【6-5】白濁の境界線
意識の底から浮上する感覚は、泥沼から身体を引き抜くような重苦しさを伴っていた。
耳元で断続的に震えるスマートフォンの通知音が、堂島和樹を強制的に覚醒へと引きずり戻す。
「……っ……」
重い瞼を持ち上げると、視界を埋め尽くしたのは、目に刺さるような無機質な「白」だった。
鼻腔を突くツンとした消毒液の匂い。規則正しく時を刻む医療機器の電子音。
(……病院、か……)
状況を理解しようと僅かに身じろぎした瞬間、全身を鋭利な刃物で切り刻まれたような激痛が駆け巡った。腕、胸、脇腹。視線を落とせば、身体の至る所が厚い包帯で覆われ、点滴のチューブが蜘蛛の糸のように腕から伸びている。
あの、雨上がりの高速道路での死闘。
人間とは思えない硬度の肉体、灰色の粘土のような体液。そして、一本背負いでアスファルトに叩きつけた時の、手首が砕けるような衝撃。
それらが痛覚と共に鮮烈に蘇る。
ふと、左手に温かく、少し湿った重みを感じた。
視線を巡らせると、ベッド脇のパイプ椅子に、小さな身体が丸まっていた。
磐座あやめだった。
彼女は動物園で手に入れたパンダのぬいぐるみを胸に抱きしめ、窮屈そうに身体を折り曲げながら眠りに落ちていた。そして、その小さな右手は、点滴の管が繋がれた和樹の左手を、壊れ物を扱うようにぎゅっと握りしめていた。
(……無事だったか)
安堵が、喉の奥に熱い塊となって込み上げる。
親友・護の忘れ形見。この小さな手を離さないことだけが、今の和樹をこの世界に繋ぎ止めている唯一の錨だった。
和樹は、枕元で震え続けるスマートフォンを、震える右手で手に取った。
画面には、大山からの着信履歴と、一通の短いメールが残されていた。
『和樹、生きてるか。警察は動けない。病院を出る時は、絶対に一人で動くな。影山が、本格的にお前たちを「切り捨て」に来るぞ』
その文字を見た瞬間、和樹の周囲の空気が一変した。
守るべき組織からの拒絶。自分たちは今、法の手の届かない場所で、国家という巨大な怪物に追われている。
完全なる孤立。
それが、堂島とあやめが置かれた、残酷な現状だった。
同時刻。都内某所、地下深く。
地図には存在しない、公安の隠れ蓑となっている施設の一室。
照明を極限まで落とした部屋に、無数のモニターの青白い光だけが不気味に浮かび上がっている。
「……No.4の確保に失敗、か」
モニターの前で、仕立ての良いスーツを着た男――公安のエリート幹部、影山が、感情のない声で呟いた。
ガラス越しに見える隣の部屋では、手術台の上に「何か」が固定されていた。
それは、数時間前まで堂島を襲撃していた、あのバイクの男だった。
だが、その姿は見るも無惨だ。堂島によって破壊されたヘルメットは外され、頭部の一部からは金属の骨格と人工筋肉が剥き出しになっている。四肢には無数のチューブが繋がれ、得体の知れない緑色の液体が、循環ポンプの音と共に全身へ送られていた。
「……障害……因子……堂島……排除……」
手術台の上の「男」が、壊れたスピーカーのような声で、うわ言のように繰り返す。
そこに人間としての尊厳など微塵もない。ただの「部品」として扱われるその姿を、影山は冷徹な眼差しで見下ろしていた。
「プロトタイプ(試作一号)では、感情の制御と、状況判断能力に難があったようだな。『家族』という非論理的な要素に反応し、攻撃行動が鈍った可能性がある」
影山は手元のタブレットを淡々と操作した。
画面には、堂島が入院している病院の図面と、その中心で明滅する、あやめの生体反応を示す波形が表示されている。
影山にとって、和樹はもはや守るべき同僚でも、敬うべき法執行官でもない。国家の利権である「Returnees」の回収を妨げる、ただの障害物に過ぎなかった。
「次は、『二号』を出す。今度は躊躇の余地を残すな」
影山の指が画面をスワイプする。
闇の中から、新たな殺意が静かに起動しようとしていた。
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