# 第12話「同族殺し」
その夜、レイヴァスは眠ることができなかった。
広場の壁に刻まれた、月を削るような傷。鞘走る音。暗がりへ集まっていく足音。どれも、小さな兆しでしかなかった。だが戦場で生き延びてきた者の勘は、小さな兆しほど見逃してはいけないと教えていた。彼は住まいの窪みで身を起こし、結局、広場へ戻る道を歩いていた。ガルフも、声をかけずに付いてきた。狼の耳は終始、夜の音を拾い続けていた。
「来るなら、今夜だ」
ガルフが言った。
「エルフの連中は、誇りで動く。だが今日のあれは、誇りだけじゃなかった。古い借りを、今夜のうちに返そうとしている匂いがする」
二人が市場の裏手、倉と倉の間に広がる空き地へ差しかかったとき、風が止んだ。
下層の空気は、常にどこかからどこかへ流れていた。深い層から上がってくる冷たい流れと、上の階層から降りてくる人の熱とが、通路の中で絶えずぶつかり合っている。だというのに、その瞬間、空き地の空気だけが、ぴたりと静止した。
魔法だった。それも、戦いのための魔法だった。
空き地の中央に、ルナーリアが立っていた。
昼と同じ旅装で、短剣だけを腰に下げ、彼女は一人、闇の中に立っていた。逃げも隠れもしていなかった。むしろ、待ち構えていた者の立ち方だった。彼女を取り囲むように、半円を描いて人影が並んでいた。昼の酒場にいた五人のエルフだった。全員が武装していた。二人は細身の長剣、一人は弓、一人は双剣、年長の男は杖を構えていた。精霊の息吹の印は、誰も身に付けていなかった。派閥の戦いではない。私的な、血の清算だった。
「……ルナーリア」
年長のエルフが、搾り出すように言った。昼に他種族の口から出た呼び名は、使われなかった。
「お前の名を、客人の名で呼ぶのは今夜で終わりにする」
「終わりにするのは勝手よ」
ルナーリアの声は静かだった。
「私を殺せるかどうかは、別よ」
レイヴァスは物陰で足を止めた。介入すべきか否か。エルフ同士の、百年単位の因縁だった。よそ者が割って入る権利はどこにもない。だが、弓を構えた若いエルフの手が、微かに震えていた。始まった瞬間に誰かが死ぬ戦いだった。震える手は、引き金を早める。
先に動いたのは、双剣のエルフだった。
風の魔法が、その男の足裏で弾けた。エルフの戦術だった。風で加速し、間合いを一息に詰め、細剣で咽喉と脇腹を同時に狙う。常人なら、姿を捉える前に斬られていただろう。
ルナーリアは、半歩だけ下がった。
下がると同時に、水が這い上がった。空き地の隅の水瓶が割れ、内側の水が意思を持つように流れ出し、彼女の周囲に薄い膜を張った。双剣の刃が膜に触れた瞬間、水は粘り、刃の勢いを殺し、軌道をずらした。一太刀目が彼女の髪を数本断ち、二太刀目は空を切った。
彼女の短剣が、返す動きで男の手首を打った。斬るのではなく、打つ。双剣の片方が地面に落ちた。だが男は怯まず、残る一本でなおも斬りかかった。憎しみが、技の乱れを力で補っていた。
そこへ、長剣の二人と杖の年長者が同時に動いた。
年長者の杖が地を打つと、空き地の空気が一変した。風の刃だった。目に見えない刃が三つ、四つ、ルナーリアの退路を断つように飛んだ。エルフの軍で使われる連携だった。風で追い詰め、剣で仕留める。レイヴァスには分かった。これは喧嘩ではなかった。彼女を殺すための、練られた手順だった。
ルナーリアは目を細めた。
彼女の周囲の水の膜が、渦を巻いた。水は盾であり、鞭でもあった。渦から伸びた水の帯が風の刃に絡みつき、刃の向きを逸らした。一つは倉の壁に当たったが、迷宮の壁は傷一つ負わず、刃は砕けて消えた。逸らされても、なおそれだけの勢いが残っていた。
もう一つの風の刃が、水の膜を破って彼女の肩を掠めた。布が裂け、血が一筋滲んだ。彼女の表情は変わらなかった。ただ、周囲の魔力のうねりが、目に見えるほどに膨れ上がった。
弓のエルフが、矢を番えた。距離は近かった。この距離で放たれれば、水の膜でも逸らし切れない。
レイヴァスは、物陰を出た。
「待て」
声と同時、というわけにはいかなかった。矢は既に放たれていた。彼は走りながら、矢の軌道を読んだ。咽喉を狙った矢だった。彼はルナーリアの前に割り込むのではなく、側面から腕を伸ばし、矢の根元を手で払った。矢は掌を裂き、血を散らして地面に転がった。掌に焼けるような痛みが走った。だが、逸らした。
「何者だ」
「止めに入った者だ。これ以上は、殺し合いになる」
「下がれ、混ざり者が。人とエルフの間に割り込むな」
双剣を拾い直したエルフが、レイヴァスへ斬りかかった。憎悪の矛先が、彼へ移ったのだ。
ルナーリアは、その隙に助けへは回らなかった。彼女は半歩退がり、年長者と長剣の二人へ向き直っていた。
細剣の軌道は速かった。レイヴァスは刃を前腕で受け流しながら、相手の袖口と手首を掴んだ。引く。押すのではない。相手の突きの力そのままに、体ごと前へ引き出した。エルフの重心が爪先の向こうへ崩れる。その一瞬に、彼は懐へ踏み込み、掌の付け根を相手の顎へ下から打ち上げた。頭が跳ね上がり、目が宙を泳ぐ。だが男は倒れなかった。残る剣を横様に薙いでくる。レイヴァスは身を沈め、その腕の下をくぐり、こめかみへ拳の付け根を短く打ち込んだ。
男の膝が折れた。
レイヴァスは倒れる体にそのまま覆いかぶさり、自分の体重を相手の背へ預けた。片膝で肩甲骨の間を押さえ、剣を持つ腕を背中側へねじり上げる。肘が極まり、男の指が痙攣した。剣が落ちる。彼は腕を極めたまま、男の意識が落ちるまで、体重を預け続けた。骨は折らない。だが、二度と立てなくなるまで緩めない。それが、彼の型だった。
だが、相手は一人ではなかった。
背後から、長剣が振り下ろされた。彼は転がるように身をかわしたが、間に合わず、刃は彼の背の布を裂き、浅く肉を切った。振り向きざま、もう一人の剣士の突きが来た。彼は突きの軌道に体を沿わせ、剣士の腕を掴んで手前へ引き崩した。剣士は倒れなかった。訓練された足腰で踏み止まり、膝蹴りを彼の脇腹へ入れてきた。鈍い痛みが走り、息が詰まった。種族の差は、こういうところに出た。エルフの体は細いが、百年以上の鍛錬が、その細さの内側に詰まっていた。
二度目の突きが来る。レイヴァスは今度は引かなかった。突く腕の肘の下へ自分の肘を差し入れ、相手の腕を上へ跳ね上げながら、逆の肘を鳩尾へ叩き込んだ。剣士の息が、音を立てて止まった。彼は崩れる相手の脚へ自分の脚を絡め、二人でもつれるように倒れ込んだ。地面に落ちる瞬間、彼は上を取った。相手の胸へ全体重を預け、剣を持つ手首を両手で掴み、腕ごと地面へ縫い付ける。剣士は起き上がろうと藻掻いたが、鳩尾の痛みで息が吸えず、やがて剣を手放した。
「レイヴァス、左だ」
ガルフの声と同時に、狼の男が戦いに加わった。短槍の穂先が、倒れた剣士に代わって迫る年長者の風の刃を弾いた。金属音ではない、空気の裂ける音が空き地に響く。ガルフはそれ以上深追いせず、槍を横に構え、エルフたちとレイヴァスの間に立つ形を取った。
ガルフの喉の奥で、低いうなりが鳴った。彼は口を開き、戦場に響く狼の声を、短く、鋭く放った。遠吠え。格下の獣を退かせ、格下の者の戦意を奪う、銀狼の固有の力だった。若い弓兵の膝が、がくりと折れた。弓が手から落ち、彼はその場に座り込んだ。だが、年長のエルフは、怯んだだけで立っていた。格が届いていない。力の相性が、ここでも勝敗を分けていた。
その隙に、もう一人の長剣のエルフが、ルナーリアの背後へ回っていた。
年長者の風が彼女の水の膜を正面から押さえつける間に、長剣が彼女の背へ突き出された。殺すための一撃だった。レイヴァスは声を上げる間もなかった。
ルナーリアは、振り返らなかった。
彼女の足元の水が、蛇のように跳ね上がり、突き出した剣士の腕に絡みついた。勢いが止まる。彼女はその腕の内側へ、半歩で滑り込んだ。短剣が鞘から抜かれ、一閃した。
迷いはなかった。
刃は男の咽喉を横へ裂いた。男は剣を取り落とし、両手で咽喉を押さえた。指の間から血が溢れ、膝が折れ、体が横倒しになった。数度、肩が震えた。やがて、それも止まった。
空き地の戦いが、一瞬だけ止んだ。
誰も、すぐには声を出さなかった。倒れた男は、もう動かなかった。レイヴァスは地面に押さえつけた剣士の手首を握ったまま、その光景を見ていた。今夜、初めて人が死んだ。止めに入ったはずの戦いで、死んだのだ。
「……よくも」
年長者の声が震えた。杖を握る手に、力が戻っていく。風が、怒りに押されて荒く渦巻き始めた。倒れた双剣のエルフは意識を失ったまま、弓兵は座り込んだままだった。残る戦力で、年長者はなおも彼女を殺そうとしていた。いや、それ以上だった。仲間を殺された者の目は、もはや手順を考えていなかった。
ルナーリアは、短剣の血を一振りで払った。
彼女のもう一方の掌に、熱が集まっていくのが見えた。空気が歪み、水の膜の端が蒸気を上げ始めた。風と水を操るエルフが、決して得意としないはずの属性。火が、彼女の掌に灯ろうとしていた。小さな火だった。だが、その火の色は尋常ではなかった。橙ではなく、蒼白く、芯の部分が白く燃える火だった。年長者の顔から、血の気が引いた。
彼女は何も言わなかった。警告も、情けも、そこにはなかった。掌の火は膨らみ続け、水の膜が蒸気と化し、風が熱を帯びて渦巻いた。このまま放たれれば、年長者は生きてはいないだろう。一人殺した手は、二人目にも同じように伸びようとしていた。
レイヴァスは、押さえていた剣士を解き放ち、立ち上がった。
火と、年長者の間に、彼は無武器のまま立った。掌は矢で裂け、背は斬られ、脇腹は蹴りの痛みで重かった。それでも彼は、ルナーリアの方を向いた。敵に背を見せる、無謀な立ち方だった。だが今、止めるべきはエルフの剣ではなかった。彼女の火だった。
「ルナーリア」
「退きなさい」
「退かない。これ以上、殺すな」
「あんたに、何の権利があるのかしら」
「権利はない。だが、ここで焼けば、お前もただでは済まない。それくらいは分かるだろう」
火の勢いが、一瞬だけ揺らいだ。説得が届いたのか、射程に割り込まれたことへの苛立ちかは、分からなかった。彼女の瞳は、彼を通り越して年長者を見ていた。
彼はその一瞬に、彼女の火を掲げた腕へ手を伸ばした。力で押さえ込むのではない。腕の流れそのものに手を添え、その向きを、上へ、空へ、誰もいない闇へと逸らしていく。火が、彼の掌を舐めた。矢で裂けた傷口の上から、灼ける痛みが骨に届いた。皮膚が焼け、焦げる匂いがした。だが、逸らした。
火の柱が、空き地の真上へ噴き上がり、天井へ届く前に散った。熱風が全員の髪と衣を煽り、水蒸気と灰の匂いが一面に広がった。蒼白い残り火が、雪のようにゆっくりと落ちてきた。
静寂が戻った。
年長者は杖を握り直したが、構える気力はもはや残っていない顔だった。地面には、動かなくなった男が一人、横たわっていた。その事実が、残りの者たちの足を止めていた。
ガルフが短槍を下ろし、エルフたちへ短く言った。
「今夜は終わりだ。倉の前で、死人まで出た。これ以上やれば、どの派閥も黙っていない。……お前たちの長も、それは望まないはずだ」
倉と配給所では血を流さない。それは元締めたちが守ってきた線だった。その線は、今夜、既に破られていた。その言葉が、エルフたちに残された最後の理性に届いた。年長者は長い沈黙の後、杖を引いた。
「……今日のところは、退く」
その声に、安堵はなかった。憎悪は消えていなかった。ただ、殺し合いの機会を失ったという事実だけが、彼らの足を帰路へ向かわせた。残った者たちは、動かなくなった仲間と、意識を失った双剣の男を担ぎ上げた。若い弓兵は震える手で弓を拾い、誰一人としてルナーリアを振り返ることなく、男たちは闇の通路へ消えていった。振り返らないのは、恐怖の表れでもあった。
空き地に残ったのは、三人だけだった。
ルナーリアは、地面に落ちた自分の短剣を拾い上げ、布で刃を拭った。熱風で乱れた髪を、彼女は直そうともしなかった。倒れた男の方を、彼女は一度も見なかった。
「余計なことをしたわ」
「そうかもしれない」
「誰も、助けを頼んでいないわ」
「知っている。俺は、殺し合いを止めに入っただけだ」
「止まらなかったわ。一人、死んだのよ」
彼女の声に、責める響きはなかった。事実を、事実として置いただけだった。その冷たさが、かえって重かった。
「あんたが割って入らなければ、私はあの場で全員を相手にしていたのよ。……今日、手を止めたのは、あんたに貸しを作るためじゃないわ。気が変わったわ。それだけよ」
彼女はそう言って、踵を返した。分からせようとも、近づこうともしない背中だった。だが三歩進んで、足が止まった。振り返りはしなかった。背中越しに、声だけが落ちてきた。
「その手、手当てしておきなさい。火傷は、放っておくと跡が残るわ」
レイヴァスは何も言い返さなかった。言い返せる言葉を、彼は持っていなかった。それが礼なのか、ただの気まぐれなのかも、彼には分からなかった。
ルナーリアの背中は、昼と同じように一人で、闇の通路の奥へ遠ざかっていった。崇められても、憎まれても、誰もその隣を歩かない背中だった。今夜、彼女は一人を殺した。それは事実だった。エルフたちの憎悪は消えず、彼女の行く先も、変わりはしなかった。止まったのは、殺し合いの続きだけだった。
ガルフが、レイヴァスの隣で溜め息をついた。
「関わるなと言っただろう」
「言ったな」
「それで、掌を焼いて、背を斬られて。……一人、死んだ。死人が出た夜は、ただでは終わらないぞ」
レイヴァスは、焼けた掌を見つめた。掌は火傷で赤く腫れ上がり、水ぶくれができ始めていた。矢の傷と重なって、指を曲げるたびに痛みが走る。火傷の痛みは、今になってじわりと強くなってきた。彼の掌の中で、腕輪が微かに熱を持ったまま冷めていった。
その夜遅く、彼が住まいへ戻る道すがら、通路の分岐で、微かな笛の音を聞いた気がした。昼のエルフの一人が懐に持っていた、あの短い筒の音に似ていた。音は深い層の方角、下へ、下へと遠ざかっていった。
今夜の出来事は、既に誰かへ報告されようとしていた。エルフだけの秘密を抱えた者たちの、さらに上の者へ。殺し合いは止まった。だが、止まったのは今夜だけかもしれなかった。
レイヴァスは、焼けた掌をそっと握りしめた。月の客人を巡る闇は、まだ深くなり始めたばかりだった。




