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56.真夜中に交わした約束

 クリスティーヌの病状が伝えられてからしばらく。


 彼女は普段通りに生活していたが、それもだんだんと辛くなってきたようで、ここ一週間くらいは寝込んでいるという状態だった。

「本当に、よくなっているのかしら……」

 ゴホゴホと咳をしながら、彼女はベッド脇にいるエルに尋ねた。

「あぁ、大丈夫だ。この病は、一時的に酷くなってしまうだけらしいから。それよりも、さあ、これを飲んで」

 エルはミカエルから貰った痛み止めを、彼女に手渡して飲むよう促した。


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 そんなことを教えられたとしても、大抵の人間は、冷静に受け止められるはずがない。

 クリスティーヌの余命が幾ばくもない事は、アーロンや他のおじのほか、ばあややジャンヌをはじめとした極一部の使用人しか伝えられなかった。

 そのため、エルは彼女に悟られまいと、側にいる時は極力笑顔でいる事に務めた。



 しかし、エルの心にも限度というものがある。


 昼間は仕事をしたり、シェリルの世話などをして気を紛らわす事が出来たが、夜はどうしようもない不安に苛まれた。

 そのため、彼は夜中に馬を出すと、こっそりとある場所へと向かった。


 馬に乗って十数分後。

 エルは霧深い森の中に建てられた、小さな教会に来ていた。

 そっと扉をあける。息を白くしながら、誰もいない教会内の大きな十字架の前に、彼はひざまづいた。

 ……神よ。どうか、奇跡を起こして下さい……

 ロザリオを手に持ちながら、エルは天へ必死に祈りを捧げた。

 以前であれば、教会なんて日曜のミサにたまに参加する程度だったが、今はここが彼にとって唯一の心の拠り所だった。


 エルは祈りを終えると、ゆっくりと立ち上がり、出入り口の方へ振り返った。すると、人影のようなものが彼の目に映った。

 こんな夜中に、自分と同じようにして祈りにくるなんて……と彼は少し驚いた。だが、相手は中々入って来ようとしない。

 ここにいると邪魔なのかもしれないと思い、彼は教会から出ようとした。すると、影の人物から

「久しぶりだね」

と声をかけてきた。

 聞き覚えのある懐かしい声。

 フード付きの黒いマントを羽織った人物は、教会の中に入ってきた。月からの淡い明かりが、ゆっくりとフードの中の顔を照らす。

 若干幼さを感じさせるものの、エルとそっくりな顔立ちをしている。


「ラウル!」

 エルは思わず叫んだ。どうしてこんなところに? 今まで一体どこに行ってたんだよ! と矢継ぎ早に彼に質問した。

 まあ、まあ、とエルを宥めるように両手をそっと上げると

「そんなに慌てるように聞かないでよ。それよりも、エル。この時間に教会にくるなんて、君こそどうしたの? 君らしくもない……」

そう言って、ラウルは優しく微笑んだ。



 懐かしい彼の笑顔に、エルは安心したのか涙を流しながら、クリスティーヌの事を話した。

「へぇ。やっぱり結婚してたんだ……」

 ボソっとラウルは呟いた。二人はいつのまにかベンチに腰をかけている。

 その言葉に、エルは一瞬しまったという顔をした。かつて、ラウルがクリスティーヌに、恋をしていた事を思い出したのだ。

 だが、どうして自分たちが結婚した事を知っているのだろう。

 しかし、ラウルはエルの事を悟ったのか

「風の噂でね。君たちの事は耳に入っていたんだ。それにしても……相変わらずエルは本当にわかりやすいなあ。僕とクリスティーヌの事はきっと彼女自身から聞いたんでしょ? でも、今更気にしなくていいよ。昔の事だし」

ただ懐かしいだけ、とでも言うように彼はエルを見つめた。


「それよりも、ミカエルすら匙を投げたなんて。よほど酷いんだな……」

「ああ。もって、あと数ヶ月だろうと言われたよ」

 エルの顔には、なんとも言えない表情が浮かんでいる。

 そうか……とおもむろにラウルはベンチから立ち上がると、くるりとエルの方へと振り返った。

「じゃあ、もし、僕が奇跡を起こせるといったらどうする?」


 エルは、奇跡……だって? とポカンと口を開けた。

「そう! 奇跡。僕がクリスティーヌを助けてあげよう」

 ラウルは嬉しそうに微笑んだ。だがエルは、何を言っているんだ、ミカエルだってもうダメだって言ってるんだぞ、と彼に楯突いた。

 ふぅ……と軽いため息をつきながら

「まあ、こんなこと言っても、信じてもらえる訳ないよね。じゃあ、今からその奇跡を見せてあげる」

ラウルはそう言うと、教会の片隅で死んでいたネズミをヒョイっと彼の左手に取った。そして、右手をゆっくりとかざすと……

 死んでいた筈のネズミはピクピクと鼻を動かし、目をパチリと開けると立ち上がって、彼の手から勢いよく逃げ出した。


「す、すごい! 今のは一体……?」

 信じられない! と言って、エルはラウルにどうやったのかと聞いた。

「これはね、僕が旅をしていた中で、あるジプシーから教えてもらった方法なんだ。だから、クリスティーヌの病気も、僕だったら治せると思うよ」

 どうかな? とラウルはエルの方に尋ねた。


 暗がりにさした日の光を見つけたように、希望を見出したエルは、ああ! ぜひ、お願いしたい! とは言おうとした。

 しかし、それと同時にもし助からなかったら? という不吉な予感が彼を襲った。

 果たして、その時の絶望感に自分自身は耐えられるだろうか。いっそ、気が狂ってしまう方が楽かもしれない。だが、正気のままだとしたら、どれほどの悲しみの淵に追いやられるのだろう。

「ラウル。お前の奇跡はすごいと思う。でも、実際にクリスティーヌに試してみて、もし、助からなかったらと思うと……」

 せっかくだけど、ラウルの提案は今すぐ受け入れられない、と俯きながらエルは首を振った。

 ラウルは目線を少し落として軽く頷くと

「……そうか。わかったよ。じゃあ、あと一週間待つ。その間に、どうするか決めてくれないかな。もし、僕の奇跡を受け入れるなら、またこの時間にここに来てよ」

と伝え、さらに、僕たちがここで会った事は、諸事情があるため誰にも言わないで欲しいとお願いをした。


「あぁ、了解したよ」

 エルはその提案に対してそう答えた。

だが、顔を上げてラウルの方を向くと、既に彼はいなくなっていた。

 音もなく彼が去っていった事に、エルは驚いたと同時に、今までのやりとりが、まるで夢の中の出来事であるかのように感じたのだった。


◆◆◆


 今日もエルはクリスティーヌの部屋に行く。そして、ここ連日と同じように、彼女のヘッド脇に座り薬を差し出した。

「さあ、飲んで」

 いつものように優しく、彼女に飲むよう促す。


 しかし、彼女は首を横に振るとこう言った。

「エル。あなたはこの病気が只の病気だと言ってるけど、本当は違うのでしょう……?」

 エルはその質問に顔を引きつらせ、そんな事はないと答えた。そして、彼女に悟られまいとしようとして、用事があると部屋から出ようとした。

 だが、どこか行かないように、エルのシャツの袖をクリスティーヌは素早く掴んだ。

「嘘よ! 自分の体のことだもの。おかしいのはよくわかるわ……」

 誤魔化そうとする彼を彼女はそう制し

「お願い。本当の事を教えて?」

と言ってエルの事をじっと見つめた。しかし、彼は目線を合わせようとしない。

「お願いよ……私はもう、実は、長くないのでしょう?」

 その言葉に、エルはハッとした表情を浮かべる。

「覚悟はできているの。本当の事を教えてちょうだい!」



 エルはしばらく無言だった。

だが、観念したように一息つくと、彼女に本当の病状をとうとう話し始めた。

 クリスティーヌは静かにエルの話を聞き、悲しそうに彼が話し終えると

「やっぱりそうなのね……」

と一言言って沈黙した。二人の間に、なんとも言えない空気が漂う。


 だが、その空気を破ったのはクリスティーヌの方からだった。

「エル。教えてくれてありがとう」

 彼女は静かに微笑むと、俯いているエルにそう言葉を掛けた。

「正直言って、死ぬのは怖い。でもね、実は死んでしまうかもしれないって思ったのはこれが初めてではないの」

「?!」

 意外な告白に、エルは顔をあげ驚いた表情を彼女に向けた。

「覚えてる? シェリルが産まれた日の事。あの時は痛みが酷かったし、あの子もなかなか出てこないから、このまま死んでしまうのかもしれないって思ったわ。でもね、その時に、私の命はどうにだって構わないから、どうか無事に産まれてきて欲しいって思ったの」

「そんな事考えてたのか……?!」

「ふふっ、あなたがまた大騒ぎするかもしれないと思ったから、敢えて言わなかったのだけど」

 さらに、それに……と彼女は言葉を続けて

「今まで生きてきたこの二十数年間、本当に幸せだと感じられたのは、あなたと田舎のお家で再会してからよ。そして、今に至るまでの間に十分すぎるくらいそれを感じ取れたわ。それまでは、実家の事やユリエルとの事もあったし、こんな日々が訪れるなんて想像も出来なかったから」

と様々な事を思い出しているのか宙を見つめた。

「確かに、残りの時間は少ないかもしれない。でも、あの出産の時に命を落としていたのかもと思うと、日々成長していくシェリルの様子もわからなかった。だから、今は神様がくれたご褒美の時間なのかもしれないって思えば……ねぇ?」

 ベッド脇のエルは、今にも泣き出すような表情をしている。そんな彼を宥めるかの様に、クリスティーヌはそっと彼の顔に手を添え、いつになく真剣な目で見つめた。

「もし、ここで何も教えて貰えず、天国に逝ってしまったら、それこそ、あれもこれもやりそびれたって心残りになってたこと間違い無いわ。どうか、残りの時間を有意義に過ごさせてちょうだい」

 そう言って、クリスティーヌはエルにメモ紙とペンを渡す様にお願いすると、自身のやり残した事をリスト化し始めた。


◆◆◆


 そして、ラウルに提案された期限の日。


 既にラウルは教会のベンチに座って、エルの事を待っていた。しかし、エルの現れる気配は一向にしない。


 ……なんだ。つまらない。帰ろうかな……

と思いながら彼が腰を上げた矢先。

 扉を開け、遅くなってごめんと言ってエルが入ってきた。


 その様子に、ラウルは待っていたよと嬉しそうに笑顔を作った。

「では、クリスティーヌに奇跡を試すんだね?」

 確認するように、ラウルはエルに尋ねる。

「……頼む」

 満月の眩しい光が教会内を照らす中、エルはラウルの手を握った。

 そして、待たしてしまったせいか、彼の手がだいぶ冷え切っているようにエルは感じるのだった。

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