もしもの”セカイ”
暗い部屋の中、僕はずっと呟いている。「もしも」と。
自分は今、底辺だ。今から抜け出しても、底辺にしかなれない。自信さえある。
「こんな自信はいらねぇよ。」と思わず投げやりに呟く。
底辺、底辺、底辺。いつだったろうか。嘗てもこんな事を呟いていた気がする。
その時、不意に携帯が震えた。
「なんだろう、突然。」僕は今までエラーメッセージ以外でなることのなかったケータイを開き確認する。
メールが一件、中学時代の友人、もといアイツからだった。内容は久しぶりに会わないか、そんな様な内容。
――中学時代か。
そういえば僕は、高校はとまれかくまれ中学の頃はどん底だった覚えがある。
結局、どうしたんだっけ。僕はくしゃくしゃのブランケットで体を包むとベッドに大の字になり考え始めた。
*
まだ中学に入ったばかりの頃、僕は勉強面で校内トップクラスだった。
当然と言えば当然。受験組が抜けた中、受験用でなくとも塾に通っていた僕が上のほうに行くのは当然かもしれない。それでも、僕は塾の中でトップクラスを維持し続けていた。
「裕也君はきっと○○高校に入るだろう。」、当初はそう言われていた。
でも、登ってきた崖はあまりにも高すぎて、つい、足がすくんでしまう。そんな中登ろうとしても体制を崩し、落下するのみ。もがいたところで、意味などなかった。命綱なんてない。一度落ちたら、それまで。気が付けばどん底。いつしか僕は県内で最も偏差値の低い高校に行くとさえ囁かれ始めた。
学校に居てもただ勉強の事だけが意識される。
確か、アイツはコンスタントに成績を伸ばし、その当時僕よりも遥か雲の上にいたっけなぁ。
兎角、そういった感情は僕の劣等感を煽り余計に辛くさせる。
他人に馬鹿と言われるのは嫌だ。けれど幾ら馬鹿というなと言ったところで彼らが僕を馬鹿だと思っていることに変わりはない。そんな真実に気づいたのも、この時だった。
「死んでしまおうか。」口で言うは何と易し。しかし実際は死ぬのすらも億劫で、堪らなかった。
――家に籠れば天国か?
否、そんな事はなかった。家にいたところで辛いのには変わりない。寧ろ昼間から家にいるのは何とも憂鬱だ。
それに、籠ったところで家は地獄、両親の関係はどんどんと悪化していき、この頃がピークだった。
だから、余計に家に居場所がなかった。まだ劣等感に包まれても学校の方が居心地良かった。
「そういえば、どん底な気分だった。」そう自らの記憶に対して呟く。
生きる希望なんてなかった。けれど、ある時アイツと同じクラスになった。
「おう。」ラコニアンな、一言の短い言葉を掛け合う。こんなやり取りが続いたが、でも次第に元の様に打ち解けあう。否、その時の僕には其れ迄の見下し感情はなかった。
アイツは相変わらずだったけど、僕は人の温もりを思い出した。それから、少し人と触れ合う機会が増えたからだろうか、僕の性格は少しずつ元の明るさを取り戻す。
あの頃迄の自分、人を才能で決めつけて、自分をも否定していた自分はいつの日か、才能という言葉を忘れ、心は前を向いていた。
――悪く言えば馬鹿になったのかもしれない。
「そういえばあの頃の俺はやり直せたんだっけ。」
夏には塾にも復帰した。無理だと言われた高校にも努力して合格した。
そうだ、あの頃は自分に失うものが無いと気づいた時から底辺だとか、そういうものを気にしなくなって、僕は自分を取り戻せたのだ。ある意味、吹っ切れたともいうのだろう。
――どうしてあの時、中学時代に気づけたのに今はこんなに“底辺”とかそういう事に拘ってしまうのだろう。今だってそうじゃないか。もう、これ以上失うものは無いのに、なのに何でプライドなんて気にしてしまうのか。
「また、やり直せるのかな?」僕は漠然とした行く先を見るようにカーテンから漏れる日の光を見る。
いつの間に朝になったのだろう。青々とした、光。それは僕の疑問に答えたようだった。
そもそも人生に勝敗つけるのは可笑しなことだが、僕の心内で人生の負けを認めなければ僕は負けていないと思えるだろう。でも、負けを認めなければ、次のゲームは始まらない、ずっと泥沼の儘なのだ。あの時だって、“負け”を認められたから、立ち直れた。
「そうだよ」と呟き乾いた笑いが漏れる。
「俺は。いや、僕は未来の僕から見たもしものあの時に生きてるんじゃないか。」一度過ぎてしまったら妄想の中でしか行くことが出来ない世界、もしものセカイ。それは僕が思っていたよりもずっと近く、今この瞬間に在った。
「アイツに二度も救われたなぁ」と口角上がりつつの不満見えぬ文句。
ふと扉の方に目をやると昨日母が持ってきてくれた飯がある。
一晩明かしてしまったのだ。とっくに冷めてしまっている。それでも無下にする気はなかった。
「さっきまでの俺なら、食べなかったろうな。」と笑いながら握り飯を一つとる。
――何てことない白飯握り。味付けは塩だけ、おまけに冷たい。
一口、また一口。それは冷たくなっている筈なのに、自然と温かく感じた。僕の好みの塩加減を覚えていたのだ。
口に含む度、涙が油ぎった頬を伝い、おまけに喃語の様な奇妙な呻きまで漏れる。
「そうだよ。僕はいつだってあの人に守られていた。」父に捨てられても、俺がどんなに酷く当ろうと、優しく接してくれた存在。
「恩返し、しなきゃじゃねぇか。」小さい頃、「将来僕の初任給で何か買ってあげるヨ。」よく、そう言ってたっけ。
嘗ての自分の将来への希望に満ちた目を思い出し、また涙がこぼれる。
「ごめんよぉ、ごめんよぉ」と嗚咽交じりに只管謝り乍米を咀嚼する。
その握り飯は今まで食べたどの握り飯よりもずっと美味しく感じられた。
*
一通り泣き腫らし、涙でぐしゃぐしゃになった、醜い顔を服の袖で拭うとベッドから降り、たち上がる。その瞬間思わずよろめく。自分の体はこんなものだったのかと不思議な感触さえ覚えた。
僕は決心していた。この暗い井戸を抜け出すと。夢なのかそれとも本当にただの妄想だったのかも知れない。けれど、この一晩の出来事は僕に一番身近にあって、まだ変える事の出来る“もしものセカイ”を教えてくれた。
社会復帰に関していえば、正直もう手遅れだとおもう。でももしそこでもしもと言ってしまったら決心を揺るがし未来のもしもを生んでしまうと思ったのだ。
部屋のドアはやけに重たかった。トイレに行く以外にここを開けるのはいつぶりだろう。階段の上からさす光が眩しく世界は暗転し、その光は身を焼くようにさえ感じられる。
家のあちらこちらに見ぬうちにガタがきているところがあり。その風景は五年前、明るかったときの面影はなく暗かった。しかし乍、キッチンのほうではコトコトとあの頃と変わらない音をたて、母が料理をしている。
「おはよう。」正直言って気まずかった。けれどもこれを言わずしては何も始まらないと思ったのだ。
「あら、おはよう。珍しいのね。」と母。久しぶりにまじまじとその顔を見る。暫く見ぬうちに髪の艶はなくなり、その顔には多くの皺が刻まれていた。僕の心の時が白黒で止まっている時も、時間は絶えず進んでいたのだ。
僕は思わず無言になる。母はそれを見てかぶりを傾げている。
見えない手が僕の肺を握りしめ酸素という酸素を絞り出していくのがわかる。頭の中はストロボ状態、暗転の繰り返しで立ちくらみを起こす。
もう、限界だった。僕はその場に崩れ、土下座の姿勢になる。
「今まですいませんでした。」五年間殆ど使っていない喉から発せられた叫びに近い声は擦りきれるようでその頼りなさを増幅していた。
「僕は今まで、母さんにどれだけ迷惑をかけていたでしょう。どれだけの暴言を吐いたでしょう。」けれども、そんな喉からも声を絞り出し、叫ぶ。
「僕は今まで、逃げていました。それが楽だったから。でも、それは母さんを含め多数の人を苦しめるだけでなく、自分の首をも絞めていた。事を知りながら、逃げていました。でも、これからは、手遅れで底辺にすら慣れないかもしれないけれど、もう一度、もう一度やり直させてください。」
そこまで言い終えると僕は前のめりになる。プライドなんてものは捨てた。あとはもう自己満足でしかないような叫びを垂れ流すのみ。
母は、無言だった。冷たいフローリングに頭を擦り付けている僕には母が今どんな顔をしているかわからない。わかるのは只今も無言であるということだ。
数秒の時が経つ。ふと頭に何かが乗せられる。――母の手だった。
その手は子供を撫でるように、私の頭を撫でていた。
「母さん?」僕は思わず顔を上げる。母は微笑み口を開く。
「母さんにはわからないけど、まだ、やり直せるよ。きっと。」漠然とした回答、しかしその微笑みの所為か不思議と安堵する。
僕がその眼を見ると、また微笑みまたそっと頭を撫でた。
手は随分と固い。母は昔から手荒れが酷かったがそれ以上に老化なのだろう。ボロボロだった。それでも、温もりだけは変わらない。小学生の頃のそれと同じ暖かい、温もり。
僕は耐えられずまた嗚咽を漏らした。大の大人の男が、だ。
しかし母は何も言わず僕を撫でた。子供の頃のように。
「あなたが例え、あなたの言う底辺になったところであなたは息子。私にとって息子ということは変わらないの。」やさしく微笑み、いう。
僕はそうして先ほど散々泣いたにも関わらず暫く泣きつづけた。
*
「母さん、肩でも揉んでやるよ。そこに座って。」半ば強引に席に座らせると「ありがとうねぇ」と母は言った。その声は以前より少ししわがれている。
肩を軽く握ると、やはり其処でも気付く事があった。僕が知っている母の背中はこんなにも小さく、頼りなかったか。
思わず目を下に背けてしまう。が、直ぐに向きなおり、肩を揉み始めた。
小さくなった母の背中、その背中は僕を背負うにはあまりにも小さすぎる。
一回一回、この上ない程丁寧に指を入れる。どうすればこんなになるのかと問いたい程その背中は固く、石の様だった。
「ねぇ、母さん。」この数年間、心のどこかで気づいていたのに、言えなかった言葉。
「母さん。今まで本当に、ごめん。そして、ありがとう。」また、涙が零れそうになるのを必死に堪える。
「穀潰しだったよな、俺。おまけにろくでなしが人の陰口ときた。本当、最低の息子だよな。」思わず乾いた笑い。
それでも母は「まだやり直せるよ。」と優しく言う。
身形に合った幸せの形、僕にとって、それが一番の幸せかも知れない。
その日、それからずっと、母の肩を揉み続けた。




