72.料理人、熱く語る
コウモリが立ち去ると、俺はキッチンカーの荷台部分から鍋に水を入れる。
何かあった時に手軽に水が使えるって便利だな。
それがまさか今日だとは思わなかったけど。
「はぁー、今日は運がない日だな」
俺は外で汚れた体を水で洗い流していく。
他人の嘔吐物がかかるなんて生まれて初めてだ。
まだゼルフだから許せるが、他の人なら怒っていただろう。
そのゼルフは未だに助手席で項垂れている。
「ゲロはついてるけどな」
「うわっ!?」
突然聞こえてきた声に俺は驚く。
声をかけてきたのはドワンだった。
まさか隣にいるとは思わなかった。
ぶつくさと独り言を言っていたのが恥ずかしい。
「その様子だとやっぱり洞窟に行ったんだな」
「ははは、コウモリから全裸で逃げる羽目になりましたよ」
ドワンは気になって、作業の休憩中に見に来たらしい。
「まあ、湯が湧き出てくるときは魔物も押し出されるからな」
「押し出される……?」
「ああ、奥にいるはずの魔物が逃れるために、出入り口に近づいてくるからな」
何かから逃れるために全体的に魔物は出入り口に移動するらしい。
その結果、洞窟出入り口に魔物が多く、ドワーフは温泉には入らないと言っていた。
「温泉の効能もいいし、温泉に入りながら冷酒を飲むのは最高なのにな……」
「それはどういうことだ?」
「うわっ!?」
話を聞いていたのか、背後にはドワーフたちが集まっていた。
なぜドワーフたちは、みんなでキッチンカーに集まってくるのだろう。
「それであの湯で冷酒は何がいいんだ?」
そんなことを気にすることなく、ドワーフは俺に詰め寄ってくる。
傍から見たら、ドワーフに追い詰められる全裸の男と変わった光景だろう。
「温泉に入りながら、酒は飲まないのか?」
「何言ってるんだ? あんな臭いものには入らんぞ」
「あぁ、それにわざわざ体を温める意味もわからないしな」
そもそもドワーフは温泉にあまり興味はなさそうだ。
硫黄の匂いに慣れてないと、ただ臭いだけなのもある。
それに鍛冶作業をすることが多いドワーフは、火照っている体を冷やすことはしても、温めることはしないらしい。
尚更、温泉に入らない理由がわかった。
「俺の住んでいたところでは、温泉に浸かりながら、お酒を飲んで風情を楽しんだりするけど……」
「ガハハ! ここにそんな風情はないがな!」
確かに洞窟だから綺麗な光景もない。
ひょっとしたら洞窟の奥深くには綺麗な景色があるかもしれない。ただ、出入り口付近まで湯が来ていたら、どっちにしろ奥にはいけない。
「体がのぼせにくいし、スッとして温泉を楽しめるんですよ」
「よほど兄ちゃんがいた国はあの湯が好きなんだな」
それでも温泉の魅力はドワーフには伝わらないようだ。
せっかくなら温泉の良さを教えてあげよう。
「温泉ってただの〝温かい水〟じゃないんだ。まず、湯に足を入れた瞬間のあの〝ジワッ〟と来る感覚……あれは単に体の温度が変化したわけじゃない。体の芯に染み込んでくる〝許し〟だと俺は思っている。今日一日の疲れも……どれだけ上司に理不尽なことを言われても、全部『まあいいか』に変わる魔法なんだ!」
「おっ……おう……」
後退するドワーフに俺は詰め寄る。
まだ温泉の良さが伝わってないようだな。
「そしてあの匂いだ。硫黄のツンとした香り、鉄のような重たい空気、独特な湿った匂い……あれが混ざったこの場所が〝日常とはかけ離れた空間〟だって脳が理解する。そう思うと、もう帰りたくなくなるだろ?」
「いや……ワッシは帰りたいぞ」
ドワーフたちはそそくさと帰ろうとしていた。
「んー、まだ温泉の良さは伝わってなさそうだな」
俺は近くにいたドワンの手を掴む。
「おい、ワッシだけ置いていく気か……」
ドワンがドワーフの手を掴むと、ドワーフたちは仲良さそうに手を繋いでいた。
「ドワン、放せ! こいつは正気じゃないぞ!」
「あの湯にやられたんだ! 目が据わっている」
連帯責任を重んじている職場みたいだな。
それならもっと温泉の良さを教えてやろう。
「見ろよ……湯気を。あのゆらゆら揺れる白い煙みたいなやつで視界をぼかして、世界を少しだけ優しくしてくれるんだよ……。嫌なもの全部、ぼかしてくれて……」
毎日休みなく働かされていた時のことを思い出す。
朝から晩まで働き、寝る時しか家におらず、全て店の中で過ごしていた毎日。
俺のミスでもないのに、上司に怒鳴られて、理不尽なパワハラに耐えてきた。
それを唯一癒してくれたのは、夜中までやっているスーパー銭湯の温泉だ。
俺には温泉とキッチンカーのお弁当が生きがいだったからな。
「おい、兄ちゃん大丈夫か?」
「顔を上げて、ほら笑うんだ!」
ドワーフたちはあたふたとしていた。
「ここで泣かれたら、わしらがいじめたみたいじゃないか」
逃げようとしていたドワーフたちはわらわらと集まってきた。
酒ばかり飲んで少し……いや、かなりめんどくさいやつらだけど、心は優しい人たちだな。
俺は顔を上げて、ニヤリと笑う。
「それで温泉を肩まで浸かると――」
「なっ!? わしらを騙したのか!」
別に騙していたわけではない。
大変だった頃をふと思い出しただけだ。
それに温泉の素晴らしさをまだ伝えきれていないからな。
ドワーフたちも諦めたのか、その場で地面に座って聞いていた。
「体がスッと軽くなるんだ。疲れた心も軽くなり、人間ってこんなに楽に存在していいのかって思うくらいな。……でも本番はそこからだ」
「それで何がいいんだ?」
「仕方ないから聞いてやろう」
最後まで俺の熱い温泉魂を聞いてくれるようだ。
「しばらく浸かって、ふうっと息を吐いてみるとな。そのとき初めて、自分がどれだけ張り詰めてたか気づくんだよ。ああ、俺は何のために働いていたんだ……って」
「それは兄ちゃんが働きすぎじゃ……」
ボソッと呟くドワーフを俺はジーッと見つめる。
まるで俺が社畜だったみたいな言い方だ。
「温泉ってのはな、〝気持ちよさ〟だけじゃなくて毎日苦しめていた束縛から〝解放〟されることなんだって」
「あっ……ああ」
あの時の俺は社畜な人生を歩んでいたからな。
それに気づけるのが温泉の良さでもある。
ただ、その環境から逃れられるのかは別だ……。
「温泉に入るってのは、ただ体を温めて心身ともに〝癒す〟ってことじゃない。〝ちゃんと自分を取り戻す〟工程になるんだよ!」
俺が温泉について熱弁すると、どこかスッキリした気がした。
まるで温泉に入った後のようだ。
これで温泉の良さが伝わっただろう。
「おっ……そうか」
「兄ちゃんは大変だったんだな」
ドワーフのやけに優しい目が全裸の俺に突き刺さる。
「じゃあ、わしらは帰る――」
「ってことで全員まとめて温泉デビューでもしましょうか!」
話を聞いてやっと逃げられると思ったのだろう。
せっかく最後まで話を聞いていたのなら、温泉を楽しむべきだ。
俺はその場から立ち去ろうとするドワーフの手を再び握った。
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