第一章 村の祭りと消えた宝石
一 二つの盗難
祭りまであと三日という朝、村の準備金が消えた。
それだけならまだよかった。同じ朝にもう一つ、ウォルド家の形見の宝石も姿を消した。
二つの事件が重なったことで、村は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
そして昼を待たずに、村人たちは犯人を決めていた。
「決まってる。あいつだ」
最初にそう言ったのが誰だったかは分からない。
気づいた時には、村のほとんどがそう思っていた。
あいつ、というのはリオンのことだ。五年前にふらりと村に現れた、よそ者の青年。
よそ者だから。
たったそれだけのことが、十分な理由になってしまう時がある。
私はその輪の外で、一つだけ引っかかっていた。
同じ朝に、二つ。
盗人が一人なら、なぜ金と宝石を両方狙って、両方とも持ち去れたのか。集会所とウォルド家は村の端と端だ。なぜ騒ぎになるまで誰にも見られなかったのか。
偶然にしては、できすぎている。
私の名前はセイラ・サバー。十六歳。村の便利屋とでも言えばいい。
困っている人がいれば話を聞いて、頭を使って、なんとかする。それが私のやっていることだ。
見た目はどこにでもいる村娘だと思う。亜麻色の髪に灰色の瞳。綺麗と言われたことは、残念ながら一度もない。
ただ一つだけ言えることがある。この体では十六年生きてきたが、中身はもっとずっと長く生きている。
どのくらい長く? それは秘密。言える時が来たら、その時に。
この村で私を育ててくれた人がいる。
ケイ・サヴァじいさん。村外れで武具を作る偏屈な老人だった。口数は少なく、笑顔も少ない。それでも、そばにいると不思議と落ち着いた。大きな木みたいな人だった。
半年前にいなくなった。その話はまた今度にしよう。
今は、目の前のことだ。
二 リオンの小屋
リオンの小屋を訪ねたのは、騒ぎが起きてから一時間後だった。
彼は薪を割っていた。私を見ても手を止めなかった。
「村中があんたを疑ってる」
単刀直入に言った。遠回しな言い方は好きじゃない。
「知ってる」
「やったの?」
「……やってない」
「そう」
私はそれだけ聞いて、丸太に腰を下ろした。
彼の手は薪を割り続けている。逃げる素振りも、言い訳もない。やましい人間の動きではなかった。
「それだけか」とリオンが汗を拭いた。「聞きたいことがあるなら聞けばいい」
「あんたがこの村に来た理由を聞かせて。あと、今朝どこにいたかも」
リオンは長い沈黙の後、薪割りを再開しながら口を開いた。
彼が育ったのは港町カルセ。漁師の父は五年前、領主の命じた港の拡張工事で足場から落ち、右足を潰した。治療費は払われなかった。
仕送りのためにこの村へ来た——というのは半分で、もう半分があった。
「父には親友がいた。この村の人間だ。名前はウォルド」
私の耳が反応した。
今朝、形見の宝石が消えたと騒いでいる、あの家の名だ。
「会いに来たの?」
「ああ。だが、どう話しかければいいか分からなくて、五年経った」
思わず笑いそうになった。五年。この不器用な青年は、五年間ずっと声のかけ方を考えていたのか。
「今朝は?」
「ずっとここで薪を割っていた。証明はできない。一人だからな」
できない、と正直に言うところが、この男らしかった。
ただ、ひとつ確かなことがある。
宝石を盗む動機があるとすれば、リオンこそ一番濃い。父の親友が持つ、対になった石。なのに彼は、その家の前にすら立てずに五年を過ごした。
声ひとつかけられない男が、忍び込んで石だけ抜き取る——その絵は、どうしても結ばなかった。
「もう一つ、気になることがあるんだが」とリオンが言った。「対になる宝石って、魔石のことじゃないのか」
私は手を止めた。
魔石。
この世界に魔石はない。そう遠くない昔、魔法と共に失われた。
一人の賢者が、人を傷つける力はいらないと言って、生活魔法だけを残し、強大な魔力を魔石に封じて人知れぬ場所に葬った。
……はずだ。
何かが引っかかった。けれど今は、その糸を手繰る時ではない。
胸の奥にそっとしまって、私は立ち上がった。
三 ウォルド家
ウォルド家を訪ねたのは昼過ぎだった。
出てきたのは四十代半ばの女性だった。目の下に疲れが滲んでいたが、背筋がしっかり伸びている。苦労した人間の持つ静かな強さがあった。
「セイラちゃん。宝石のことで来たんでしょう」
「はい。少し家の中を見せてもらえますか」
質素だが、丁寧に整えられた家だった。
私はまず戸と窓を見た。壊された跡はない。掛け金も無事だ。土間に見慣れぬ足跡もない。
次に棚を見た。古い道具が几帳面に並んでいる。銀の燭台も、客用らしい器も、手つかずでそこにあった。
「忍び込んだ人間が、宝石だけ持って燭台も器も置いていったんですか」と私は言った。
「……言われてみれば」
「盗人なら金目のものを残す道理がない。なのに、消えたのは宝石だけ。荒らされた様子もない」
私はもう一つ訊いた。
「奥さん。宝石はいつも、どこにしまっていましたか」
「それが……」と彼女は口ごもった。「大事なものだから、人目につかない場所に、その時々で隠していて」
「場所を変えていた、と」
「ええ。心配性なんです。隠しすぎて、自分でも分からなくなることが、前にも」
私は心の中で頷いた。
壊された戸はない。残された燭台。隠し場所を転々と変える持ち主。
点が線になりかけていた。
「宝石は夫の形見なんです」と彼女は話し始めた。「若い頃、旅の途中で出会った親友からもらったと。二つで一対。片方を親友が、片方を夫が預かったと」
「その親友の名前は」
「カルセの漁師だと。名前は……リオンさん、と言ったかしら。あ、でも息子さんも同じ名前だと、さっき聞いて」
そうか。
二つの事件は、最初から一本の線でつながっているように見えて、その実、まったく別の話なのかもしれない。
宝石の方は——たぶん、誰も盗んでいない。
四 消えた金の行方
ウォルド家を出た私は、祭りの準備金を管理していたガラン爺さんの家へ向かった。
「リオンを庇いに来たんなら帰ってくれ」とガランは疲れた顔をした。「もう村の総意で、あいつが……」
「まだ決めないでください。一つだけ。準備金はどこに」
「集会所の、鍵のかかった箱の中だ。鍵を持っているのは私と、あと二人」
「その二人は」
ガランは少し躊躇ってから答えた。
「ベルタと、その息子のコウだ」
ベルタ。
その名には聞き覚えがあった。先月から、父親が寝込んでいると聞いた家だ。領主の工事で怪我をして、もう三ヶ月も床に伏せている——そんな話を、誰かが井戸端でしていた。
「箱は壊されていましたか」
「いや。鍵で開けられていた。だから余計に、外から忍び込んだよそ者の仕業だと……」
私は黙った。
鍵で開けられた箱。鍵を持つのは三人だけ。そのうちの一人の家に、薬代に困った病人がいる。
「コウは今どこに」
「朝から見ていないな」とガランは言った。「そういえば……」
私はもう歩き出していた。
壊されていない箱は、よそ者の証ではない。むしろ逆だ。鍵を持つ誰かの仕業だと、最初から告げていた。
ベルタの家の戸を叩くと、目を赤く腫らした小柄な女性が出てきた。声が震えていた。
「コウは何もしていないんです。ただ、父親を助けたくて……」
奥の部屋に、父親が横たわっていた。右足に分厚い布。顔色が悪い。
「領主様の工事で怪我をして、もう三ヶ月。治療費を払ってもらえなくて、薬も買えなくて。コウが……勝手に」
「コウはどこに」
「森の古い小屋に隠れていると思います。気が小さくて、怖くなって逃げてしまって」
私は来た道を引き返した。
五 森の入り口で
森の入り口で、声をかけられた。
「やあ、セイラ嬢」
領主の使いの執事、セイヴァンだった。四十代半ば、いつも穏やかな笑みを浮かべている。村人には愛想がいいが、私はこの男が苦手だった。
笑顔が、丁寧すぎる。
「今日は早いですね。税の徴収はまだ先のはずでは」
「ええ、少し別の用がありまして。それより村が騒がしいようですが」
「祭りの準備で慌ただしいだけです」
その時だった。セイヴァンの目が一瞬、私の後ろ——ベルタの家の方向に向いた。
気づかなければ何でもない、ほんの一瞬の視線。
私は試しに、踏み込んでみた。
「領主様の工事で怪我をした村人への治療費は、どういう手続きで支払われるんですか」
笑顔の下で、何かが揺れた。本当に一瞬で、すぐに元に戻ったが。
「さあ、私はそういった手続きには詳しくなくて。では失礼します。祭り、楽しみにしていますよ」
彼は歩き去った。
私はその背中を見送りながら考えた。
ベルタの家を見た時の、あの目。驚きでも好奇心でもなかった。
あれは——罪悪感に似た何かだった。
知っている。あの人は知っている。治療費が払われていないことも、コウが何をしたかも、たぶん。
六 古い小屋
森の古い小屋は、すぐに見つかった。
扉を叩くと、軋む音とともに少しだけ開いた。中にいたのは、顔を青ざめさせた十八歳の青年だった。目が赤い。ずっと泣いていたのだろう。
「知ってる」と私は言った。「父親を助けたかったんでしょう」
コウは顔を覆って泣き崩れた。私は隣に座って、泣き止むまで何も言わなかった。
「父ちゃんが苦しんでるのを見てたら、もう限界で。祭りの金は、すぐ返すつもりだった。本当に。ただ、薬を買う金が、どこにもなくて」
「領主に治療費を請求しようとは思わなかった?」
「思った。でもセイヴァンさんに言ったら、そういう手続きはないって。工事中の怪我は自己責任だって」
私の中で、何かが静かに固まった。
セイヴァンは知っていた。知っていて、握り潰した。
「分かった。一緒に村に帰ろう。全部、私が話す」
七 真相
その日の夕方、村の広場に村人を集めた。
ガランが仕切ろうとしたが、私が前に出た。
「最初に言っておきます。今朝の二つの騒ぎは、別々の話です。盗人が一人、二つ盗んだんじゃない。一つは盗まれた金。もう一つは、最初から盗まれてなんかいない宝石です」
村人たちがざわついた。
「まず、宝石から」
私はウォルド家で見たことを話した。壊された戸はなかった。銀の燭台も器も、そのまま残っていた。盗人なら、なぜ一番値の張る物を置いていく。
そして、奥さんは大事なものを隠し場所を変えてしまい込む人で、前にも分からなくなったことがある。
「ウォルドさん。もう一度だけ、家の中を探してもらえますか。夫婦の寝室の、床板の下あたりを」
十分後、奥さんは小さな布袋を持って戻ってきた。
中から出てきたのは、深い青の宝石だった。光を受けて、きらりと輝いた。
「盗まれたんじゃない。しまった場所を、忘れていただけです。宝石は最初から、この村にありました」
安堵のため息が広場に広がった。リオンが目を見開いて、その石を見ていた。
「次に、金の話」
広場の空気が変わった。私はガランを見た。
「箱は壊されていなかった。鍵で開けられていた。鍵を持つのは三人だけ。そのうちの一つの家に、領主の工事で足を潰されて、三ヶ月も薬を買えずに寝込んでいる人がいる」
ベルタが俯いた。
私はコウを前に出した。そして、彼の事情をそのまま話した。父親のこと。治療費が払われなかったこと。薬代のために、返すつもりで金に手をつけたこと。
ガランが深いため息をついた。
「コウ。なぜ相談しなかった」
「みんなに迷惑をかけるのが、怖くて」
「馬鹿者」と言ったガランの声は、優しかった。「隣人というのは、そういう時のためにあるんだ」
何人かが頷いた。
「そしてリオンは」と私は言った。「最初から、何もしていません。この人はただ、父親の親友に会いに来ただけ。五年間、どう声をかけようか考えながら」
誰かが笑った。温かい笑いだった。
ウォルド家の奥さんが、リオンの前に歩み出た。
「うちに来てください。夫の話を聞かせます。あなたのお父様のことも、聞かせてほしい」
リオンは深く頭を下げた。その肩が、小さく震えていた。
八 もう一つの顔
広場が穏やかな空気に包まれた頃、私は外れに目をやった。
セイヴァンが、腕を組んだまま一部始終を見ていた。
目が合うと、彼はゆっくり近づいてきた。
「なぜ、宝石が盗まれていなかったことにしたんですか」
嫌味な笑顔だった。私はその質問を無視して、まっすぐ見上げた。
「コウの父親の治療費を、領主様に正式に請求します。手続きを教えてください」
笑顔のまま、セイヴァンは私を見た。
「それと、もう一つ。リオンのような男に、盗みの濡れ衣を着せるのはやめてください。父親と同じ事故で苦しむ家を踏みにじって、よそ者一人に村中の疑いを向けさせる——あなたは、今朝この村で何が起きるか、最初から知っていた。違いますか」
セイヴァンの笑みが、初めて崩れた。
今度は目も笑っていなかった。さっきまでの丁寧すぎる笑顔ではなく、何か別のものが混じった、複雑な笑い方だった。
「……分かりました」と彼は静かに頭を下げた。「手続きの書類を、用意します」
「ありがとうございます」
拍子抜けして踵を返そうとした私を、彼は呼び止めた。
「セイラ嬢」
振り返ると、彼は何か言いかけて、やめた。そしてまた笑顔に戻った。
「祭り、楽しんでください」
それだけ言って、彼は歩き去った。
その背中を見送りながら、私は思った。
やっぱりあなたは、何かを知っている。今朝の事件のことも、この村のことも——ケイ・サヴァじいさんのことも。
いつか、話してくれる日が来るだろうか。
エピローグ
その夜、私は村外れのじいさんの家に行った。
もう誰も住んでいない家だ。それでも、まだ片付けられない。
縁側に座って星を見上げた。懐の宝石が、微かに温かかった。
じいさん。今日また一つ、分かったことがある。
理不尽はどこにでもある。強い者が弱い者に罪をなすりつける。声を上げられない人間が、黙って耐える。
でも、じいさんはそれでも怒らなかった。いいんだ、と言った。
私にはまだ、その意味が全部は分からない。
ただ一つだけ分かる。じいさんが守ろうとしたものを、私も守ればいい。
それだけだ。
風が吹いた。草が揺れた。遠くで、祭りの準備をする村人たちの声がした。
── 第一章 終 ──




