「名もなき君へ」 第十話(第一部・完)
◇名もなき者たちの家
それから、季節がひとつ巡った。
ムート村は、少しずつ、けれど確かに、活気を取り戻しつつあった。
畑の実りは、名を与えた区画から少しずつ広がるように良くなっていった。井戸の水は澄み、村を囲む木柵も、ダンカンの手によって新しく組み直された。
「――お前、いい加減、その持ち方を直せ。柄を殺す気か」
ダンカンの鍛冶場からは、朝から槌の音と、彼の怒鳴り声が絶えなかった。最近、彼は村の子どもたちに、鍛冶の手ほどきを始めていた。行き場のない子どもに、手に職をつけさせてやりたいのだという。
「ダンカンさん、厳しすぎません?」
フィアが苦笑しながら差し入れの水を運んでいく。彼女は今、孤児院の実質的な切り盛り役として、村中を忙しく駆け回っていた。
「――む。この文献、また新しい記述を見つけたぞ」
ゼノンは、廃墟の隠居所から孤児院の一室へと拠点を移し、日がな一日、古い書物とにらめっこをしている。真名付けの歴史について、彼なりに調べを進めているらしい。
「イリス、それは食器だ。齧るものじゃない」
「……つい、竜の頃の癖が抜けん」
イリスは人の姿での生活に、まだ完全には慣れていなかった。食事の作法や、村人との会話の間合いなど、小さな失敗を繰り返しては、フィアや、時折村を訪れるようになったキャロルたちにからかわれている。
「ラス、聞いた? 隣町の方で、行き場をなくした子どもたちの話」
ある日、フィアがそう切り出した。
「戦争孤児とか、食い詰めた子とか、色々いるみたいなんだけど……この村の噂を聞いて、来てみたいって言ってる子が、何人かいるらしいの」
「……そうか」
俺は、村の中央に立つ、以前より幾分か手入れの行き届いた孤児院を見上げた。
かつて、俺自身がそうだったように。名前をもらえないまま、居場所を失った誰かが、また一人、ここへ辿り着こうとしている。
「受け入れよう」
俺は迷わず答えた。
「ここは、そのための場所にするつもりだったんだ」
フィアが、嬉しそうに、そして少し誇らしげに頷いた。
名もなき村は、少しずつ、名もなき者たちが安心して帰ってこられる場所へと、その姿を変えつつあった。
◇夜更けの問い
村がすっかり寝静まった夜、俺はひとり、孤児院の屋根に座っていた。
昔からの癖だった。考えごとをしたい夜は、決まってここに登った。
「――こんな時間に、何をしている」
イリスが、いつの間にか隣に腰を下ろしていた。
「ちょっと、色々考えてた」
「例えば?」
俺は懐からステータスプレートを取り出した。相変わらず真っ白なそれには、以前よりも少しだけ、はっきりとした滲みが浮かんでいる。まだ文字と呼べるほどではないが、確実に、何かが育ちつつあった。
「これが、いつか、ちゃんとした形になるのかなって」
「お前自身の、真名か」
「ゼノンが言ってたろ。自分の真名だけは、誰かに貰うものじゃなくて、自分で掴み取るものだって。……正直、まだ全然、実感が湧かない」
イリスは、しばらく黙って夜空を見上げていた。
「私も、同じだったよ」
「同じ?」
「己が何者かなど、長く生きても分からぬものだ。裏切られ、名を失い、独りで朽ちようとしていた私に、お前が名をくれた。……だが、それだけでは、まだ足りぬのだろうな」
「足りない?」
「名は、与えられて終わりではない。その名に、自分自身がふさわしくあろうとする――その過程こそが、本当の意味を作るのだと、近頃、そう思うようになった」
イリスの言葉が、静かに胸に染みた。
翌朝、ゼノンが古い書物を抱えて、興奮気味に俺の元へやってきた。
「ラス、面白いものを見つけたぞ」
「何を?」
「かつての戦、真名付けが悪用された戦の記録の中に、一枚だけ、妙な紋様の写しが残されていてな」
ゼノンが広げた古紙には、渦を巻くような、見慣れない紋様が描かれていた。
「これは……」
「わしにも、まだ何かは分からん。だが、この紋様――お前のステータスプレートに浮かぶ滲みと、どこか似ていると思わぬか」
言われてみれば、たしかに、どこか似ている気がした。
「村の異変も、教会の動きも、この紋様も……全部、繋がっているのかもしれぬ」
ゼノンは、真剣な顔で紙を巻き戻した。
「焦る必要はない。だが、心には留めておくといい。お前はまだ、この世界の――ほんの入り口に立ったに過ぎぬのだからな」
夜空に浮かぶ月を見上げながら、俺は、自分の胸の内に静かに芽生えた、小さな予感を噛みしめていた。
まだ何も、終わってはいない。むしろ、すべてはこれから始まるのだろう。
◇名もなき君へ
新しい子どもが、ムート村にやってきたのは、それから間もなくのことだった。
隣町から歩いてきたという、痩せた少年だった。歳の頃は十歳くらいだろうか。戦で家族を失い、行く当てもなく、噂を頼りにここまで辿り着いたのだという。
「……お前も、名前を、ちゃんと貰ったことがないのか」
俺が訊くと、少年は、俯いたまま小さく頷いた。
「命名式なんて、受けたことない。……誰も、俺の名前なんて、気にしたことないから」
その言葉に、かつての自分の姿が重なった。
「そうか」
俺はしゃがみ込み、少年と目線を合わせた。
「なら、これから、たくさん名前を貰えばいい。ここには、名前を大事にする奴らが、たくさんいるから」
少年が、恐る恐る顔を上げた。その目には、まだ怯えが残っていたが、同時に、微かな期待の色も浮かんでいた。
俺は少年の頭に、そっと手を置いた。
急いで真名を与えるつもりはなかった。真名付けは、思いつきでするものじゃない。この子が、本当はどんな子なのか。何を望み、何を恐れているのか。それを、これから時間をかけて、ちゃんと知っていくつもりだった。
けれど今は、ただ、こう伝えたかった。
「――大丈夫。ここでは、お前はもう、名無しじゃない」
少年の目に、涙が滲んだ。
その様子を、フィア、ダンカン、ゼノン、イリス、そして時折顔を出すようになったキャロルたちが、少し離れた場所から、温かい目で見守っていた。
夕暮れの中、孤児院の煙突から、夕餉の煙が立ち上る。
かつて、俺一人だけが白紙のプレートを抱えていた、寂しい場所。
今は、少しずつ、たくさんの「名前」で満たされ始めていた。
俺は、懐のステータスプレートに、そっと触れた。
滲みは、まだ言葉になっていない。俺自身の真名も、まだ遠い。
けれど――ゼノンの語った古い悲劇も、教会の不穏な動きも、この村を静かに蝕んでいた何かの正体も、そのすべてが、これから少しずつ、俺の前に姿を現していくのだろう。
それでいい、と思った。
急ぐ必要はない。名前は、焦って与えるものじゃない。
ゆっくりと、ひとつずつ。
俺は、これからも、名もなきものに、名前をあげ続けていく。
――それが、俺自身の名前を見つけるための、長い旅の始まりだから。
――第一部・完――




