事件のあらまし
「どうしたものか……」
二等検察官アルフォンス・ド・フェルナンは執務室で頭を抱えていた。その手にあるのはつい昨日起きた殺人事件の資料だ。
ここフランカシア王国の王が住まうウェルシアル宮殿の敷地内には、いくつもの離宮が建てられている。事件はその内の一つ、プティ・サフィール宮殿で起こった。プティ・サフィール宮殿で囲われていた王子の寵姫、マリアンヌ・ド・ラファイエットが殺されたのだ。
発見者は四人いた。一人目はこの国の王子、二人目は宰相、三人目は王子に付き従っていた近衛騎士、そして四人目は寵姫に仕えていた侍女。これからアルフォンスは順番に彼らの証言を聞くことになっている。その準備のため、アルフォンスは事件の資料を確認していた。
被害者、マリアンヌ・ド・ラファイエット。彼女が王子フェリックスの寵愛を得た理由は、いささか変わったものだった。フェリックスは、マリアンヌの一言で自らの地位を保証されるまで、日陰の王子だったのだ。
その原因は、前王朝であるバロイズ朝の最後の王シャルル三世にある。賢王と世に謳われたシャルル三世だが、彼の治世には一つの大きな問題があった。それは王位継承権のあった自分以外の者達を、軒並み処刑台に送ったことだ。
彼らはいずれも死に値する罪を犯したがゆえに処刑された。だが、あるのは状況証拠や信憑性の低い物的証拠ばかりで、それがシャルル三世による濡れ衣だった可能性は非常に高かった。王を前にしてそれを口に出せなかっただけだ。
世継ぎは生まれていなかったとはいえ王妃さえも手にかけ、乱心も疑われた王だったが、それでも他の王族の評判があまりよくなかったことも相まって、民衆からは大目に見られていた節はある。実際、王族殺しさえなければ彼はとてもいい王だった。そんなシャルル三世の系譜は彼の死によって途絶え、バロイズ朝はその短い栄華に幕を閉じた。
結局、フランカシア王国の新たな王は異国に嫁いだ王女の系譜から選ばなければならなくなった。
そこで白羽の矢が立ったのが、隣国の公爵だった男だ。シャルル三世のはとこにあたる彼の継承権を一部の貴族が声高らかに主張したことから、彼は幼い息子とともにフランカシア王国に迎えられた。それが現在のハーヴェル朝の王シモン一世、そして第一王子フェリックスだ。
しかしいくら他に正当な王位を主張できるものがいないとしても、彼らはフランカシアの民には異国の貴族としてしか受け取られない。王の血を色濃く受け継いでいるわけでもなければ、この国で生まれ育ったわけでもない彼らを、民はなかなか受け入れなかった。
そのせいで、招かれたはずの新たな王族は肩身の狭い思いをしていた。彼らを招いた貴族達も、そのあまりの風当たりの強さに自分達の立場さえ危うくさせている始末だ。
シモン一世は早々にフランカシアを去って祖国の領地に戻り、王という名だけは名乗るものの実権はすべて元老院にゆだねた。息子のフェリックスはしばしばフランカシアに滞在していたが、彼も彼でお飾りの自覚があるのかおとなしくしていた。王族のそのありようが、より民衆の不信感を煽っていたというのが皮肉なものだが。
そんな状況を打破したのが、問題の寵姫マリアンヌ・ド・ラファイエットだった。一年ほど前に宮廷に姿を現した彼女は、シャルル三世の印章と彼の直筆の遺言書を携えていた。その内容は「王位の継承はマリアンヌに一任する」というもので、マリアンヌはその場でハーヴェル朝の正当性を主張したのだ。
当然、その真偽を疑う声は多くあった。しかし宰相ボリスをはじめとしたシャルル三世の忠臣だった者達が揃って印章と遺言書を本物と認め、マリアンヌの言葉を是としたため、風向きはがらりと変わった。あれほど王家を冷遇していた貴族達も手のひらを返し、今では何事もなかったかのようにすり寄っている。
心の中ではまだ王家を侮っている気持ちはあるだろうが、それでも王家に跪いたほうが得だと判断したのだろう。偶然にも“マリアンヌ”という名が建国の神話に出てくる聖女と一致したため、マリアンヌ・ド・ラファイエットを彼女の生まれ変わりとしてあがめだす者まで出る始末だ。その傾向は特に平民に多く見られた。
だが、そんな国民達のさまはアルフォンスには滑稽なものとしか映らない。そしてそう思っているのはシモン一世も同じのようで、すでに心を閉ざした王がフランカシアに戻ってくることはなかった。
それでも王子は違ったようだ。マリアンヌの功績に感銘でも受けたのか、あるいはこの女を自分の味方にしなければならないと判断したのか、フェリックスはマリアンヌを自らの寵姫とした。面白くないのは王子妃やその生家だろう。自分達は後ろ盾になりきれなかったのに、どこの馬の骨とも知れない女があっさりと王子の信頼を勝ち取ってしまったのだから。
おまけに寵愛まで奪われたとなれば、その怒りはとどまるところを知らないに違いない。マリアンヌ殺しの容疑者は多かったが、その中でも最も疑いが強いのが王子妃ロジーヌと彼女の実家関係者だった。
とはいえ、王子妃ロジーヌの父であるレーアン侯爵はマリアンヌが現れる二年ほど前から病に臥せっていて王都から離れた領地で静養している。彼には事件に関与できるような力はないだろう。
考えれば考えるほどわからない。これはただの殺人事件ではなかった。何故なら現場は密室であり、死体が現場から忽然と消えていたのだから。
その代わり、死体のあった場所には赤く染まったドレスと無数の花びらが散らばっていたという。目撃者の話では凶器はナイフだったそうだが、それすらも現場からは確認できなかった。ひとまず凶器は不明ということにされたが、そのせいか「殺害には黒魔術が使われた」などという与太話が出回っているそうだ。
マリアンヌの死体を確認できたのは第一発見者である四人の人物のみで、その死を立証するのもまた彼らの証言でしかなかった。現場に残された血痕という名の状況証拠がマリアンヌの死を明らかにしているが、証拠など偽装しようと思えばいくらでもできるだろう。ことによると事件が本当にあったかさえ怪しまれる。
死体が自分から消えるはずがない。世間では「マリアンヌは地上の人間ではなかったために、その亡骸を残さず亡くなったのだ」などという声があるが、アルフォンスはそんな世迷い事など信じていなかった。
たとえ相手が聖女の生まれ変わりと囁かれていようとも、アルフォンスにとってはただの人間の女にすぎない。死体の消失には、間違いなく第三者の介入があったはずだ。
マリアンヌの死体が発見されたのは、彼女の私室だったという。踏み込んだ衛兵達によって現場は調べられたが、その死体を発見することはできなかった。となると考えられるのは目撃者達が口裏を合わせている可能性だが、彼らがそんなことをする理由が思いつかない。
王子の愛を一身に受ける寵姫、それも聖女の生まれ変わりと称される女性が殺されたこの事件は、宮廷内だけでなく市井からの注目度も高かった。迷宮入りにすれば司法院の威信にかかわる。アルフォンスの検察官生命に懸けてでも、なんとしてでも犯人を見つけ出してこの事件を解決に導かなければならなかった。
ほどなくして書記官のジェルマンがアルフォンスを呼びに来る。発見者達の事情聴取の用意ができたようだ。尋問は一人一人行う予定で、一人目はフェリックスだ。他の発見者達は別の部屋で待機している。
目撃者としてとはいえ王子に尋問することにジェルマンは臆していたようだが、相手が何者であろうと法の前では一人の人間に過ぎない。アルフォンスが恐れる理由はなかった。
フェリックスは応接室で待っていた。黒い髪にとび色の瞳というその容貌は、彼が帝国の出身者であることを如実に示している。それはこの国ではめったに見られない特徴であり、帝国と友好的な関係が築かれる前の時代では“呪われた子”として忌み嫌われる証でもあった。
それに、彼は立ち居振舞いこそ気品が溢れているが、その容貌はお世辞にも美男子という言葉とは程遠いものだ。地味で小太りな、華のない青年。それがフェリックスという王子だった。
彼がなかなか国民に受け入れられなかったのは、その容姿のせいでもあるだろう。陰気な色彩のさえない青年が王子など、華美で優雅なものを好むこの国の気質にはそぐわない。男の見目などアルフォンスは気にしないし、アルフォンス自身平凡な容姿の持ち主だと自覚しているので、それでフェリックスをこきおろそうとはこれっぽっちも思っていないが、一種の同情のようなものは感じてしまった。
アルフォンスに気づいたフェリックスは笑みを浮かべた。たれ目がちのとび色の瞳はよく言えば温厚、悪く言えば鈍重な印象を与えていたが、笑うと好印象のほうに傾く。なんのことはない、人のよさそうな青年だ。王子などという立場でなければ、もっと生きやすかっただろうと思えるほどには。
そしてその印象が正しいことを示すように、「フェリックス王子は大国の貴族らしい生まれもっての尊大さこそあるが、根は優しく穏やかなお人だ」という評判を、貴族社会から距離を置いたアルフォンスも耳にしていた。けれど宮廷でそう言っているのは下級貴族や爵位を持たない役人ばかりで、フェリックスの人間性など多くの有力貴族にしてみれば軟弱だの気弱だのと言われて馬鹿にされる要因の一つに過ぎないのだろうが。
「フェルナン二等検察官。そなたの噂は私も聞き及んでいるところだ。そなたがこの事件を担当するなら、解決する日は近いだろうな」
「……尽力はいたしましょう」
「そうか。私にできることがあれば言ってくれ。協力は惜しまんぞ」
そう言うが早いかフェリックスは身を乗り出した。最愛の寵姫を失ったわりには元気そうだと一瞬思ったアルフォンスだが、よく見るとフェリックスの目の下にはうっすらと隈が浮かび、丸みを帯びた頬は若干こけている。無理をしているのだろう。
今の彼を動かしているのは王子としての矜持か、それとも最愛の女を失った男の執念か。いずれにせよ自分のすることは変わらない。アルフォンスはソファに腰掛けた。ジェルマンも筆記具を取り出す。
尋問の用意は整った。アルフォンスが促すと、フェリックスはゆっくりと口を開いた。