現場検証
本日最後の証言者エルヴェは帰り、アルフォンスとジェルマンもアルフォンスの執務室に戻っていた。ジェルマンの淹れたコーヒーをすすり、アルフォンスは時計を見る。
午後三時。くしくもマリアンヌの遺体が発見された時刻だ。当然陽はまだ高く、行動するのに支障はない。
「ジェルマン。私はこれからロジーヌ王子妃を証人として召喚する手続きをしてから、プティ・サフィール宮殿に行ってくる。その間、君はウェルシアル宮殿に行って聞き込みをしていてくれ。四人の証言の裏取りと……そうだな、黒魔術に傾倒している人物の割り出しを頼む。終わったら今日はそのまま帰っていいぞ」
「はい、わかりました」
現場の調査は部下がやっているが、やはり自分の目で見ないことには始まらない。掛けていたコートと帽子を身に着け、ステッキを手に取ったアルフォンスは執務室を後にした。
*
「こちらでございます、検察官様」
プティ・サフィール宮殿でアルフォンスを案内してくれることになったのは、ジジという年かさの侍女だった。侍女としての位はナタリーに次いで高く、ナタリーがいないときは彼女が侍女達をまとめているという。マリアンヌに直接仕えることはないが、その傍に侍って世話をすることは多いらしい。
ジジに案内された応接室では二人の若い娘が待っていた。ニーナとマガリ、ともにマリアンヌに仕える侍女だ。
「早速だが、昨日のことを聞かせてほしい。昨日、貴方達はヴァレー伯爵夫人とともにマリアンヌ姫のお召し替えを手伝っていたんだったな?」
「はい。手伝うと申しましても、衣装部屋でドレスを選んだり、姫様のお気に召さなかったドレスを片付けていただけでございますが」
あの日、マリアンヌの生存を最後に確認したのはナタリーだけではない。ジジを含めた三人の侍女も、声を聞いていたはずだ。そして彼女達は、マリアンヌの部屋のすぐ隣にある控室で耳を澄ませていた。ナタリーが気づかなかった、あるいは言わなかった事実も、彼女達から聞き出せるかもしれない。
「十分だ。それで、どうだった? 貴方達は本当にマリアンヌ姫の声を聞いたのか?」
「はい。マリアンヌ様は殿下にお会いするのがとても楽しみなようで、わずかに開いていた扉からはしゃいだ声がずっと聞こえてきました」
ジジの言葉にニーナとマガリも賛同する。フェリックスとの逢瀬の日はいつもそうらしい。普段はナタリーだけがマリアンヌの身支度を手伝うのに、フェリックスと会う日に限ってジジ達も呼び出されるというのだから、気合の入れ方からして違うのだろう。
「声だけじゃないですよ。わたし、お姿も見ちゃいました」
「ニ、ニーナ!?」
ジジはぎょっとしてニーナを見る。その隣のマガリはいたずらが見つかった子供のようにバツの悪そうな顔をしていたが、ニーナは悪びれる様子もない。
「考えてみてくださいよ。確かに直接お顔を拝見してはいけないことになっていますけど、見えちゃうときは見えちゃいますって。見ていないふりをしているだけの人のほうが多いに決まってます」
「……でも、お召し替えを手伝うときのニーナはいつも、こっそりマリアンヌ様のお部屋を覗いていたわよね」
「だって、わたしが選んだドレスがちゃんとマリアンヌ様に似合ってるか、確認したかったんですもの。マガリだって見てたじゃない」
マガリの言葉にもニーナは平然と返す。どうやら気づいていなかったのはジジだけのようで、この二人はちょくちょくマリアンヌを盗み見ていたようだ。「あとで話を詳しく聞かせてもらいます」と真っ赤な瞳を三角にしてすごんだジジにはさすがのニーナも震えあがっていた。
話を聞くと、ニーナとマガリ、そしてジジは、フェリックスがマリアンヌのもとを訪れる日か、あるいはマリアンヌに月のものが来た日だけマリアンヌの世話をするらしい。だが、ここ最近はフェリックスの来訪以外でマリアンヌに呼ばれることはなかったそうだ。マリアンヌが妊娠していたためだろうか。
マリアンヌが妊娠していることはこの三人も知っていた。ナタリーから固く口止めされていたという。アルフォンスがマリアンヌの妊娠の話を振ると三人は一瞬表情を曇らせたが、それの意味するところはわからなかった。それとなく尋ねてみても、軽くあしらわれるだけだったのだ。詳しい事情は事件に関係ないとアルフォンスも思ったので、それ以上追求することはしなかった。
他にマリアンヌの世話を任されているのは、普段からマリアンヌの傍に控えているナタリーを含めてもこの四人だけだという。他の侍女は、直接マリアンヌにかかわらない仕事をしているそうだ。ナタリーはこの三人のことを信用しているようだし、マリアンヌからも信用されているのだろう。ジジはともかくニーナとマガリは、その若さゆえか好奇心が抑えきれなかったようだが。
「こほん。姿まで見ていたなら、少なくとも貴方達が控室に下がる時間までは確実にマリアンヌ姫は生きていたんだな」
可能性としては限りなく低いが、ナタリーがマリアンヌの声真似をして一人芝居をしていたことも考えられる。もちろん犯行時刻を誤認させるためだ。しかしニーナがマリアンヌの姿を目撃しているなら、確かにマリアンヌはあの部屋にいたのだろう。
「姫の支度が終わったのは、午後二時を少し過ぎたころだと聞いている。そのあと、貴方達はまっすぐに控室に行ったのか?」
「はい、その通りでございます。それから殿下がいらっしゃるまで、わたくし達はずっと控室におりました」
ジジはきっぱりと断言する。マリアンヌの死体が発見される前に控室を出たのは、フェリックスの来訪を使用人に教えられてマリアンヌを呼びに行ったナタリーだけだったという。
ジジ達が控室で待っていると、ナタリーに肩を貸すエルヴェがやってきた。ジジ達は、二人によってマリアンヌの死を知ったという。すぐにエルヴェは衛兵を呼びに行くと言って立ち去り、残された彼女達はしばらくナタリーの介抱をしていたそうだ。
「貴方達が控室にいる間、何か大きな音はしなかったか? 争うような物音や、悲鳴や叫び声でもいい。とにかく、ただならない様子の伝わってくるようなものならなんでもいいんだが」
「いいえ。とても静かでしたよ」
「そうか。……そういえば伯爵夫人は、主人の部屋と侍女の控室を繋ぐベルがあると言っていたな。あれを鳴らせば、貴方達も即座に現場に駆けつけられただろうに」
「そうですよね。わたしはベルを鳴らしてほしかったです。たとえ待っているものがなんであれ、わたしは行きますから。どんなに変わり果てたお姿でも、マリアンヌ様であることに変わりはありませんし」
「わ、わたしは……その、血とか死体とかは、見たくないので……いくらマリアンヌ様でも、さすがに……」
ふと呟いた疑問に、ニーナが鼻息荒く同意する。一方のマガリは真っ青になって首を横に振っていた。
思えばエルヴェも侍女達は控室で待たせていて、屈強な衛兵達を呼びに行っている。人を呼びに行くよう命じられたエルヴェがベルを鳴らさなかったのは、単純に彼女達をおもんぱかった結果なのだろう。母であるナタリーが気を失いかけていたのだから、それに気づいても不思議はない。フェリックスは錯乱していてそもそも人を呼ぶという考えがなかったろうし、ボリスもフェリックスをなだめるのに手いっぱいだったはずだ。気分の悪いナタリーは、ベルを押すどころではないに違いない。
「では、最後に聞かせてくれ。時間帯はいつでもいい。あの日、何か変わったことや気づいたことはなかったか?」
「申し訳ありませんが、思い当たるものはございません」
ニーナとマガリの返事もジジと同じものだった。もうこれ以上彼女達に訊くことはない。アルフォンスは礼を言って立ち上がった。次は現場であるマリアンヌの部屋の検証だ。
「検察官様!」
立ち上がったアルフォンスを呼び止めたのはニーナだった。「わたしがマリアンヌ様を盗み見ていた件ですが」と前置きし、ニーナは口を開く。
「いつだったか、マリアンヌ様と目が合っちゃったことがあるんです。ああ怒られる、辞めさせられるって思ったんですけど……マリアンヌ様、微笑みながらドレスの裾をつまんだんですよ。まるでドレス姿をわたしに見せてくれるみたいに。“とてもよくお似合いです”って声に出さずに言ってみたら、あの方は嬉しそうにしていらっしゃいました。それからわたしに向けてぱちっと片目を閉じたあの方は、何事もなかったようにナタリーさんと話し出しました。それからも特にこれといったお咎めはなくて……」
ニーナの話はそれで終わりではなかった。こっそりお礼を言われたこと。美味しいお菓子をもらったこと。仕事ぶりを褒められたこと。その姿を見ることはめったになかったけれど、その存在はいつだって感じられた。影ながら行われていた、マリアンヌとのささやかな触れ合いを語るニーナの赤い瞳は徐々にうるんでいく。
自分だけではなく他の侍女もよくしてもらっていたと、ニーナは涙声で訴えた。マガリは無言だったが、彼女の深紅の双眸はニーナと同じくまっすぐにアルフォンスを見つめている。
「だからわたし、許せないんです。あんな優しいお方を殺した人が。検察官様。絶対絶対、捕まえてくださいね」
「ああ。任せてくれ」
力強く返事をすると、ニーナはほっと胸を撫で下ろす。ジジに連れられて応接室を出るアルフォンスを、ニーナとマガリはいつまでも見送っていた。
「……もうあんなことは繰り返さないでくださいね、検察官様。わたし、あなたを……司法院を許していませんから。わたし達は決して貴方を信用したわけではありません。もし真相がわかっても、またあのような愚かな真似を司法院がするというのなら、そのときは……」
大きな宝石のように美しく輝く瞳をすっと細め、マガリは小さな声で呟いた。
*
「どうぞ。この部屋は昨日の状態のまま保存されております」
手袋をはめ、アルフォンスはマリアンヌの部屋を見渡した。大理石の床には大きな赤黒いしみがついている。あそこがマリアンヌの倒れていた場所なのだろう。本棚、寝台、化粧台、姿見、整理棚。品のいい調度品でまとめられた部屋の中で、血痕は嫌な存在感を放っていた。
「……可哀想に。近くにこんな柔らかそうな寝台があるのに、冷たい大理石の床で寝る羽目になるなんてな」
マリアンヌの部屋の左隣は侍女達の控室で、右隣は続き部屋の衣装部屋だ。控室は廊下しか入口がないが、衣装部屋はマリアンヌの部屋に通じる扉と廊下に通じる扉の二つがある。廊下側の扉には鍵がついていたが、衣装部屋とマリアンヌの部屋を繋ぐ扉に鍵はなかった。もしかしたら、犯人は衣装部屋から出入りしたのではないか……という考えは、すぐに打ち砕かれてしまった。
ジジによれば、昨日ジジ達が衣装部屋に出入りするのに使ったのはこの廊下側の扉で、マリアンヌのドレスを選んでいる間鍵は閉めていなかったそうだが、退室の際にしっかり施錠していたそうだ。そして現在、廊下側の扉の鍵は壊されている形跡もなく、無理やり扉をこじ開けられたような痕跡もない。これでは衣装部屋からの出入りは不可能だ。犯人が鍵を持っているなら話は別だが。
(密室の謎は解けず、どうやってマリアンヌの死体を隠したかもわからない。さて、どうしたものか。……いや、しかし現場の窓は開けられていたんだな。ここは三階とはいえ、そこからの出入りが不可能とは限らないぞ)
ふとエルヴェの証言を思い出す。彼は、犯人がずっと衣装部屋に潜んでいた可能性を指摘していた。数多のドレスが並ぶ衣装部屋には死角が多い。なんらかの方法で窓から忍び込んだ犯人がマリアンヌを殺して衣装部屋に隠れたと考えれば、確かにエルヴェの推測は筋が通っている。
だが、問題は死体の運搬だ。フェリックスとボリスが部屋の外に出たタイミングでマリアンヌの部屋に戻り、その死体を担いで窓から飛び降りる。犯人一人だけならまだしも、死体を抱えている状態で果たしてそんなことが可能なのだろうか。
血痕の周囲には、マリアンヌを運ぶときに滴り落ちたものらしき小さなしみは見られない。当然、死体を引きずった跡もどこにもなかった。このあたりが死体の消失を主張する者の根拠らしいが、あいにくアルフォンスはそんな主張をしていない。人間の仕業で説明できるはずだ。
考えられるのは、予期せぬ血痕が増えるそばから拭き取ったことだった。まだ乾いていないうちなら、完全にぬぐい取ることもできるだろう。そこまでして“聖女”の消失を演出したかった理由は不明だが。
念のため衣装部屋も見てみたが、なんの異変も見られなかった。ドレスの中に死体が隠れていることもない。当然だが、さすがに犯人は一晩もここに潜んでいたわけではないようだ。
とはいえ、犯人が死体を抱えて窓から飛び降りたというのはいささか現実的ではない。血まみれの死体を抱えた血まみれの人物なんて見咎められて当然だろう。気づかれないよう何らかの工作を施したはずだ。
「念のために訊くが、この部屋に隠し通路や隠し扉の類はないだろうな?」
「さあ……。そのようなお話は、わたくしは存じ上げませんが……」
冗談交じりで尋ねたアルフォンスだったが、ジジは真剣に考えているようだ。記憶を探るように言い淀んだあと、嘘か真かはわかりませんがと前置きして話し始めた。
「ただ、このプティ・サフィール宮殿を建設なさった時代の国王陛下は、とても用心深いお方だったとうかがっております。もしかすると、どこかにそのようなものがあるかもしれません」
「ふむ……」
興味深いと呟き、アルフォンスはマリアンヌの部屋を見渡す。一見しておかしなところは見られないが、それで見つかるようでは隠している意味がないだろう。物は試しと、せっかくなので探してみることにした。
ジジに言ってプティ・サフィール宮殿全体の見取り図を用意してもらう。宮殿と言ってもさほど広いものではない。悠長にやっていられる暇はないが、見取り図を見てみれば隠し通路がありそうな空間のめども立てられるだろう。
その考え通り、アルフォンスはある二つのことに気づいた。一つ目は一部の壁がやたらぶ厚いこと、そして二つ目は、マリアンヌの部屋は三階なのだが、その真下に当たる二階の部分に何もないことだ。マリアンヌの部屋は出っ張っているわけではない。ちょうどマリアンヌの部屋とまったく大きさの空間がただの壁の中として扱われ、なんの部屋にもされずに遊ばされているのだ。
(もし隠し部屋なんてものがあるとすれば、この下が怪しいな)
大理石の床のどこにもつぎはぎされた跡はない。だが、それは目に見える範囲のことだ。アルフォンスがまず目をつけたのは、普通のものよりも少し高く見える寝台だった。大きな布団で脚まで隠されているので、ここからではその下がどうなっているかわからない。ジジが困惑するのも構わず、アルフォンスは迷わず布団をめくり上げた。
寝台の下は、アルフォンスでももぐりこめるほどの隙間がある。もぐりこんで綿密に調べてみると、巧妙に隠されてはいるが一部だけつぎはぎがあるのがわかった。隠し扉に違いない。
四苦八苦しながら開けると、床下に続く石造りの階段が現れた。階段を下りた先は、マリアンヌの部屋とそう変わらない広さの空間が広がっているようだ。どうやらこの空間は、この宮殿が設計された当初から作られていた王の秘密の避難所らしい。
ジジに一言ことわりを入れ、アルフォンスはそのまま階段を下りる。質素なテーブルと椅子の他には整理棚と衣装棚ぐらいしかない。棚には何も入っていなかった。だが、長年手入れをされていなかったにしてはこの部屋の空気は綺麗すぎる。埃すら被っていない。きっと、つい先日まで何者かがこの部屋を利用していたのだ。そしてそれは、上の部屋の主だったマリアンヌに他ならないだろう。
侍女達の話では、マリアンヌはめったに自室から出ようとしなかったという。食事は気が向かない限りほとんど部屋で摂り、湯浴みも深夜にナタリーだけ連れてひっそりと行っていたようだ。マリアンヌが一日の大半を部屋で過ごしているのなら、マリアンヌ以外の人物が隠し部屋に入れる時機はかなり限られてくる。
(だが、マリアンヌはなんのためにこの部屋を使っていたんだ?)
部屋の隅には取っ手のついた大きな木の板があった。持ち上げてみると、そこにも階段がある。この部屋に来るときに降りた階段よりも長い階段だ。一階どころか地下に続いている可能性もある。有事の際はここを下りて逃げろということだろう。
懐中時計は午後四時を指している。少しぐらいなら探索はできそうだ。この階段がどこに繋がっているかを確かめれば、この空間からマリアンヌの部屋へ出入りできた可能性も提示できるかもしれない。それに、誰にも見られずにマリアンヌの死体を運び出した方法も突き止められるかもしれないのだ。
アルフォンスは階段を下りた。降りた先の空間に窓が一つもなく、また一階にこれほど広い何もない空間はなかったはずなので、やはりここは地下なのだろう。
地下の空間には数多くの道が伸びていた。さすがにこのすべてを調べるのはアルフォンス一人では難しそうだ。この場所の探索は部下達に任せたほうがいいだろう。隠し部屋と隠し通路の存在は、真相解明に繋がる大きな手掛かりなる気がする。確かな手ごたえを感じながら、アルフォンスは階段を上がった。