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1. 祠おじさん


理系というタイプじゃないからという理由で、別に文系でもないのに入った文化大学で、たまたま最初に声をかけてくれた先輩に誘われて入ったサークルは、地域調査なんてのは建前に、リゾート地へ出かけては現地の人と交友を深めるという、よくあるというにはあまりにも下世話な、絵にかいたような名前だけのサークルで。

ただ楽しめればいいやという軽い気持ちで続けた結果がこれだとしたら、罰と呼ぶにはあんまりにも過激じゃないかと、樹生日和いつきひよりは畳の上で頭を抱えて震えていた。

指示された通りに火を切らさないように継ぎ足し続けている線香。

立ち上る煙は風もないのに不可思議にゆらゆらと揺れていて。

頼りない蝋燭の火は、踊るように跳ね回っている。

「ひぃいいい」

「はぁああああああ」

先輩たちが上げる悲鳴に驚いて、身体がビクンと跳ね上がり、肘を畳みに打ち付けた。

ずっとガタガタ震えている障子や襖が一際大きく、激しく音を立てて揺らされた。


あああああえええええおおおおおお



伸びきったカセットテープを無理矢理再生したような低く伸びた声に、けれどもはや悲鳴を上げることもできず、お互いに身を寄せ合う先輩たち。

襲い来る恐怖は、訪れた時と同じようにぴたりと止まった。

「終わった…?」

しんと静まり返る音が聞こえるようだ。

うるさく跳ね回る心臓の音しか聞こえないほどの静寂の中、襖の向こうから、自分たちを呼ぶ声がする。

「終わったぞ、出てこい」

長い、長い恐怖の夜が終わったのだという安堵と同時に、違和感。

一晩を見越して多めにとは言われたものの、渡された蝋燭の本数はまだ半分も減っていない。

ネットでよく見る怪談話。

声を真似する怪異の話。

「たすかっ…」

「先輩、待って!!」

すらりと開く軽い襖の向こうには、誰も居なかった。

「あ、あ…」

事態を察したもう一人の先輩が、抜けた腰を引きずって、手で畳を這うように移動する。

襖を開けた先輩は、立ち尽くしたままピクリとも動かない。

自分たちを襲う、得体のしれない何かの気配に、樹生にはもう、できることなどなかった。

ぼとり。

音を立ててそれは上から落ちてきた。

黒くて丸い、陰だった。たぶん。

おそらく、陰である。

あるいは、樹生の脳は、視界は、それを認識することを拒絶したかのように、ぼんやりと実態を伴わないものだった。

開いた襖から目を離さぬままに、這いずって逃げていた先輩は、後ろのそれに気づかぬままに下がり続ける。

そうしてとうとう、背中が黒い影に触れて、ブリキのおもちゃのように先輩は、ゆっくりと、ぎぎぎ、と背後を振り返った。

見開かれた目。

血走ったそれに映る者を、樹生の脳は認識するのを拒んだ。

どた、と音がして、襖を開けた先輩が仰向けに倒れた。

眼球がぐるりと上向いて、人とは思えぬ動きで痙攣しながら、泡を吹いている。

それが咽喉を詰まらせて苦しんでいる姿のようだなと、認識できるような知識が樹生にはない。

さらに、明らかに救助が必要な、感電でも起こしたかのような動きに気を配る余裕もない。

倒れた先輩の向こう側で、もう一人の先輩が宙に浮いていた。

何もない首をかきむしるようにして、がむしゃらに暴れまわっている両足が、床に届かず暴れまわっている。

見えぬ何かに首を掴まれ持ち上げられたかのようなふるまいに、みるみる青紫になる先輩の顔色に、思考を放棄した樹生は、意味もなく両手で口を覆って口を塞ぐ。

無意識に、逃げを打った体が、線香盆をひっくり返して、けたたましい音がした。

視線が、なにもないものの意識が、一斉に樹生を射抜いた。

ああ、ここまでなのだ。

抵抗する気力すら奪われて、口を覆っていた手が力を無くして身体の左右に垂れ下がる。

部屋の中いっぱいに、よくないものが溢れていた。

「ったく、これだからガキは。言いつけも守れねぇのか」

低い声。聞き覚えのあるそれに、しかしいい覚えもない。

声の主は、遠慮なく靴のまま、部屋へと入ってくる。

「残るはお前だけ。あれが食事を終えたらまた来るぞ」

あまりにも軽い、けれど落ち着いた声。

ふり返れない樹生の横へ、火のついたタバコが落ちて、スニーカーがそれを踏みにじった。

線香の匂いを、タバコのにおいが上書きしていく。

ひゅー、ひゅー、と風の抜ける音が、己の喉からしているのだと気づいた。

「で?」

ハーフパンツに柄シャツの、色素を抜いた髪を逆立てたおじさんが、ゆっくりと振り返る。

「どうすんの」

問われ、けれど一度頭の中を一蹴させて、遅れて質問を理解した樹生は、かすかすに乾ききった喉から音を絞り出した。

「た、たしゅけて…くだしぁ」

「最初からそう言えばいいんだよ」

無精ひげに、歳を重ねた肌に、皺を寄せて男はにっかりと笑った。




1.祠おじさん



大学二年生の夏を、樹生はサークル活動による旅行と、旅先でのアルバイトを兼ねて、リゾートで過ごすこととなった。

形だけは立派で伝統のあるサークルは、毎年「お手伝い」と称して民宿の一棟を丸々借り切って過ごす。

アルバイトという人手を一年生と二年生に担わせて、三年生からはリゾートでの豪遊を楽しむ機会である。

二年生の樹生はもちろん人手として民宿の本棟でリネン交換や食事の準備に追われては、仕事を片付けたあと、先輩方に合流して可愛がられに行く立場。

お世話になっている先の民宿の主任さんから、今日はもういいよ、と言われて、同級生と連れ立って先輩たちがBBQをしている海岸へと繰り出す。

そこではすでに酒を飲んで出来上がっている先輩や、先輩たちに気に入られて「お手伝い」を免除された面々が楽しそうに談笑に興じており、けれど樹生たちが声をかければねぎらいの言葉とあまりものの肉が盛り付けられた皿が渡される。

先輩たちが現地で仲良くなったお姉さま方を囲んで、先輩を盛り立てるために大げさに笑ったり時折、バカのふりをしてみたり。

そんなことをしていれば、夏の長い日もあっという間に陰り始めた。

そろそろ片付けろという声に従い、撤収の手伝いに行こうとした樹生だったが、どうやら盛り上げ役が気に入られたらしく、先輩から呼び止められる。

「この先にあるいわくつきの祠に肝試しに行こう」

経済学部が主催しているこのサークルだが、主な活動は社会学研究、という体裁を保っている。

調査の一環として、地域の探索はあくまでも研究の一環で。

小難しい説明を先輩に変わって並べ立てるが、お姉さまは聞いている様子はない。

「やだぁ」

「なにそれこわぁい」

身を寄せ合って怯えて見せるのを、先輩は素早くフォローした。

「俺がいるから大丈夫だって」

「まじぃ?」

「かっこいい」

黄色い声に調子をよくして、先輩は先陣を切って海岸から続くあぜ道を、森の方へ進んでいく。

その後ろを、先輩と仲の良い仲間がお姉さまを囲むようにして、さらにその後ろから樹生はとぼとぼと、居心地悪く追いかけた。

真っ赤な夕焼け色をしていた空が、濃紺に傾きかけていく中、林道を進む一同はお互いにやっと自己紹介をはじめ、どこの学生だの、どんな学部だの、どういう目的でここへきただのを語り始める。

「じゃあ、サークル活動の一環でこういうオカルトスポットとか調べてんだ」

「まーそういう感じ?観光地の地域財産と流通の相関性、みたいな?」

それっぽい言葉を並べ立てるだけの説明に、しかし、旅行で来た社会人なりたてのお姉さんたちは関心したような声を上げる。

そのうち、林道の先に石畳で舗装された階段が現れた。

出迎えるような石柱の鳥居は新しく、巻き付いているしめ縄も立派なものだ。

つい最近建て替えられたらしいこぎれいさに感心しながらも、一同は何のためらいもなく階段を進んでいく。

辿り着いたのは山の中腹にポツリと建てられた小さな神社。

去年きたとき、先輩たちは同じように女の子を連れてここを訪れ、写真を撮るという理由で必要以上に体を寄せ合っていた。

ちなみに樹生は撮影係に任命されたため、女の子の腰に手を回すなんてことはできなかった。

今日も撮るのだろうか、とスマフォを取り出してみたものの、辺りはすっかり暗くなっていて、街灯もない。

「つーか暗すぎぃ」

「ね、ちょっと怖いかも」

写真を撮るという口実が無くとも、お姉さま方は近くにいるお気に入りの男の子の腕に身を寄せて、怪訝な顔で周囲を見回した。

山の中腹に突如現れるこの神社は、去年来たときにも訪れてはいたが、その由来や由緒などは一切不明のままだ。

調べようとも思っていなかったが、本来ならあるはずの看板だとか手水だのが撤去されていて、閉じ切った観音開きの扉の上には、掲げられているはずの神社の名前すら載っていなかった。

「こっちから下に繋がってるんだぜ」

いっそ、何かの倉庫だと言われても信じる本殿の脇を突っ切って、先輩たちはおそらく、車が上がってくるためだろう、舗装は去れていないものの階段側よりもずっと広く開けている方へと歩みを進める。

暗くなりはじめの薄闇の空。

暗闇と夕闇の間で、目が明度を合わせ損ねて周囲がコントラストを失っていく。

流石に足元が危ないと、樹生はさっき出したまま手に握っていた携帯でライトを点灯した。

リーダーの先輩と、もう一人お姉さんに気に入られて腕を組んでいる先輩の後ろを負いながら、他のメンバーもちらほらとライトを点灯する。

先ほどまでは砂や石畳だったが、舗装されてない山道には足元を落ち葉が埋めていて、ビーチサンダルでそれらを踏みしめるざかざかという音がやけに響いた。

酔いが回っているのもあるせいか、親し気に身を寄せ合う先輩とお姉さまの後ろを追いながら、樹生は小さくため息を吐いた。

労働の後、更にここまでの散歩も加えて、ふくらはぎが疲れを訴えてくる。

何が悲しくて、いちゃつく先輩の足元を、気を使って照らしながら、彼女を捕まえられずあぶれた男達の不満げなオーラに晒されなければならないのか。

隣から聞こえた舌打ちを無視して樹生は、明日からは先輩ではなく同級生たちと浜辺に残る選択肢を視野に入れ始める。

だらだらと過ごした高校時代、テストの点数からして理系ではないだろうからと選んだ、文系大学。

とりあえず将来何かしら役に立つだろうからという担任からの勧めで選んだ社会経済学を含む学部に入学した。

それからは大学デビューも目指してとにかくイケてる先輩や、都会のセンスがいい人たちと交流しようと躍起になった。

旅行サークルみたいなものだからという説明と、妙に親し気に「女の口説き方も教えてやる」と先輩方に誘われて入ったサークルで、先輩たちに媚をうっては、何とかしてイベントや交流会という名のコンパに誘われるのを目標にしている。

その結果が、ライト係だというのなら、もういっそ、同じクラスを取っている同級生たちと交流を深める方が有益な気がしてくる。

「あ、ここだここ」

言いながら先輩が声を上げるのに、一同は歩みを緩めて声の主の行動を見守る。

お姉さまの方を抱いていた先輩が、目当ての場所に近づいて、女性に知らせるように山の中に指をさす。

先輩が立ち止まった足元は、落ち葉でかなり埋もれているが、その下には不揃いの石が申し訳程度に並べてあったはずだ。

古い工法で作られた足場から、かろうじて脇道と呼べる足場を下っていくと、そこには小さな蔵、と呼ぶのもはばかられる、小さな祠があった。

生い茂る藪と土の混じる草に隠れた岩の小道から下った先に、ポツリと佇むそれを、樹生は道の上から携帯のライトで照らす。

辺りはすでに濃紺の空に星が散り始めていて、青々とした木々の間から遠くに月が見えているのに、誰もそれを見上げようとはしなかった。

吸い寄せられるように、身を寄せて、眼下の祠を注視している。

一年前も、樹生は先輩たちの後を追ってここへ来た。

その時も、こうして祠を見下ろしている時に。

「わっ」

「きゃあっ…」

先輩が大きな声を出して、驚いたお姉さんが悲鳴を上げた。

樹生も思わず肩がびくりと跳ねて、危うく落としそうになった携帯を握りなおす。

驚かせた先輩と、それを知っていた先輩の仲間たちがケラケラと笑い、驚かされたお姉さんたちは顔を赤くして、もぉ、だとか、最低、だとか言っているが、照れを含んだそれは可愛らしさを増長するばかりで。

携帯を両手で握りしめ、樹生は目じりを下げてその様子を見ていた。

と、先輩に身を寄せていたお姉さんがこちらに気づいて視線を上げる。

白いキャミソールにホットパンツ、オレンジの石つぶが連なるブレスレットに、ショートボブの黒髪から覗く身も元に、大きな鳥の羽をあしらったイヤリングがよく似合う、大人の女性。

目元を強調するメイクがちょっと強気な印象を見せるそのお姉さんは、怒ったような怪訝な表情だったのに、樹生と目が合うと、困ったようにふわりと笑った。

どき、と心臓が跳ねた横で、後ろに居た先輩の身体が大きく揺らぐ。

「へ、…」

あっ、と声を上げたのは誰だったか、先輩の身体は足を踏み外してがくりと揺れて、落ち葉に隠れた簡素な石階段を転げ落ちていった。

「おい、大丈夫か?!」

「たいへんっ」

「なに、段差?」

「ここ、階段になってるはず」

祠までの数メートルを勢いよく転げ落ちた先輩は、石段の上に設けられた祠にぶつかって止まる。

あまりの勢いに驚いてあっけにとられる樹生だったが、先輩の友人たちは、すぐさま足元に注意しながら助け起こすためにも慎重に石階段を降りていく。

「ど、どうする?」

隣で泣きそうな声がして、ハッと我に返った。

先ほど笑いかけてくれた黒髪のお姉さんとは別の、茶髪を伸ばして内巻きに綺麗にセットした、可愛い派ながらのシャツを胸の下で裾を縛って腹だしスタイルのイケイケお姉さんが震えながら様子を見ている。

「あたしもいってくる…二人は」

「二人はここに居てください。俺が行きます」

黒髪のお姉さんを遮って、ライトをつけたままの携帯を押し付けた。

揺れるライトが照らす階段を、よたよたと降りていく。

先輩が転げ落ち、その後を別の先輩たちが追いかけてくれたおかげで、草場に隠れていた岩階段はしっかりとその姿を現していた。

数メートルもないほどの距離を降りていけば、横たわる先輩を友人たちが囲んでいる。

「おい、動けるか?」

「すげぇ勢いだったぞ」

呻く先輩の身体越しに、祠が目に入る。

小柄な樹生の腰辺りまでしかない小さな祠は、先輩がぶつかった拍子に蝶番が外れ、扉の隙間から中の鏡が覗いていた。

「いてて…」

完全に横たわっていた先輩が、痛みに呻きながら肘をついて体を起こす。

大きな怪我や流血が無いのが見て取れて、とりあえずほっと息をつく。

立てるか、痛みは、と友人たちの声を聞きながら、先輩は苛立たし気に頭を撫でた。

頭を打ったなら病院に行った方がよさそうだ、とおぼろげな知識で考えていると、先輩が立ちあがる拍子に肘が当たって、祠の扉がぎぃ、と音を立てて開いた。

「えっ…」

「うわ、なに?

「は、なんだこれ。きも」

祠の中には真っ黒な箱があって、薄汚れた赤い紐で縛ってあったらしいが、もはや赤というより茶色いその紐は千切れ、ぶつかった拍子なのか、その前からかはわからないが、蓋がずれて空っぽの中身を晒してた。

樹生はおもわずえっ、と声を漏らしていた。

祠の中身は黒い箱だけで、そこに鏡やそれに準ずるものはない。

けれど樹生は先ほどしっかりと、祠の内側にいる自分と目があっていた。

だから、そこに鏡があると錯覚したのに。

「ったく、何なんだよ!」

先輩が、乱暴に叩きつけるように扉を閉めた。

しかし歪んだ扉は絞まることなく、更に先輩を苛立たせる。

そして悪いことに、駆け寄った友人の一人が、こらえきれないようぷふ、と噴出した。

「すげぇ勢いだったな」

ポツリと零した言葉に、一瞬の静寂の後、ぶふ、ふは、と押し殺した笑いが零れ落ちる。

確かに先ほどの先輩は、酔った勢いとはいえ、しっかりとした道からわざわざ道へと飛び込んだようだった。

まるで何かに引っ張られたように、突然に消えたのだ。

そして気が付いたら道の下、祠の前に倒れていた。

ちょっと間抜けな、情けない悲鳴も、ばっちりと聞こえている。

「う、うるせぇよ!ったく、なんでこんなめに!!」

怒りのまま、先輩が腕を振り下ろせば、古びた祠の屋根は簡単に日々が入り、みしりと嫌な音を立てた。

「あ」

と声を上げたのは誰だったのか、途端に強い風が当たりを吹き抜けて、ざわざわと木々を揺らす。

嵐を予感させるように、不吉な空気を巻き上げて、ざわざわ、ざわざわと。

耳鳴りが止まない。

「ねぇ、ちょっとー」

「だいじょうぶ?」

凍り付いて動けない様子に、心配したお姉さまたちの声がかかって、ハッと我に返った。

全員が、祠に視線を釘づけにされて、固まっていたらしい。

先輩たちはお互いに目を合わせて顕現な顔をしながら、しかし、そのうちの一人に「いくぞ」と腕を引かれて、先輩たちと樹生は岩の階段をフラフラと登るのだった。



気が付いたら、民宿だった。

お姉さんたちの「大丈夫?」とか「どうしたの?」という声をどこか遠くに聞いていたのを覚えている。

携帯のライトが照らす山道を歩いていたのも覚えているのに、自分の足で帰って来たという感覚がなかった。

「うげ、なんだこれ」

立ち尽くす樹生は、先輩の声にぎくりと肩を揺らす。

途端に、周囲に音が戻った。

民宿には同じサークルの内、樹生ともよく一緒の組になる同級生の田島や花井も居て、荷物を置いてある部屋の灯りがついているということは、すでに戻ってきているということだ。

安心したのも束の間、先ほどのうめき声に、どうしたんだ、それ」という声が続き、樹生は声の方へ視線を向ける。

先輩がのぞき込んでいる腕には、肘から手首の先までべっとりと、真っ黒なヘドロのようなものがついていて、ぬめついたそれをもう一方の指先でこわごわと触れている所だった。

その腕が、あの祠を殴りつけていたことが脳裏をよぎる。

「あれ、どうしたのそれ。怪我?」

と、嫌な空気に呑気な声が割り込んだ。

「薬箱持ってこようか。とにかくほら、ここで洗いなよ」

そう言って、玄関横の外水道から水の出るホースを引っ張ってきたのは、この民宿の管理をしているらしい福生という男だった。

根元から毛先まで灰色の髪に、目じりに皺を寄せた年嵩にしては、派手な柄シャツにジーンズとつっかけという、昔やんちゃをしていたおじさん丸出しの出で立ちで、去年も今年も、樹生たちを受け入れる時も見送る時も、飄々とした態度とのんびりとした口調を崩さない。

穏やかで茶目っ気を見せるその気だるげなおじさんがけれど、先輩の腕を見てあからさまに表情を曇らせた。

「きみ、それ…」

「あー、ちょっと転んで」

先輩が意味もなく嘘をついて、視線を逸らす。

しかし福生は、全てを心得た顔で、まるで事実を確認するような声色で言う。

「行ったんだな」

「え、いや」

「神社脇の、森の中にある祠」

「……」

地元でも有名なスポットなのだろうか。

そこでしでかした、傾いた祠と歪んだ蝶番を思って、視線が落ちる。

平坦な口調で、福生は続けた。

「残念だけど、君ら死ぬよ」

「…へ?」

「ネットとかで見たことない?よくある呪い。祠を壊した犯人は…」

死ぬ。

その音をかき消すようにどこかで鳥が羽ばたく音が木々を揺らした。

「なんつってね。信じた?」

「は?」

「くそ、ビビらせやがって!」

「あははー、でも、祠に何かしたのは本当みたいだね」

「あっ」

「あーあー、まったく、毎年一人はそういうことするやつがいるんだから」

「あの、このことは…」

「ま、それに関しては状況次第というか」

部屋で待ってなさい、というにこやかにも厳しい言葉に、大人しく民宿の部屋に戻る。

先輩たちの悪態を尻目に、けれど最後に玄関をくぐった樹生にだけは、戸を閉める直前に、福生の緊張した声が聞こえていた。

「まずいことになった、すぐ来れるか?」

確かにそう聞こえた気がしたが、特にその時は気に留める余裕もなく、緊張した面持ちで部屋で待っていると、福生が連絡を入れたらしい村の役人と、サークルの幹部に呼び出され、先輩たちと一緒にきつく説教を食らうことになったのだった。



「とにかく、お前らは朝までこの部屋で謹慎だ。いいな」

今回の合宿、という名目の活動で、複数借りた民宿の内、樹生たちの止まっているエリアの責任者として色々取り仕切っていた、いうならばグループリーダーの先輩にきつく注意され、樹生は正座のまま縮こまる。

普段は堂々としている隣の先輩たちも、さらに上の先輩の言葉に大人しく顔を伏せていた。

改めて謝罪をしろ、と促され、声を合わせて「すいませんでし」と頭を下げる。

先輩にこの民宿を紹介したらしい村の役所の人、と名乗る人物は、鋭い目つきで一同を睨みつけると、緊張を残した様子で「これで全員か」と尋ねた。

「例の祠を壊した時に立ち会ったのはこれで全員なんだな?直接、あれに触れたのは君だけか?」

厳しい口調でそう問い詰められて、樹生はもちろん、先輩も息を飲んで頷く。

村の役人さんは、怒っているというよりどこか怖がっているように見えて、樹生の中にもじわじわと不安が広がってくる。

その後、詳しく問い詰められた一同は、とうとう一緒にお姉さんが居たことや、去年も見に行って無事に戻ってきたこと、祠には先輩の一人がぶつかって、その後怒りから殴りつけてしまったことまで詳しく聞き出され、呆れるグループリーダーの視線にさらされながら、しびれる足を気にするしかできなかった。

以外にも役人さんは怒鳴りつけるようなことはせず、けれどしつこくお姉さんたちのことを聞き出して、すぐにどこかへ電話をかける。

役人さんが外したタイミングで、怖い顔をしていたグループリーダーがふっと肩の力を抜く。

「にしたってお前ら、どうして面倒なことしてくれたなぁ」

「すいません」

「まぁ、やっちまった紋はしょうがないし、祠の弁償とかは俺らで何とかするけどな。こういう田舎の村ってのはけっこう、そういう古いものとか風習とかに厳しいって話はしてあるよな」

旅行の行程や日程のほとんどは先輩たちが決めたものを受け取るだけだった。

説明会というのも一応開かれて、地域調査という建前であったり、旅行の目的なんかを説明される中に、確かにそれらの説明も含まれていた気がする。

もっとも、樹生の関心は自分の止まる民宿の場所や、一緒になる友人、それから自由時間にばかり気を取られてほとんど聞いていなかったが。

「そういうわけで、これからはあの人の言うことに従うように。ちゃんと言うこと聞いてさえいりゃあ、サークルで集めてる保険で修繕とかは何とかしてやるから」

いいな、と改めて言い含められて、樹生はほっと胸をなでおろしてかくかくと首を振った。

直接祠を殴った先輩も渋々というように頷いたが、巻き込まれただけの彼の友人たちはいまいち納得がいかないという表情で、けれど友達の顔色を見て仕方がなさそうに、わかったよ、と最後には了承した。

そこへ、廊下で電話していた役人が帰ってくる。

「そしたらお前ら、今、言われたように今夜はこの部屋から出ない事。トイレは部屋についとるけど、できるだけ行かんように、とにかく、この部屋の戸をいっこも開けんようにしてほしい。君らが出ないのはもちろん、誰もこの部屋に居れたらいけん」

「え、どういうことですか?」

「謹慎、とは言ったけど、実際はそういうしきたりってやつや」

はぁ、と頭に疑問を浮かべ、文句を言おうとする先輩たちを、グループリーダーが視線だけで制する。

「君らには、この部屋で一晩、この線香を絶やさんように継ぎ足してもらう」

「なんすかそれ」

「はぁ、めんどくさ」

「火はこの蝋燭使って貰ったらええ。一晩持つには充分やろ。線香はこの香炉。蝋燭はこっちの燭台で焚くように。火事だけは勘弁してな」

言いながら指したのは、先ほど押し入れの上にある小さな引き戸から出した謎の道具。

「一応、あの祠は上の神社の系列で、まぁ、説明は省くけど色々あるんや。お前らがどうなろうと俺らには知ったこっちゃないが、一応学校の依頼で村が紹介したっちゅう縁ができてしもうたからな。なんかあったらこっちにも責任になる。死人が出たとなれば民宿の運営にもかかわるからな」

「死人って…」

「建前だけでも忠告してやる。信じずに部屋から出てなんかあっても、うちじゃあ責任とらんけどな。ほな、俺は帰るから、お兄さんあと頼むで」

「あ、はい。ご迷惑おかけしました」

冷たく言い放って、役人さんは不機嫌に帰っていった。

それからしばらく、先輩たちは三人で今回の件について色々話していたが、結局のところ運が悪かったということで落ち着いたらしい。

樹生は三人に気に入られているとはいえ、サークル活動中にグループに入れてもらえる程度の、顔見知りと言われればその程度の仲であるので、会話に混じることも無ければ、話しかけることすら憚られて、とりあえず四人分の布団を敷いていたら、気が利くなと褒められて愛想笑いをするぐらいしかできなかった。

燭台の蝋燭を継ぎ足して、新しい線香に火をともして香炉の中に放り込む。

相変わらず先輩たちは、今日あったことだとか、明日の予定とか、三人の共通の知り合いがどうとかいう話をしつつ、それぞれがスマフォをいじったりしながらさっさと布団に入ることにした。

時刻は午後八時過ぎ。

線香は、ギリギリ一時間持たないくらいの、案外長持ちな長さで、早々に興味を無くした先輩方の代わりに、半分ほど燃え尽きたあたりで樹生が新しいのを放り込む、というのを続けていた。

一応、朝まで続けるというならお互いに当番でも決めた方がいいのかと思ったが、最初に見張り番をやり始めた樹生に任せて、先輩方は知らぬ顔だ。

本当ならグループの皆と暗い海ではしゃいだり、片付けに精を出している頃かもしれない。

あるいは、あの綺麗なお姉さんたちと、村のどこかで。

「いつき」

呼ばれてスマフォから顔を上げた。

先輩たちは樹生のことを「おい」とか「そこの」とかしか呼ばない。

それに声には聞き覚えがあって、それは同級生で本来な樹生が寝るはずだった部屋に居る花井の声だった。

ちょうど手元では、心配してくれた同じく同室になる予定だった田島が心配のメッセージをくれていたところだ。

事の詳細を説明したら、まるでネットでよく見るホラーの定番だな、と話が盛り上がっていたところなので、余計に驚いてびくりと体が跳ねた。

「ごはんもってきたよ。あけて」

「え…?」

ありがたい話だが、正直なところ、祠に出向く前のバーベキューでしこたま食べているためおなかは減っていない。

軽く呑んで酔っ払っても居たが、祠の一件があってすっかり酔いもさめていた。

「悪いけど、誰も入れるなって言われてんだ。ありがとな」

あまりにも急な声に、これは驚かすつもりだったな、と田島に脅かされたことを報告して、ありがたいけれど誰も入れられないから、お前も来るな、とくぎを刺す。

優しい奴だけど、これを受け取っておとがめを受けるのは自分だけじゃなくおそらく先輩たちもだ。

運が悪ければ花井自身にも飛び火するだろうからと、丁重に断ってふと香炉を見れば、いつの間にか線香が灰に埋もれて消えかかっていた。

先に炊いた方が短くなって今にも火が絶えそうなことに焦って、新しい束からまた一本取って蝋燭にかざす。

「あけて」

花井の声に、まだいたのか、とあきれながらも火をつけて、香炉に放り込む。

最初はよくある独特の線香の匂いが気になっていたが、いつの間にか慣れていた。

「だから、だめなんだって。帰れよ。見つかったら怒られるぞ」

「おい」

先輩たちの声に振り返ると、驚いたような、君の悪いものを見るような目で三人ともこちらを見ていた。

「誰と話してんだ?」

「あ、いや。友達がご飯もってきてくれて…」

でも断ったから、とか、ほら怒られたじゃん、とか、色々言いかけた言葉はしかし、振り返った先がカーテンの閉まった窓であることとか、その向こう側が海とは逆の、山に繋がる森で景観もくそもないと文句を言っていたことであるとかに一斉に思い至って、樹生の思考が停止する。

ぶぶ、と手の物が震えて、メッセージが届く。

花井なら部屋にいるけど。

「…っ」

跳ね起きるように窓から離れた。

悲鳴すら上げる余裕もなく、何もない窓を凝視する。

確かに花井の声はそちらから聞こえていた。

けれど、それは本当に花井だったのだろうか。

咄嗟に床の間にかじりついて、線香の束を掴んでまとめて火をつける。

とっくに慣れたと思ったキツイ香の香りが鼻を衝いて、霞が勝っていた意識がはっきりとする。

あれは花井の声じゃない。

「あけて」

ひ、と先輩の悲鳴が聞こえた。

それは女の声だった。

猫を撫でるような、媚びた声ではなかったけれど、どこか聞き覚えがある。

たぶん、あのとき一緒にいたお姉さん。

「ふざけんなよぉ!」

吠える先輩の声に呼応するように、部屋の戸という戸が一斉に震えだし、ガタガタと騒音が部屋を満たした。

拒絶していた恐怖が、堰を切って流れ込んでくる。

とうとう樹生は耐えられなくなって、頭を抱えて畳の床に伏した。

流れ落ちる水滴が、汗か涙かもうわからない。

先輩たちは互いに寄り添って部屋の中央に集まっていた。

眼の端に、蝋燭の火が躍っているのが見える。

手を伸ばして継ぎ足そうとするのに、指が震えてうまくいかない。

先ほど投げ込んだ束は、不思議とまばらに燃え進んでいた。

ああああけええええろおおおおおおお

伸びきったテープのような声。

地震のように揺れる部屋。

耳鳴りがやまない。

「……っ」

そうしてそれらは一斉に止まる。

逃げようとした先輩が、倒れて。

もう一人の先輩も、そしてもう一人も。

ぼとりと落ちる、黒い影。

絶体絶命のその瞬間、その人は、来た。

ひゅー、ひゅー、と風の抜ける音が、己の喉からしているのだと気づいた。

「で?」

ハーフパンツに柄シャツの、色素を抜いた髪を逆立てたおじさんが、ゆっくりと振り返る。

「どうすんの」

問われ、けれど一度頭の中を一蹴させて、遅れて質問を理解した樹生は、かすかすに乾ききった喉から音を絞り出した。

「た、たしゅけて…くだしぁ」

「最初からそう言えばいいんだよ」

無精ひげに、歳を重ねた肌に、皺を寄せて男はにっかりと笑った。

「あ…」

その男、福生の後ろで、黒い影がゆっくりと起き上がる。

いや、立ちあがったのか。

とにかく盛り上がるように大きくなったそれはゆっくりと福生に多いかぶさるように斜めに傾いた。

けれどまたすぐ振り向いた福生は、ズボンのポケットに入れていた両手を抜いた。

そこには、両手に一つずつ黒い箱。

樹生の脳裏に、祠の壊れた扉から見た中にあったそれが蘇る。

「さぁて、帰る時間だぜ」

そうしておもむろに、黒い靄をその箱で挟み込む。

どう考えたって入りきらない質量に、けれど福生は構わずぎゅむりと両手を、右手の箱と、左手の蓋を力任せに重ね合わせようとする。

あああああああああああ

音と呼ぶには低いそれが、部屋中に響き渡って樹生は両手で耳を塞いだ。

脳みそごと鼓膜を揺らされ、目の前がくらくらする。

くらくらするし、チカチカした。

黒いかった箱が、まばゆい光を放っている。

あまりの明るさに、黒い靄は影を維持できずに今にも霧散しそうだった。

靄が暴れまわるせいか、それとも箱が放つ衝撃波でもあるのか、強い風が生じて、福生の柄シャツがばたばたとたなびいている。

きっと箱を閉じればすべてが終わると、そんな予感がしたけれど、箱を閉じようとする福生の両手が震え、あと少しで合わさるという距離でそれ以上は磁石の反発を受けているかのように揺れるばかり。

箱から溢れた黒い影が、箱を持つ福生の両手に黒い染みとなって絡みつく。

まるでいっしょに来てと、追いすがるように。

もごもごと、福生が何か呻く声に顔を上げれば、口に赤い紐を咥えて何かもごもごと呻いている。

呪文か、あるいは小言か。

眩しそうにすがめる目が、仕方なさそうに笑っているように見えたから。

どうしてそんなことをと言われても、樹生にはうまく説明はできない。

ただ、箱を閉じて紐で結べばいいのだろうと、福生がそうしたいと持っているように見えたから、咄嗟にできることをしたというのが、事実だった。

手を伸ばし、風にたなびく紐を掴んで、閉じ切らずに震える箱を、福生の手の上から重ねるようにして抑え込んだ。

がり、と硬い音を立てて、升状の箱は重なるようにして閉じる。

風は止んだし、箱は黒い箱に戻っていた。

「俺が抑えと組んで、おじさんは…次、を」

次にやるべきことをやってくださいと、そんな風に言うつもりで、けれど急激な眠気に襲われて、樹生の目の前は真っ暗になる。



そうして目が覚めたら病院だった。

医者からは色々質問され、グループリーダーからはこっぴどく叱られ、サークルの顧問から漸く、あの日の朝、全員があの部屋で昏倒しているのが見つかって、病院に担ぎ込まれたと教えられた。

先輩たちも、命に別状はないと伝えられたが、警察が来て事情を聴かれ、けれどあの日の夜に起きたことは酷く曖昧で、樹生は結局「酔っぱらって眠っていたので何も覚えていない」というしかなかった。

結果は案外あっさりと終わり、というより、どうも例の役人が裏で色々動いていたようで、最後には警察とおそらく弁護士らしき人の立ち会う前で、あの夜に起きたことを口外しない代わりに村からは今後も一切彼らに金銭的にも精神的にも接触はしないという誓約所を書かされて、終始謝りっぱなしの学校関係者と、厳しい顔をした大人たちに睨まれながら、樹生は視線を落として背中を丸めることしかできなかった。

教師に見守られながら公共交通機関を乗り継いで学校へ戻り、更なるお叱りを受けて、それでもかなり軽い一週間の自宅謹慎処分の通告を受けて、漸く樹生は一人暮らしの自宅である古いマンションへたどり着く。

住宅街に突然生やしたような三階建ての、一フロアに二部屋しかない狭いマンション。

その一室にたどり着き、荷物を放り出して、やっと大きく息をつく。

「ど、どうして」

何が起きたのか、まだ理解ができていないままの樹生の視界の端を、派手な柄シャツがよぎる。

「へぇ、おもったよりいい部屋だね」

気の抜けた声に軽薄な態度。

室内に遠慮なく土足で上がり込むその足は、けれど床を歩いているようで覚束なく。

透けた靴裏が床を汚すこともなく、ゆらゆらと揺蕩っている。

玄関先で床に膝と両手をついた姿勢で、人の家を遠慮なく物色する姿を眺めて、樹生は深くため息を吐く。

こうして、先輩が祠を壊したら何故かおじさんが憑いてきた。




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