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第25話 救い

「……駄目だ。これでは、人々が望む曲を弾けない――……」


静まり返った暗い音楽室で、白髪の青年がそう呟いた。グランドピアノの上に項垂れれば、ジャーンと不協和音が鳴り響く。


青年――アーベントはぽたぽたと涙を流しながら、指を鍵盤の上に置き、力を込めた。



――しかし、弾けない。

どうしても、ピアノが弾けなかった。


きっかけは何だっただろう。アーベントは過去を振り返る。

それはあまりにもありふれたものだった。

いわゆるアンチである。


こんな曲は誰も求めていない、今すぐに辞めろ。そんな事を言っていた気がする。彼のあまりにも良すぎる耳は、そんな妬み僻みを鮮明に受け取ってしまった。


誰だったかは思い出せないが、少なくともヴァイゼ家が贔屓にしている客だったはずだ。


それからだった。アーベントが、ピアノを楽しんで弾けなくなったのは。耳で、音を聞くのが億劫になったのは。ピアノを弾くのが、怖くなったのは――――。


世間では天才鬼才ともて囃されても、実際には指が動かない。


コンサートの途中で意識を失いかけたこともある。


悪意のある幼稚な批判は、狭い世界で暮らす少年だった彼の心をジワジワと、確実に蝕んでいった。


しかしここで辞める訳には行かない。一族の顔に泥を塗れる訳が無い――彼は、死に物狂いでピアノを弾いた。



――そうして気がつけば、世間では「千年に一度の天才」というアーベントが出来上がっていた。人々の理想と羨望が入り交じった、完璧な理想像。


(本当の私は、そんな大仰なものでは無いのに)


アーベントは、現実と理想の乖離に苦しんでいた。

誰かに分かってもらいたい、誰か私の弾く音色に大丈夫だと言って。お世辞ではない、私自身を見てくれる人が欲しい――……。


しかし現実には、そんな理想通りの人間なんてそう簡単にいない。

だから彼は諦めていた。だから彼は、国から逃げるように、この学園に入ったのだ。


そう、本当の私の出したい音楽を理解してくれる人などいない――そう、思っていたのに。



“ここでピアノを弾く貴方へ”


「……え?」


鍵をかけようと扉を見ると、木造のドアノブに、そんな題名のメモ帳が貼ってあった。

燃え盛るような青薔薇が描かれたそのメモを、丁寧に剥がして見る。


その内容を見て、アーベントは心の臓を握られたような感覚に陥った。



――そこには、演奏に対する感想と、感謝を述べる言葉が紡がれていた。

いつも素敵な演奏をありがとう、お陰で仕事が早く進む、誰か知らないけど、“俺は貴方の音楽が好きです”。


そんな内容が、14行にもわたって書いてあった。


「……すき……?」


気がつけば、アーベントの目尻からは、自然と透明な粒が溢れ出していた。

メモに薄墨色の丸い染みができる。


まるで張り詰めていた何かが、チョキンと切れたようだった。

自分の音楽に好きと言ってくれた、メモだけでもこんなに嬉しいのかと、アーベントは涙する。


今までは、弾けて当たり前だった。弾けないと、自分には価値がないと思っていた。

だから死に物狂いで弾いていた。好きなんて文字を面と向かって見たのは、人生で初めてだった。


「……好きと言ってくれる人がいるならば」


私を私だと知らず、個として見てくれた人が居たのならば、この手紙の主の為にもう少し頑張ってみよう。


折れかけていた心が、潤っていくような気がした――――。



◇◇◇



「エミリオ、最近帰ってくるのが遅くないか」


中休み、エドにそんな事を言われ、ぎくりと肩を震わす。


確かに、最近は生徒会が終わったらすぐに図書室へ直行していた。

そして5時半まで音楽を聞いては、感想を貼り付けての繰り返しだ。


結局帰ってくるのは辺りが暗くなってから。エドに心配されるのも無理なかった。


「あー…最近の日課みたいなのがあって……」

「ほう」


エドが身を乗り出す。教えろ、という合図だ。


(まぁ、隠すことでもないか)


むしろ一緒に感想を書いてくれたら嬉しいと、俺はエドに、今までの経緯をあらかた説明した。



「――なるほど。そんなことがあったのか」

「うん。最近は手紙の効果か、音色が生き生きしている気がするんだけど」


エドはふむ、と興味ありげに話を聞いていた。読んでいた小説を伏せ、俺の顔を見る。


「エミリオ、今日俺もそこに連れて行ってくれ」

「え?」

「確かめたいことがある」


エドはそう言うとちらりとどこかを見るようにした。しかしすぐに視線戻し、小説を読み始める。


(どうしたんだ、突然)


エドの行動に疑問を抱きながらも、一緒に聴いてくれるならばこれ幸いと、俺は二つ返事で了承した。




――放課後。生徒会の公務が終わり、約束通りエドと共に図書室へ向かう。

その途中、後ろから殿下の悲鳴が聞こえたが、無視することにした。


「――♪…〜――♪」

「あ、今日はもう弾いてるね」


いつものように隅の席に荷物を置き、腰を落ち着かせる。エドは真正面の席に腰を下ろし、テキパキと勉強道具を並べていった。

そうだ、今日は試験前の勉強も兼ねていたのだった、ゲンナリと肩を落とす。


「――…♩――….•♬.*゜♪」


お隣の音楽室からは既に幾つもの音色が聞こえてきていた。これはいつも最初に弾く、指慣らしの練習曲だろう。どうやら、弾き始めたばかりだったらしい。


「綺麗だな」

「うん」


音色に身を寄せるエドを微笑ましく思いながら、魔導書を開きサラサラと筆跡を加えていく。

エドはこの美しい音色に似合わぬ“びーまお”の最新刊を開き、眉間に皺を寄せていた。笑っているのだろう。




「――♩.•♬」


しばらくすると、音楽室の彼がいつも弾いている曲に移った。弾む音色と美しく重なる和音に、そうそうこれこれとエドに笑ってみせる。



――しかし、エドはこの曲を聞いた瞬間、何故か苦虫を噛み潰したような顔をした。


「やはりか……」

「どうした?」


いつも表情が乏しいエドの珍しい顔に、驚きつつ首を傾げる。

エドははぁと一つため息を吐いたかと思えば、いきなり荷物を片付け始めた。


「ど、どうしたんだよ?」

「帰るぞ」

「はぁ?」


困惑する俺にお構い無しに、エドは魔導書を片付けるように促した。

いつもと違うエドの様子を不審に思いつつも、親しい友人を無下にするわけもいかず。


結局俺はメモを書き残すことも出来ず、そのまま寮へと戻るはめになった。


「急にどうしたんだよ?エド」

「……」


帰る途中、エドはずっと無言だった。







長らくお待たせし、大変申し訳ありませんでした。

カクヨムの方がひと段落着きましたので、なろう様の方も再開していこうと思います。

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