004話 九条透
俺――九条透は、九条家の長男としてこの世に生まれ落ちた。
その翌年、俺の弟――九条夏樹が生まれる。
俺と夏樹は、俺が小学校に通い始めるまで、毎日九条邸で一緒に過ごした。
あの頃の記憶はあまり覚えていないが、年相応に遊んでいたと思う。
夏樹は弟のくせに俺より背が高く、力も強かった。ケンカをすればいつも負けていたことを覚えている。反対、俺は本を読んだりパズルを解いたりするのが得意だった。
そんな俺は小学校に入ってすぐ、他人の思考を無差別に読み取る『能力』を発現させる。
そのことを知った両親は、俺のことを気味悪がり、九条家が新たに運営を始めた孤児院に俺を隔離した。つまり、俺は捨てられたのだ。
それから三年間――俺は、両親にも夏樹にも、一切会うことはなかった。
小学校には孤児院から通い続けていたが、幼い俺は人の思考が読めてしまうせいで、他人と上手く折り合いがつけられず、すぐに孤立する。
「なんで……なんでこんな目に合わなくちゃならないんだ……」
世界に見捨てられた俺は、人が抱える闇に精神を浸蝕され、その心を粉々に砕かれた。
一体、どれくらい瞼を閉じていたのだろう? 閉ざされたその瞳で、何を求めていたのだろう? 事実に目を瞑ったからといって、その事実がなくなるわけじゃないというのに。
蜘蛛の巣状の不気味な模様が浮かび上がる、紫色に変色した忌々しい両目を、俺は自らの手で何度も抉り取ろうとしたが、そのたびに視力を失う恐怖に負け、結局何もできなかった。鏡に映る、人生に倦んだ老人のような瞳をよく覚えている。
自分がなぜ生きているのか分からなかった。それでも意味もなく生にしがみついていた。
そして月日は流れ、俺が小学四年生になった頃。
父さんから唐突に連絡があり、俺は三年ぶりに九条邸へと戻る。
久しぶりに顔を合わせた夏樹は大きく成長しており、前よりも身長の差は開いていた。
食べ物や睡眠、育つ環境等、あらゆる要素が俺の成長を阻害していたのだろう。
皆が成長していく中、俺だけの時間が止まっていた。
夏樹は俺とは別の小学校に通っており、元気溌剌で運動が得意な人気者らしい。
そんな夏樹に、父さんはもう少し学力を上げてほしいと内心思っていることを、俺の『洞視眼』がオートモードで勝手に読み取っていたが。
父さんが俺を九条邸に呼び戻したのは、近々開かれる社交界に俺と夏樹も招待されたからだそうだ。今まで俺をいないものとして扱ってきた父さんにとっても、さすがに俺の存在を親交の深い企業の役人たちや、その上層部に隠すことはできなかったのだろう。
俺は身嗜みを使用人たちに整えられ、簡単なテーブルマナーや礼儀作法を教わった。一応使用人たちも、俺のことを九条家の一員として丁寧な対応を心がけていたつもりだったのだろう。だが、使用人たちの思考からは、俺のことを憐れんだり、蔑んだり、馬鹿にするようなものばかりが、俺の頭に流れ込んできた。
父さんと母さんと夏樹と一緒に、俺はそのとき初めて社交界に参加した。
派手な飾り付けに豪華な食事。パーティーみたいなものだ。
父さんが俺のことをお偉いさん方に紹介するときはパーティー会場にいたが、それが終わると早々に、俺はパーティー会場を早々に離れた。
地位が高い人間ほど、裏で何を考えているか分かったものじゃない。
俺は今までに感じたことのない、最上級の醜い心に吐き気を催し、空気を吸いにひとけのないベランダへと逃げた。
そこで、俺は眩しい輝きを放つ銀髪の少女に出会った。否、出会ってしまった。
たぶん、あれは運命だったのだろう。何も見えない暗闇の世界に、彼女の差し出した手があった。その少女は、自分のことをアーシャと名乗る。
そして、俺の能力はアーシャによって矯正され、俺の中の小さな世界は変わった。
俺はアーシャの言った、あの言葉が忘れられない。
『この力の使い方次第では、あなたはこの世界を変えられるかもしれない』
俺が世界を変える? 果たしてそんなことが本当にできるのだろうか?
社交界が終わった翌日、俺は再び孤児院に戻されることになる。
目の制御ができるようになったことを父さんに伝えたが、彼の考えは変わらなかった。
思い返せば、あのときすでに、父さんは九条家の跡取りを弟の夏樹に据えようと決めていたのだろう。つまり、俺のことをもう必要としていなかったのだ。
俺は父さんとの別れ際に、一つ質問をした。
『もし、世界を変えたいと願うなら、何が必要になりますか?』
その質問に対して父さんは、
『お前が世界を変える? はっ、ははは、そんなことは不可能だ』と鼻で笑いながらも、
『最低でも私を超える頭脳がなければ、話にならないな』と冷たく語った。
孤児院に戻った俺は、ひたすら勉学に打ち込んだ。元々、運動をするよりも頭を使うことのほうが得意であったため、物覚えがよく、知識の吸収も早かった。
「学べば学ぶほど、自分が何も知らなかったことに気づく、気づけば気づくほどまた学びたくなる。とはドイツ生まれのユダヤ人の理論物理学者、アルベルト・アインシュタインの言葉だったか」
勉学に勤しむと同時に、当時小学四年生だった俺は、単身あらゆる道場に通い、数多の武術の基本技だけを教えてもらった。それからの毎日は、あらゆる武術の基本技のみを、文字通り血が滲むほど延々と繰り返す日々が続いた。元来、頭脳派であった俺は、運動自体も特に苦手ではなかったが、武術に関しては突出した才能はなかった。
だから、勉強をする傍らに、その何倍もの苦痛を伴いながら、己が身を守る術を自力で手に入れるのには苦労したものだ。重ねた努力の分だけ強くなる。
剥がれれば剥がれるほど、全身の皮膚は厚く硬くなっていく。常軌を逸した肉体改造。ありとあらゆる骨が、何度も何度も折れた。それでも、心は折れなかった。
そんな中、一つの訃報が入る。――――――母さんと夏樹が死んだ。
二人で出かけたときに、交通事故で命を落としたらしい。
運転手も一緒に死んだそうで、詳細は不明ということだ。
本当にただの事故か……それとも誰かに殺されたのか……
父さんに呼ばれ、俺も葬儀に参列することになった。父さんと顔を合わすのも、あの社交界のとき以来だった。母さんと夏樹に最後に会ったのも、あの社交界になるのだろう。
なんだかんだ言っても、母さんと夏樹とは七年ぐらい生活を共にした。
二人について思うことはある。だが、二人が死んでも不思議と涙は出なかった。
それは、俺があの二人を憎んでいたからだろうか? いや……違う。
本当に悲しいと心が麻痺して涙が出ないと言うが、別にそういうわけでもなかった。
――ただ、心底どうでもよかっただけだ。
一度壊れた心は、二度と元の形に戻ることはない。
砕けた欠片を繋ぎ合わせたとしても、それはまた別の何かでしかないのだ。
俺には、すでに二人の死を悲しむ感情は残っていなかった。
その後、小学校を卒業した俺は、再び父さんに呼ばれて九条邸へと舞い戻る。
父さんが九条グループの後継者に選んでいた夏樹が死んだからだ。
父さんは、俺を次の後継者にするつもりだった。
さらに父さんは、他人の思考を読み取る俺の『目』を利用できると踏んだ。
俺は徹底的に礼儀作法と政治・経済の知識を頭に叩き込まれ、あらゆる社交界に参加させられた。そこでライバル企業の代表や重役、この国を動かす力を持つような人たちの心を読み、その弱点を探り、各企業の関係を切り崩していく。
その際には『コールド・リーディング』という特殊な話術を用いたのを覚えている。
それは、相手の外見を注意深く観察し、会話に説得力を持たせることで、相手に対する事前情報が少なくても、相手に安心感や信頼感を与えるというものだ。
まず、自分は相手のことを理解していると思わせるために、誰にでも当てはまりそうな一般的な会話内容で『バーナム効果』と呼ばれる心理現象を引き起こす。
そして、相手と会話の呼吸を合わせ、その会話から対象者の反応を探り、新たに明らかになった情報からさらに質問を重ね、相手の信頼をどんどん深めさせていく。
俺は『洞視眼』を使わなくても、相手の年齢、服装、顔色、口調、目の動き、表情の変化、言葉の反応から、相手に関する情報を引き出し、心理を掌握することができるようになった。これにより、九条グループはその勢力をさらに広げることになる。
散髪に行く機会がなく長く伸びた髪と女みたいな顔は、相手を油断させるのに役立った。
そうして、俺は正式に九条グループ次期当主となり、三階建てである九条邸の二階全体と、三分の一の使用人を、父である九条グループ現当主――九条宗司に与えられた。
命は弱さを許さない。この世界は弱肉強食だ。強い者が弱い者を喰らい、己が欲するものを手に入れる。弱い者は強い者に喰われ、自らの大切なものを奪われる。
俺は一度すべてを失った。もうあんな思いは二度としたくない。俺が――
――俺が世界を創り変える。まずはその足がかりとして、この日本を変革する。
バトルシーンまで、まだ日常が続きますが、引き続きご愛好のほどよろしくお願いいたします。