大海
「じゃあ、行ってくる。」一声、僕は家を出る。
あれから僕は小さい職場、給料も低いものの何とか職にありつけた。
母を驚かせようと就職先のことに関しては詳しく話していない。
勿論職探しにあたって、プライドをずたずたに引き裂かれるようなことも幾度となく言われたが僕は耐えた。僕が今まで逃げ続けた分、切り裂かれてもいいと思っていたからだ。そうして一か月僕は働き詰めた。
「やっぱすくねぇや。」給料袋を軽く弾いて言う。当然だ。高卒職歴なし、スペースキー長押ししたようなの人間がありつける職業なぞ限られているに決まっている。
「でもまぁ、ちったぁマシ、だよな。」あの頃のことを思い出す。あの頃はどうしてあそこまで臆病に逃げていたのだろうか。そう思えるほどになっていた。
――「もしも」、もしもあの時僕がまだ「もしも」と言っていたら。僕はずっとあのままだったのだろう。僕たちが今生きているこの時もいつ「もしも」のあの時になるかわからないのだ。だから僕はもう、“もしものセカイ”には行かないことにしている。
自転車を転がしある所へ向かう。そして駐輪場に止めると僕はもう一度給料袋の中を覗き込み「でも、まぁこんだけありゃ足りるな。」と呟く。
向かった場所、薬局の中に入る。空調と独特な香りが鼻を擽った。
僕は目当ての物を探す。あった。
「母さんが昔使ってたのって、これ、だよな。」ハンドクリーム。ベタかもしれないが、僕はどうしてもこれを母さんに渡したかった。
僕はそのハンドクリームをレジに持っていき。金を払った。僕は僕が初めて稼いだお金を初めて使った。それは僕を何とも言えない気持ちにさせた。
「ありがとうございました。」店員がにこやかに言う。
社会に出て初めて分かったことは沢山ある。今までバイトなどをしたことのない僕にとって店員などは自分とはまた別の人種であるとまで思っていた。しかし、斯して働いてみると当たり前乍彼らも僕と同じであるということをよく感じられた。
夜の街、忙しなく駆ける車たち。
「よし。」、と一声。僕はハンドルから袋を提げると二輪を転がし叫ぶ。
「よし、やるぞぉ。」、一声。
その時僕の世界はもしものそれよりもずっと不遇なはずなのにずっと輝いて見える。理想の世界よりも、身の丈に合った幸せ。僕はこっちの方がいい。
「行くぞぉ」と腹の底からもう一声の雄たけび。
駆け降りる自転車に向かってゆくりなく吹いた風は、これからの苦しい人生の到来を告げるとともに僕の心の中を吹き抜け、頗るすがすがしい気分にさせる。
川の流れの行き着く先、そして井の中の蛙が知らない場所、大海は僕の思うよりもずっと荒波だったが迚美しく輝いていた。