聞き込み調査
アルフォンス付き書記官ジェルマン・ダラディエ――――もといマドレーヌ・ダラディエはウェルシアル宮殿に向ってとぼとぼと歩いていた。
兄に代わり、男装してアルフォンス付きの書記官になってまだ日は浅い。だが、兄の名前はすっかり自分のもののように馴染んでいる。当たり前だが、アルフォンスには自分が女だと……というかまずジェルマン本人ですらないととっくに知られている。それでもアルフォンスはずっとマドレーヌのことを男として扱ってくれていた。ジェルマンとして振る舞うマドレーヌの意思を重んじているからだろう。
マドレーヌの兄は優秀だった。平民のくせに生意気な男だと、貴族に目をつけられてしまうぐらいには。
国の奨学金で学校に通い、主席で卒業し、司法院へ出仕した兄は、嫉妬した貴族の陰謀で全治三ヵ月の大怪我を負わされた。それが先月の月末だ。アルフォンスが相手の貴族を法廷に引きずり出してしっかり裁いてくれたため、それなりの賠償金はもらったし、他の貴族もアルフォンスに目をつけられてまでジェルマンに絡んでいきたいわけではなかったようなので、もうジェルマンに危険はないのだが。
優秀な書記官だったジェルマンがおらず、アルフォンスは困っているという。そこで兄の代役を申し出たのがマドレーヌだった。もともとマドレーヌも司法院への出仕を希望していて、ジェルマンの穴を埋める臨時書記官として無事採用されたのだ。
マドレーヌがジェルマン・ダラディエを名乗っているのは、あくまでも自分は“臨時”でありジェルマンの代役に過ぎないという自戒の念をマドレーヌが持っているからだ。正式に採用されたわけではなく、兄の不在を埋めるために雇用された今の状況で、マドレーヌはアルフォンス付き書記官マドレーヌ・ダラディエと名乗りたくなかった。もちろん、書類の上ではしっかり“臨時書記官マドレーヌ・ダラディエ”となっているが。
兄妹そろって度の強い、分厚く大きな眼鏡をかけていたため、男物の服を着ていればマドレーヌがジェルマンのふりをするのは容易だった。事情をよく知らない、他の部署の人間からは「あの大怪我がもう治っているようだ。ジェルマン・ダラディエはやたら頑丈らしい」という噂が流れているのをマドレーヌは知らない。
一応ジェルマンが復帰するころにはマドレーヌも正規の書記官に登用されるようだが、今はまだ臨時の身。大した権限もなかった。そんな彼女が、一人で大勢の貴族達がいるウェルシアル宮殿に行くなど無謀以外の何者でもない。司法の前で人はみな平等だとされているが、それはしょせん建前だ。二等検察官であり伯爵家の人間でもある―マドレーヌはよく知らないが、以前ジェルマンがそう言っていた―アルフォンスならまだしも、平民生まれ平民育ちのマドレーヌはどうしても委縮してしまう。
(こ、これもわたしの成長を願うアルフォンス様の親心……! 頑張らなきゃ……!)
そう心の中で何度も繰り返していないとやっていられなかった。
*
「マリアンヌ様を殺したのはロジーヌ妃殿下に違いないわ。動機がある方なんて、ロジーヌ妃殿下しかいらっしゃらないもの」
「マリアンヌ様がいる限り、ロジーヌ妃殿下の地位は安泰とは言えないものね。フェリックス殿下とロジーヌ妃殿下の不仲は有名ですもの。いつマリアンヌ様に王子妃の座を奪われるか、妃殿下も気が気じゃなかったはずよ」
「知ってる? 殺害には黒魔術が使われたんですって」
「ロジーヌ妃殿下は最近黒魔術に凝っているらしい。夜な夜な怪しげな儀式をしているそうだ。マリアンヌ様も妃殿下に呪い殺されたんじゃないか?」
「こんなことを言うのもはばかられますけど、マリアンヌ様はばちが当たったんじゃないかしら。聖女なんて適当なことを言って、殿下の寵愛を独り占めしたんですもの」
「マリアンヌ様を恨んでいる人なんて、心当たりが多すぎていちいち挙げていられないよ。マリアンヌ様自身は影の薄いお方だけど、ハーヴェル朝を認められては困る方もいらっしゃるからねぇ」
「ああ。確かにその時間、殿下と宰相閣下は執務室にいらっしゃったぞ」
「殿下は幸せなお方だよ。マリアンヌ様みたいなべっぴんさんに愛されててさ。……まあ、そういう俺もマリアンヌ様のお顔はよく知らないんだけどな。あんまり表には出てこられない方だし、一度何かで見たきりか」
「ロジーヌ妃殿下も、マリアンヌ様の何が気に入らないのかねぇ。自分は男達を大勢囲ってよろしくやってるんだから、殿下が寵姫を囲うぐらい大目に見てやればいいのに。マリアンヌ様は出しゃばらないし、寵姫の領分ってものを心得てるんだからさ」
「殿下に嫌気がさしたマリアンヌ様が、殿下から逃げるために一計を案じたんじゃないのかい? なにせ殿下はあの冴えない見た目だからねぇ。いつまで経っても寵姫扱いしかしてこないから、媚を売るのにうんざりしたのかもしれないよ、ひっひっひっ」
「プティ・サフィール宮殿のことはよくわからないわね。同じ侍女でも、私達がプティ・サフィール宮殿に呼ばれたことはないから。向こうは向こうの侍女だけでちゃんと回ってるみたいよ。……あ、でも、ロジーヌ妃殿下の侍女だった人がプティ・サフィール宮殿に配属されていたような気がするわ」
「宰相閣下は確かに厳しい性格はしているが、ああ見えて虫も殺せない方だぜ。それに、マリアンヌ様のことを自分の娘のように思っていらしたんだ。たとえあの時間帯に執務室にいなくても、閣下にマリアンヌ様の殺害なんて無理に決まってる」
「愛人を囲うなんて、普通のことではありますけれど……妃殿下の場合はいささか度が過ぎていらっしゃいますわ」
「先に夫の子を産んで初めて愛人の子を産むのが許されるものですし……あっ、いえ、なにも妃殿下の御子が殿下の御子ではないと思っているわけではありませんわよ? ただ、そういう風に疑われるような振る舞いは慎むべきではありませんか?」
「それに妃殿下は、政略結婚というものを軽視しているきらいがありますわよね。政略だからこそ、夫婦仲を円満にしなければならないのに。まだ婚約の段階だったころ、歩み寄ろうとした殿下をきっぱり拒絶して愛人達とばかり過ごしていた話は有名ですけれど、まさか結婚してからもずっとそうだなんて」
「周りも諫言はしたのですが、家を盾にして聞き入れてくださらないんですの。二言目には“このわたくしに意見できると思って?”ですもの。確かにご成婚なさったときの妃殿下は十三歳でしたけれど、その年ごろで嫁ぐのはさほど珍しくもないでしょう? それなのに妃殿下はいつまでもあの調子で。家名を盾にやりたい放題ですのよ」
「恐ろしいことですが……マリアンヌ様はめったに表に出てこられない方ですし、マリアンヌ様を殺したい方よりも妃殿下を殺したい方のほうが多いんじゃないかしら。あっ、もちろんわたくし達がそうだというわけではありませんのよ?」
「不敬になるので大きな声では言えませんが、案外殿下の仕業かもしれませんよ。マリアンヌ様を永遠に自分のものにしたかったり、あるいはマリアンヌ様の心が自分から離れていることに気づいて焦っていたり。それに殿下は目撃者のお一人なんでしょう? 殿下も十分疑わしいですよ」
「エルヴェは真面目な奴だ。誰もいないところでもきっちり制服を着こなしてるし、どんな細かい規則だって守る。病弱らしくて休みがちなのが玉に瑕だが、勉強熱心だし命令だってしっかり遂行するんだ、それぐらいは大目に見てやるさ。そのあいつが、マリアンヌ様を手にかけるなんてありえねぇよ」
「確かに昨日、私は殿下から待機を命じられた。きっと、何かの間違いで私とマリアンヌ様が会ってしまうことを殿下は恐れていたんだろうな。それを思えば、私が待機させられるのも仕方ないさ。私としては、私だけでなくエルヴェのことも警戒するべきだとは思うがな。あいつは男色の気があると噂されるぐらい女に興味がないが、顔はいい。もちろん私ほどではないが、マリアンヌ様のお気に召さないとも限らないだろう?」
「エルヴェに殺人? 無理に決まっているだろう。彼は近衛の中でもっとも軟弱な男だ。人、それも美しい貴婦人を殺めるなど、騎士……いや、人の道に反する。そんなこと、あの男にできるわけがない」
――――そんなマドレーヌの心配は、思ったよりもあっさり打ち砕かれた。
事件の調査をしている司法院の人間だと言えば、向こうからぺらぺらと喋ってくれるのだ。そのほとんどは下世話な憶測を出ないものだが、精査した情報をアルフォンスに渡せばいい。それに、いくら憶測でも大多数の人間がそれを共有しているのならそれは限りなく真実に近いことだ。ほとんどが根も葉もない噂や尾ひれのついた勘違い、そしてたちの悪い誹謗中傷であっても、完全に無視することはできないのだ……きっと。
聞き込みの成果を記した手帳を見ながら、庭園の噴水に腰掛けるマドレーヌは小さくため息をついた。もう夜だ。これ以上の調査は続けられない。結局この手帳に記してあるのが今日の調査で得られたすべてなのだが、本当にこれが事件の解決に役立つのかよくわからなかった。
「君は確か、書記官の……」
「あ、エルヴェ様。ダラディエです」
マドレーヌを見つけたのは、つい数時間ほど前に司法院に足を運んでいた近衛騎士、エルヴェだった。赤色の瞳が怪訝そうにマドレーヌを見ている。
事前に目を通していた書類によると彼は今年で十七歳、マドレーヌと同い年のはずだが、首をすっかり覆う詰襟の騎士服に身を包んだ彼の身体は同世代の男性にしてはだいぶ華奢で、顔つきも精悍とは程遠い。その顔立ちには凛とした美しさがあるが、それはどちらかといえば少女じみたものだ。一つに縛って右肩に流している少し長い髪のせいもあり、遠目からだと少女に見えるかもしれない。しかし背はマドレーヌより少し高く、体つきも女性らしいまるみはないので、全体としては中性的な美少年という言葉が似合うだろうか。
少年と青年の中間にある年頃とはいえ、エルヴェはとても騎士という身分には見えなかった。騎士らしいところと言えば、固そうな手ぐらいだろうか。逆に言えば、そこしかエルヴェが騎士に見えるような要素はなかった。
もっとも、王族の近衛騎士は実力より外見を重視すると聞いている。爵位を継がない次男や三男が箔をつけるためになるものなのだそうで、護衛などと言ってもしょせんは名ばかりだそうだ。エルヴェも見た目優先で登用されたくちなのだろう。あるいは、王子の友人という立場のおかげだろうか。
「どうしてここに?」
「聞き込みですよ。エルヴェ様こそ、お一人でどちらへ?」
「家に帰るところさ。……よかったら、君の家まで送っていこうか?」
マドレーヌがそう心の中で失礼な分析をしていることには気づかず、エルヴェはマドレーヌに手を差し伸べる。
「え、でも……」
「馬車が迎えに来ているから、一人で帰るより安全だと思うけど。どうする?」
すでに月が昇っている。男装しているとはいえ一人歩きは危ない。エルヴェは事件の関係者だが、それは目撃者としてであって被疑者だというわけではないのだ。半日近く貴族しかいない空間にいたせいで慣れたのか、マドレーヌの貴族に対する緊張は宮殿に来る前よりほぐれている。それに、徒歩で貴族街からマドレーヌが住む下町のメゾネットまで歩くのは面倒だ。一瞬のためらいのあと、「お言葉に甘えて」とマドレーヌはエルヴェの手を取った。
ファリエール家の馬車は庭園を出てすぐの停車場に停まっていた。御者に住所を伝え、マドレーヌは馬車に乗り込む。エルヴェとマドレーヌを乗せ、馬車は静かに走り出した。
エルヴェは口数が多いほうではないらしく、あまり話さなかった。これはマドレーヌとしてもありがたい。うかつなことを口走ってしまいそうで怖いからだ。しかしその心配は杞憂に終わり、エルヴェはたまに口を開いても事件とはまったく関係のない話しかしなかったからだ。
「エルヴェ様、ありがとうございました」
「ああ、気にしないでくれ」
馬車はマドレーヌとジェルマンが暮らしているメゾネットの前に停まった。マドレーヌは深く頭を下げる。その間に御者が馬車の扉を開けてくれた。マドレーヌが馬車から降りると、閉まりかけた扉の向こうからエルヴェの声が降ってきた。
「そうだ。余計なお世話かもしれないが……君、男装するならもう少しうまくやったほうがいいんじゃないか?」
「……え?」
振り返ったときにはもう遅い。御者は御者台に戻っていて、エルヴェを乗せた馬車はマドレーヌが待ってと叫ぶより早く走り去ってしまっていた。