2.街角の幽霊
夕飯時の繁華街。
駅から少し遠い通りにある居酒屋は、けれど週末を待たずに賑わっていた。
「三番さんの料理まだ?」
「ドリンクでまーす」
「飲み放題ラスト聞いてきて」
飛び交う指示の中、慌ただしくすれ違う店員を避けて、空いた皿を持った樹生は壁にぎゅむっと張り付いた。
両手にジョッキを抱えた男が突進するがごとくテーブルを目指すのを見送って、奥の洗い場に皿を持ち込む。
「イツキン!ごめん、焼き物皿ない!」
「ジョッキもそろそろやばい」
「はい!」
「がんばれテイミー君。これも頼むわ」
時間帯雇用の総称で呼ばれ、テーブルを片付け終わった後の皿が山済みで持ち込まれても、とりあえず元気よく返事をするしかない。
けれどその愚直さが気に入られ、樹生はすでにこの居酒屋の時間帯雇用に入るようになって半年が経っていた。
サークル活動や大学の講義でぎりぎりまでシフトの日程が決まらない樹生のような大学生にとって、その日、時間ができてふらりと出社できる時間帯雇用は何とも便利なシステムである。
特に今日は忙しかったらしい。
半年も通っているくせにいまだに洗い場ぐらいしかできない樹生でも、飛び込みでバイトをしに来たら神のように歓迎された。
期待に応えたい気持ちもあって、とにかく持ち込まれた洗い物を下洗いして洗浄機にぶち込んでいく。
洗い終わった皿やグラスを片付けながら、次の洗い物。
時折、店員たちに混じって「ありがとうございました」やら「いらっしゃいませ」「お願いします」なんて掛け声を上げていたら、四時間の労働なんてあっという間に終わってしまった。
半年も通ううちに、洗い場の閉店作業ぐらいならできるようになっていたので、ベテランのパートであるモモさんこと桃坂と店長の郷野と三人で、客の居なくなった店を片付けた。
「いやぁ、助かったよ。今日はまさか飛び込みで十人入るとは」
「まじで、洗い場爆発するかと思った!ありがとうね」
「あ、注文ミスったやつ、パックに入れといたから持って帰ってね」
そんなことを言われながら、まだ事務作業をするという店長を残して、今晩の夜食を手に入れた樹生は、真っ暗になった繁華街を駅に向かって歩く。
正直なところ、樹生は別に二駅くらいなら歩いて帰ってもいいのだが、女性である桃坂を一人で返すのが心苦しいというのもある。
なんといっても桃坂は、小柄で少しふくよかな体系に似合う、ふんわりとした笑顔がかわいい人だ。
いつも明るい雰囲気は、一緒に居ると笑顔になれる。
「そしたらその客が、ってあー、またじゃん」
今日の仕事中に起きたエピソードを聞きながら歩く先で、交差点の点滅信号に差し掛かった時、桃坂が声を上げた。
あれ、と指をさされてそっちを見れば、交差点の向かい側の角に、敷き詰められたペットボトルやお菓子のゴミ。
いや、よく見れば中身があるようだ。
「あそこね、一年前まで角にお地蔵さんがあったの。でも道を広げるのに邪魔だからって近くのお寺に移動されちゃったのね。それなのに、散歩中のおばあさんが何もないところにお供えするの」
「へぇ」
言いながら、歩行者用の信号ボタンを押そうとした樹生は、その手に黒い模様が浮き出てるのに気づいてぎくりと肩を跳ねさせる。
「それでね」
と桃坂が話を続けて、指先がかちりとボタンを押した時には、腕の模様は消えていた。
「あそこを交通事故現場だと勘違いした人がお供え物を置くようになって、便乗して飲みかけの缶ジュースとかペットボトルとかが置かれるようになっててね。道が狭くなって危ないし、片付ける人の身にもなってよね!」
とはいうが、桃坂の家も二駅先で、別にあのゴミを片付けるわけではないはずなのだが。
居酒屋で働いていると、片付けるのは自分ではないからととんでもないことをするやつは多い。
その後始末を担ってきたからこその怒りというのも、樹生は何となく理解できた。
明日の朝、あるいは夜明け前、あの積みあがったものを片付ける誰かが居るのかと思うと、樹生は何となく、応援のつもりで両手を合わせ、見たこともない苦労人に対して尊敬の気持ちを伝えた。
「なにしてんの?」
「あ、いえ」
信号が変わって、静まり返った交差点に鳥の鳴き声が響く。
そうして例の現場を通り過ぎる時、そこに人影が見えた気がして振り返った。
誰かがまた、ごみを増やしているのだろうかとしばらく目を凝らしてみたが、人がいる様子はない。
気のせいだったかと向きなおった樹生の背後で、ふらり、黒い靄が立ち上る。
「じゃあ、気を付けてね」
電車で二駅を共にして、他愛のない雑談をした後は、駐輪場で桃坂が自分の自転車を見つけて乗り込むまでを見守った。
樹生のアパートとは反対方向の住宅街へ消えていく桃坂の背を見送って、樹生もまた家路についた。
住宅街の間に突如生える無機質なビルのようなアパート。
一フロアに二部屋しか入らないそのコンパクトさと、一人暮らし向けの最低限な設備に、住宅街故に周辺にはコンビニも無ければスーパーもないという若干の不便さも相まって家賃は安い。
会ったことのない隣人に気を使いながらも静かにキーを回してドアを開けた先、部屋の灯りがついていることに仰天した樹生だったが、ワンルーム故に入ったとたん眼に入るリビングで、寝そべったおじさんがポテチを食べながらテレビを見ていることに驚愕が重なる。
「何してんの?!」
「あ、おかえり」
「ただいま、じゃなくてっ」
かばんを放り投げて、寝そべる男の側に膝をつく。
「俺の秘蔵のおやつっ」
「うまいよ。食べる?」
「う…」
差し出されたそれに大人しく噛みついて、口の中に広がるジャンクな味わいに浸る。
「コンビニ限定の期間限定だぞ」
「どうりでうまい」
限定が二つもつくその駄菓子は、限定二つ分のお値段が上乗せされている。
貧乏というわけでもないが、親の仕送りを当てに生活している樹生としては、一つの贅沢だった。
「つか、幽霊が駄菓子食ってんじゃねぇよ」
「だよな、おじさんもびっくり」
言いながら、また一つ摘まんで咀嚼する男の下肢は、膝から下が半透明に透けていた。
福生修平、と彼は名乗った。
サークルの活動でリゾート地にてナンパをしていた樹生は、先輩が壊した祠の怪異に襲われているところを、福生に助けられた。
その後、その後病院で目を覚ました樹生の前には、半透明でふわふわと浮かぶ福生の幽霊が居て、そしてそれらは他の人には見えていないらしく、混乱と恐怖の中、結局誰にも彼の存在を話すこともできず、帰って来てしまった。
彼曰く、彼の身体は樹生たちの運ばれた病院で眠り続けているらしい。
学生によって民宿の管理人に害が及んだとなれば外聞が悪い。
しかもそれが祠の呪いなんて言う怪しいものならなおさらだ。
そんなわけで、他言無用の誓約書に署名させられて、樹生はおじさんの肉体と対面する余裕もないまま、霊体だけを連れて帰って来てしまったのである。
ぎゅう、と空腹で樹生の腹が鳴る。
「…風呂入ってくる」
楽しみにしていたお菓子を幽霊に食べられたという事実を飲み込んで、けれど食事をする前に汗と洗い物の汚れにまみれた体を洗いたくて、とりあえず浴室に飛び込んだ。
浴槽のないシャワーだけの狭い浴室で温かい湯を浴びながら、ふと左腕を眺める。
あの日、得体のしれないものを抑え込むために差し出した手には、呪いの一部が宿っているらしい。
俺が箱で、お前の左手は蓋。
と、おじさんは言った。
あの夜、樹生たちを襲いに来た怪異を封印しようとしていたおじさんの手を掴んだ時、持っていた呪具と怪異が反応し、それに触れた樹生とおじさんとの間に何かしらの契約が結ばれて、おじさんの魂が繋がれてしまったとか。
「俺の身体はアンタらと一緒に運ばれて別の病室で寝てるよ。重なってみたり色々試したけど、何も起きなかった」
病院で目覚めた樹生の前に現われたおじさんは色々説明したついでにそう言って、ぶっちゃけ死んだと思ったんだけどな、と笑った。
その後は、事情聴取に来た警察やら学校の先生とかの周りを飛び回ってふざけるおじさんを見えないふりするので忙しくて、そのことについて考えるのは後回しにしていたけれど。
あの日から樹生の左腕には時々刺青のようなものが浮かび上がることがある。
それは樹生にしか見えなくて、そして樹生にしか見えないものはそれだけではなかった。
眼の端に時折過ぎる、得体のしれないもの。
まだはっきりと認識することはそんなにないけれど、明らかに、この世のものではないものの気配を感じることが増えていた。
きっとこの、呪いのせいだろうと思ってしまうのは仕方ないことで。
不意に、帰り道に目の端で捕えた影のことを思い出して、熱い湯を浴びているのにゾッと背中に悪寒が走った。
狭い浴室、後ろにもし、何かが居たらなんて考えかけて、振り払うようにがしがしと頭を洗う。
ボディソープで体を雑に流し洗って、できるだけ何も考えないように入浴を終えた。
樹生が風呂から上がると同時に、ちん、と電子レンジが鳴る。
「おお、ちょうどよかったな」
タオルで髪を乾かす樹生の前を、皿に盛られた惣菜やらご飯を乗せた盆がおじさんの手によってふわふわと運ばれていった。
おじさんの存在は酷く不安定で、まるで本当にそこに存在しているかの如くはっきり見える時もあれば、今みたいにほとんど透けて見えることもある。
本人曰く「なんか気圧とかじゃない?」だそうだが、おそらくお盆を運んだりだとか、ポテチを食うだとか、そういう現世に干渉することをすると、力を使って薄くなるんだろうな、と最近気づいた。
食卓としても使っているローテーブルに並べられた料理と共におかれたコップにお茶を注ぎ終わってふわりとベッドに横になると、半透明だったおじさんは幾分かはっきりと姿を現したが、ベッドサイドに置かれた漫画を手に取ると、またすぅっと存在が薄くなる。
おじさん自身の意思で樹生に見えないよう姿を消すこともできるみたいで、ずっと近くに存在を感じてうっとおしいと思うことはほとんどなかった。
むしろ、樹生が一人暮らしであることを知ると、時折こうして気まぐれに世話を焼いてくれることも多く、ポテチを勝手に食われたぐらいでは怒る気にもなれないというのが、正直なところだ。
「いただきまーす」
炊き立てのご飯とインスタントの味噌汁。
それに温め直された、居酒屋からもらってきた残り物の惣菜を、空っぽの胃袋に詰め込んでいく。
居酒屋の惣菜は昔どこかの料亭で働いていたという店長が独自に考えたもので、店で出しているお酒に合わせた味付けではあるものの、学生の身には充分な食事だった。
温かい食事を終えた満足感で、このまま眠ってもいいな、とベッドに寄り掛かった樹生を、ぬっと顔を出しておじさんがのぞき込む。
「うわ、びっくりした」
「お前、なんかしたろ」
「へ?」
思わず横へ倒れこむようにして逃げた樹生を、重力を無視した動きで追いかけたおじさんが、胡乱な視線で見下ろす。
「帰りになんかしたろ。もしくは見たか?」
「なんかって…」
思い返そうとするや否や、記憶の端に追いやっていた、あの黒い影が蘇る。
見た、というか、感じたというか。
「見たっちゃ見たけど。見ただけって言うか」
「……」
「な、なんだよ」
「本当に見ただけか?」
「えっ、いや、どうだっけな…」
それを見かけた状況を思い出して、前後の記憶を掘り返す。
確かあれは、仕事を終えた帰り道。
そうだ、例の交差点で、桃坂さんと一緒に居た時で。
必死に記憶をたぐりよせながら、居酒屋バイトの帰りに交差点の前で聞いた話と、その時の状況をおじさんに説明した。
話を聞いたおじさんは、空中であぐらをかいて、腕を組んで難しい顔をする。
「な、何かやばい感じ?」
「やばいつーか、やばくないっつーか」
「どっち、どっちなの!」
「どっちかわかんねーっつか、微妙っつーか」
「はっきりしろよっ」
おじさんは、顎に手を当て、うーん、と唸り、首をかしげて、傾げすぎて一回転した。
「俺とお前に縁ができた話はしたな」
「う、うん」
「で、お前さんはその交差点で見た何かとも、縁ができてるんだ」
「え、でも、あの交差点は別に事故が起きたとかじゃないだろ?何がいるんだ?」
桃井さんの話では、あの交差点は見晴らしもよく、事故が起こるような場所ではない。
確かに、一度も起きたことがないというわけではないだろうが、よくある呪いの交差点みたいな噂があるなんて知らない。
「あ、角に立ってたお地蔵さんの呪いとか?移動させられたことを恨んで…」
「だとしたらもっととんでもねぇ呪いになってそうだがな。俺はそれより、事故もないのに置かれるお供えものが怪しいと思うね」
「お供え物?」
「そう。人の想いってのは複雑でな。たとえ勘違いでも、そこに何かがあると思って祈ったら、何かが残っちまうもんなんだ。おまえの話を聞くに、そこには大勢の祈りがささげられて、何かしらの力がこもってた。そこにもし、たまたま、形もない何かが通りかかったら、うっかり何かになっちまうこともある」
「なにかって…」
「それにな、お前さんも拝んだろ」
「あ…」
「今、お前さんはかなり特殊な状況だからな。おまえさんの拝みが最後の一押しになって、そこに何かが生まれちまった可能性がある」
「お、俺のせいかよ」
「生まれた何かが、いいものか悪いものかわからん。少なくとも、地蔵が立つ程度には曰くがある場所だ」
言われてみれば、である。
誰が立てたかも知らないが、そこに地蔵があったのは、いつかの誰かがそこで起きた何かを地蔵に託した可能性もあるのだ。
「祈られて、神になるもんもある」
「へぇ」
「つっても、そんなのは稀だがな。道端の神様が生まれる瞬間ってのも面白そうだ。明日俺もついてって様子見させてくれよ」
「えぇ…まぁ、いいけど」
おじさんが憑いてきてまだ数日。
連れて出たことは一度もない。
どうせ誰にも見えないとは思いつつも、部屋の外でもおじさんがちらちらと視界に入るという状況がどんなものか、まだ樹生には想像もつかない。
「ってか、来るなって言ったら来ないのかよ」
「どうだろうね」
ここ数日、樹生がおじさんに対して何か命令したことは無く、強制力があるのかなんてわからなかった。
それでも、あの時見たあの得体のしれない何かと一人で対峙すると思えば、おじさんが視界をちらちらするぐらいどうってことなさそうだった。
翌日、樹生は昼前に目を覚ました。
自宅謹慎を言い渡されているため登校できないこの一週間を利用して、深夜手当が出るあの居酒屋のバイトをみっちりと予約したのだ。
昼食の時間に朝ご飯を食べ、友人たちに頼み込んで送ってもらった、出られなかった授業の板書をノートに書き写し、課題をこなしていく。
そうして夕方に差し掛かろうという頃になって仕度を始めた。
おじさんの方は特に何をするわけでもなく、部屋の中をうろうろしたり、渡したタブレットで漫画を読んだりしていたが、出掛ける支度が終わるとふわふわと寄って来た。
「おじさんは基本君にくっついとくから、気にせずいつも通り過ごしてくれればいいよ」
「気にしないわけないだろ」
「もしかしたらおじさんのこと見えちゃう人とかもいるけど、知らぬ存ぜぬで通せば問題ないから」
「そんなこと言ったってなぁ…」
ぼやきながら部屋を出て駅に向かう。
道に出るころにはおじさんは姿を消していたが、なんだかずっとそばに気配のようなものを感じて落ち着かない。
けれどすれ違う人の視線はこちらを見るわけでもなく、静かなものだった。
気配のようなものもどうやら樹生の気にし過ぎのようで、電車に乗るころには気にならなくなっていた。
だからこそ、時折窓ガラスやカーブミラー、ちょっとしたシルバーの反射に移る自分の肩に座ってるおじさんや、頭に覆いかぶさるようにぶら下がってるおじさんが見えた時おどろいてしまうのだが。
声を上げて周囲の注目を集めかけたが何とか振り切って、早く慣れろと自分に言い聞かせて早足にバイト先へ向かう途中、例の交差点に差し掛かった。
すると、ちょうどあの角の場所に人だかりができていて、歩みを緩めて様子を伺ってしまう。
どうやら騒ぎの中心は老婆のようで、それをなんだか妙な格好をした人たちが取り囲み、争う様子を野次馬たちがスマフォのカメラを向けて取り囲んでいた。
人ごみの間から、ちらちらと老婆の姿が見える。
雑踏に混じって聞こえる怒鳴り声は断片的だが、私の勝手だとか、罰当たりだとか聞こえるところから、なんとなく、昨晩に桃坂から聞いた「何度注意しても散歩中に花を供える老人」なのだろうと見当がついた。
信号を待つ間、何となく騒動の方を見てしまう。
人ごみの間から、ちらちらと、争い合う様子が見える。
中心人物たちの動きに合わせて、野次馬たちが被害を避けてばらばら動き、人の壁が割れていく。
「見るな」
「…っ」
片耳のすぐそばで声がして、思わず振り向いた。
立体音響で片耳のイヤフォンにだけ音が乗ったような、あの耳かきだとか水音だとかでリラックスする感じのやつみたいな、微細音で鼓膜を刺激する囁き声にぞっと背筋が粟立つ。
「なんだよっ」
思わず大きな声が出て、驚いた周囲から何度目かの注目を集めながら、虫かなぁ、なんて苦しい言い訳をしながら歩みを速めた。
押し殺した笑いの気配がひしひしと伝わる。
「いやぁ、ごめんごめん。ああいうのはさ、目が合っただけで寄ってきたりするもんだから。こっちが見てるって気づかれるとなおさらね」
「脅かすなよ」
「忠告だよ」
言ってる間に居酒屋についた。
挨拶をして制服に着替えてタイムカードを設定して働き始める。
今日は桃坂は休みで、代わりに同じく大学生でアルバイトとして登録している健介と一緒だった。
平日で予約もないとなれば、来客もまばらで、昨日のような忙しさもなく、手の空く時間も多い。
もう少し遅い時間になれば、仕事を終えた勤労者たちで忙しくなるだろうという束の間の静けさで、樹生は「そういえば」と健介に話しかけた。
「今日、来るとき交差点でなんか揉めてたんだけどさ」
「事故ですか?」
「いや、言い争いみたいな。それが、老人と集団だったんだけど、集団の方が妙な格好しててね。コスプレって言うのかな。アニメキャラとか、特撮のヒーローっぽいやつも居たな。ゴスロリ?みたいな服着た人もいて」
来る前に見たあの不思議な光景を何とか説明する。
面白いものを見たという体験を何となく共有したいという程度の雑談だったが、意外にも健介は彼らの正体を知っていた。
「ああ、ゴミ拾い隊の人達っすね」
「ゴミ拾いたい?」
「街の平和を守るって名目で清掃活動してくれてる人達ですよ。ほら、一時期ハロウィンとかでポイ捨てが話題になったじゃないっすか。それで悪印象を受けたそういう界隈の人たちが、面目躍如っすかね。コスプレしてゴミ拾ったりして、動画とか上げてますよ」
「そうなんだ。えらいね」
「売名だ、とか色々言われてますけど、ゴミ拾ってるのは事実ですからね。色んな支部があったり、全然違う自治体とかグループだったりして、その一つじゃないですか?つーか、揉めてたってなんで?」
「えっと、地蔵があった交差点の話知ってる?」
そこまで話せば健介は、訳知り顔で、ああ、と答えた。
どうやらあの交差点のゴミ溜め問題は、樹生が思っているよりも世間的に有名らしい。
「あれを毎回片付けてくれてるのがあの人たちなんですよ。そりゃあ、発端となる人にちょっと厳しくなっちゃうのもわかる気がするな」
「なるほどね」
思わぬ事実を聞いて、樹生もぼんやりと納得する。
変な人たちだと思った集団は、樹生よりもずっと公共に奉仕していて、同じく人知れず道端の地蔵に奉仕していた老人と対立しているというのは、何とも複雑な気持ちになった。
なんとなく、おじさんの意見を聞きたいなという気持ちも沸いたが、それをかき消すように来店があって、そこからはじわじわと忙しくなり、沸いた気持ちはすっかり忘れ去っていた。
樹生がバイトであくせく働いている間、おじさんはというと天井に寝そべって樹生の働きっぷりを眺めていたかと思うと、座席の客の間に挟まって堂々と盗み聞きしていたり、しれっとカウンターの端に座って隣の席の客の料理をつまみ食いしたりしていた。
ちらちらとおじさんが視界に移る度、想定外の場所で思いもよらないことをしていて、いちいち驚かされるのでいつも以上につかれたような気がする。
カウンターに居た時などは、店長にも何か感じることがあったらしく、おしぼりを持っていけだとかオーダーを取りに行けと指示されて、健介と二人で困惑する羽目になった。
閉店作業をしながら、
「今日はごめんな。俺、疲れてたのかも」
なんて謝られ、お詫びにとまたお土産を包んでもらった。
晩飯が手に入ったのはうれしいが、原因に心当たりがある分、ちょっと気まずくもある。
おじさんはおじさんで、俺のおかげだな、なんて笑うので、余計に。
「じゃあ、気を付けて」
自転車で来ている健介は反対方向へ帰っていくので、今日は一人で駅に向かう。
繁華街のほとんどの店は閉まっているが、朝までやってる店に流れる客や、店から漏れる声で意外と騒がしい。
学校が休みの分、いつもより長く働いたので、疲れもその分溜まっていた。
さっさと帰ってシャワーを浴びたい、と家路を急ぐ樹生は、交差点に行き着いてやっとその存在を思い出した。
そうだ、今日はここの様子をおじさんが見たいと言って、だから一緒に来たんだった。
忙しさに忘れていたことを恥じつつ、おじさんにどうするか聞こうとして周囲を見回したのが悪かった、と後で思う。
ふり返った視界の端、虫が横切るような違和感に、本能的に視線を戻した。
対角線上にあるその角に、信号や電柱の柱から見える向こう側。
道を広げた後のコンクリートの壁の角が見えるはずのそこにいるなにか。
得体のしれないそれと、目が合った。
「あ…」
ぎしり、両足が縫い付けられたようにその場に留まり、身体が硬直して動かなくなる。
瞬きもできない目が見つめるその先で、柱の隙間から、それがぬるりと這い出した。
べちょり、音がしそうな勢いで、それは道路に生れ落ちる。
先ほどまで聞こえていた夜の繁華街の気配を、耳鳴りが押し流していく。
わんわんと、水に浸かったようにぼやけて聞こえる周囲の音に、おじさんの、あーあ、とか、だから言ったのに、なんて言葉が曖昧に響いた。
ずるり、べちゃ、ずるり、べちゃ…
交差点を斜めに横断するそれは、這い寄ってくるたびに少しずつ形を成していく。
手が生えて、地面を掴んで匍匐前進。
足が生えて、身体を起こしたそれは、がくがくと生まれたての小鹿よろしく膝を震わせ、ついには立ちあがった。
がくん、と一度大きく仰け反ったからだが、重力を無視してぐるりとおきあがり、今度は前のめりになる。
がく、がく、と数歩、確かめるように歩んだと思ったら、伏せていた体をがばりと起こしてとうとうまっすぐに立つ。
こっちへ来る。
確実に、一歩ずつ。
それはよくある映画のゾンビみたいな動きで、全身を真っ黒な液状オイルをマットているかのように。
差し出された腕が、指を形成する。
確実に、こちらを掴もうという意思を乗せて。
逃げなくてはという焦燥だけが積みあがって、けれど体は一歩も動く気配がなかった。
頭が痛い位の耳鳴りに、髪をかきむしりたいくらいなのに、けれどうごめくそれから目が離せない。
自分が呼吸してるかもわからなくなった頃、とうとうそいつは明確に人とわかる形を成して、樹生と向き合った。
顔もないのに、そいつが笑うのがわかる。
「はい、そこまで」
樹生の顔の横から腕が伸びる。
キャパシティをオーバーした情報量に、脳が停止ボタンを連打するのに、興奮しすぎて目も意識も何故かさえわたっていた。
額から流れて、顎を伝った汗が、雫となって地面を揺らす。
居酒屋帰りの独特の生臭さを、タバコのにおいが塗り替えた。
「はい、そこまで」
ぶわりと視界が白く飛んで、色を戻した時には目の前を派手な柄シャツが覆っていた。
おじさんが、樹生の身体を通り抜けて前に出たのだと気づく。
「悪いけどこの物件は俺の物なんだよね」
軽薄で、軽妙な口調が水膜を剥ぎ取って、鼓膜に直接響く。
「君にはちょっともったいないかも」
だから、ね。あきらめなよ。
そんな風に続きそうな声色で、おじさんはゆっくり両手を広げる。
その両手がシャツの襟を掴んで前を開いているのに気づいて、動かない体から重たい「えぇ」がにじみ出た。
そんなわけもないのはわかり切っているのに、樹生の頭には、おじさんが怪異相手に体を見せつけている妙な錯覚を覚えた。
くぅうううだああああさああああああ
引き延ばしたテープを逆再生したような、不明瞭な雄叫び。
成仏してください。お守りください。助けてください。見ていてください。オネガイシマス。
それが受け取った言葉が全部同時に再生されたような、何もかもが重なって膨れ上がった叫びはしかし、伸びた黒い影に巻き取られてぶら下がる。
ぐらりと持ち上がった影に、長く伸びた別の影。
より黒く、より暗く、光を拒絶したそれが、おじさんの身体から伸びてると気づくころには、先ほど生まれたばかりの、やっと形を成したはずのそれは持ち上げられて、包まれて、押しつぶされて、巻き取られて、包まれて、ぎゅう、と絞るように小さな塊へと圧縮されていた。
ぐらり、身体が揺らいだのを慌てて踏ん張って、身体が動くようになったことに気づく。
「そこに居ろ」
おじさんの声はもう水の中ではなくなっていた。
動くなと言われなかったのをいいことに、おじさんの陰に隠れるように膝をついてしゃがみこむ。
久しぶりに呼吸を思い出して、溺れかけたかのように、ぜぇぜぇと息をする。
全身から噴き出した汗が、地面に染みを作っていた。
あ、あ、と喘鳴するそれの音を聞きながら、呼吸を整えて顔を上げるころには、陰はおじさんの掌に収まるくらいに小さくなっていて、振り返ったおじさんの掌の上で転がっていた。
「残念だけど、君はここまでだ」
ぐっとおじさんが手を握りこんで、陰はとうとうなくなった。
今のは何。おじさんは何をしたの。
聞きたいことが頭の中で渋滞して、やっと立ちあがったというのに、握りこまれた掌を見つめたまま、何も言えずに立ち尽くす。
と、拳はあっさり解かれて、骨ばった掌が持ち上がるのに合わせて、視線も上がる。
「ハイタッチ!」
「え、は?」
いえーい、とばかりに掲げられたおじさんの手に、言葉の意味を理解するより先に、反射的に左手を叩きつける。
よくある学生ノリ。すれ違う時に、隣り合った時に、向かい合った時に、意味もなく行われる挨拶よりも軽率なそれ。
身体にしみこんだ動作で、慣れた圧力が手に掛かるその瞬間、合わさったそこから「ぴぇ」と間の抜けた音がした気がした。
家にたどり着くころには疲労が限界を迎えて、ドアをくぐった樹生は玄関に倒れこむように寝ころんだ。
「ただいまぁ…」
貴重品を入れたボディーバッグが肩を乗り越えて頭にあたる。
「おつかれさん」
おじさんの声がして、バイトでもらった総菜を入れたビニール袋が、ずるずると床を這っていく。
「寝るなよぉ」
「わかってるよ」
少し休んで、体力が回復したら、シャワーを浴びるのだ。
そうすればおじさんがちょうどよくご飯を用意してくれているはずだ。
そこまで思い描いて、ふふ、と笑みがこぼれた。
おじさんが憑いてきて、まだ数日しかたっていないというのに。
ごろりと首だけを横に向けて、左手を眺める。
おじさんが箱で、樹生の左手が蓋。
あの言葉を採用するのなら、あのハイタッチは蓋を閉めたということなのだろうか。
何の説明もなしに、勝手に妖怪退治をするなんて迷惑な話だが、けれど確かに、あの得体のしれない何かと対峙したあの瞬間、樹生はとてつもない恐怖の中に居た。
それが、おじさんの背中に庇われた途端、安堵した。
大きくもないし、どことなく軽薄で、やけに派手な色をした柄シャツが目に居たい背中なのに、どうしてだかわからない。
その感情に名前を付けるのは後回しにして、樹生は力を振り絞って起き上がるのだった。
あの交差点を掃除していた集団と老人のいざこざが動画サイトやネットに上がり、ちょっとした騒ぎになったのは数日後のことだった。
しかし、直後にお掃除隊が運営する公式チャンネルにアップロードされた動画のおかげで、野次馬たちの動画はほとんどが誰も興味を持たなくなった。
お掃除隊の動画は、あのいざこざから数日後に、改めて老人と話し合いをする場を設けたもので、警察の立ち合いもあって信頼できるものだったからだ。
さらに言えば、その動画のほうがより暴力的で、センシティブだったせいで、食いつきがよかったとも言える。
穏やかに話し合うため、幹部と撮影係の二人と警察だけで赴いた先、丁寧に状況を説明する途中で老人が突然興奮して、喚きながら幹部に暴力を奮った。
不明瞭な言葉の中には、罰当たりだとか、呪われろ、などというわかりやすく宗教的な言葉が含まれているのもあって、老人が発狂する動画は一部を斬り抜いたり改良されて世間のおもちゃになった。
それも、老人が病に倒れたという報告によって一気に収束し、やがて一瞬の話題となって世間からも忘れ去られていくのだ。
だから、あの日、あの交差点で撮影された野次馬たちの名前もつかない動画群のなかに、奇妙な影が映りこんでいることになんてほとんどの人は興味を持たなくて。
気づいた人が大げさに囃し立てても、最初からそれが作り物の画像や動画だと決めつけて、多くの人の目に触れることは無かった。
それらの騒動を樹生が聞いたのは、騒動から半年以上が経った後、あの居酒屋でバイトをしている時で、案外記憶力のない樹生には、遠い過去の出来事のように、ああ、そんなことがあったんだなぁという、思い出になっていたのだった。




