日初めて、呆れた気分で溜息を吐く。いくつか言いたいことがあった。だけどそんな気持ちをいったん抑えて尋ねた。

「こんなところで、こんな寒い日に、何をしているんですか」

 どのくらいの時間、ここにいたのだろう。ひどく震えている。歩いているならまだしも、いくら防寒をしているからといって、じっとしていれば熱は奪われる一方だ。

「待っていたの」

 と、乾燥した唇で少女は言った。彼女が何かを待っているというのは、最初の印象から予想していた通りの答えだ。

「何を」

 少しだけ間をおいて。

「あなたを」

 と少女は言った。

 僕を。そちらは予想外だった。

「どうして、僕を待っていたの」

「私はピエロだから」

「そうは見えない」

 彼女の印象は、低度な変装をした少女だ。カラフルでバランスの悪い衣装に、泣いているのか笑っているのか分からない化粧をした奇妙な生き物を頭に描いた。僕の知っているピエロはそんな感じだ。

「見た目なんてどうでもいいことなの。私はピエロ。ただそれだけ」

「君は変わっているね」

 と、呆れるように言った。それを否定的なニュアンスととらえたのか、彼女は、

「変わっていることと、間違っていることは同じじゃないわ。私は正しいことをしようとしているの、ただ皆がそれをしていないだけで」

 と反論した。少し、話が飛躍していて、彼女の意図した言葉の意味が上手く掴めなかった。ただ一応、目的があって雪の日にこうして横断歩道の前に立っているらしいことは分かった。

 正しいことをしようとしているらしい。それは多分、彼女の目的にとって正しいことという意味だろう。彼女からは正義の味方のような積極的な正しさを感じない。

「でもやっぱり、ピエロだからというのは、僕を待っていた理由として説明になっていないよ」

 少なくとも、ピエロの知り合いを作った覚えはない。

 サングラス越しに、ピエロを名乗る少女の目を見つめる。

 瞳の色も、瞼の形も、睫毛の濃さも、何も見えない。

 巧妙に隠された感情のように不透明だ。

「あなただったのは、あなたがたまたまこの場所を通ったから。私は、えんのある相手を待っていた」

 やっぱり、彼女の意図がわからない。

 僕が何か言うより先に、ピエロの少女は言った。

「行きましょう。どこかへ向かっていたのでしょう。遅れてしまうわ」

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