002話 九条透と姫宮詩乃
三階建ての九条邸を出て、噴水のある広大な中庭を通り過ぎると、一台の黒塗りの車がとまっていた。運転席には、髪の色が白く変わった年配の運転手がいる。
京香が後部座席の扉を開き、俺を車内へと導く。
俺は車に乗り込み、京香も後から車に乗った。車の内部は対面式になっており、運転席と後部座席には仕切りがあって姿は見えず、音も完全に遮断されている。後部座席にはトランシーバーがあり、前と後ろの連絡はこれで取り合うことになっていた。
京香が俺の対面に座り、運転手と連絡を取ることで車は静かに動き出す。
九条邸は都心から少し離れた山中にあり、俺はある程度のところまで車で登校し、目立たないところで車から降りて、そこからは毎日歩きで白麗院に通っていた。
「透様、今日のご予定の確認を致します」
確認など不要だが、別に車内ですることもないので素直に了承する。
「今日は始業式なので、午前中で学校は終わりです。新しいクラスを確認した後、始業式にて先生の話を聞いて、その後に身体測定をして終了となります。午後からは、電車で都内の空手、柔術の道場に行ったあと、帰りは私が車でお迎えに上がります。帰宅後は夕食を挟んだのち、社内の資料を片付けて書類の提出です。その後、次の社交界に備えて、有力企業の代表者のデータも集めなくてはなりません。その際は私もお手伝いいたします」
「わかった。学校が午前で終わるのは今日だけだし、道場には今日中に顔を出しておいたほうがいいよな」
剣術と中国拳法の師範には、昨日のうちに挨拶を終えている。
現在、俺は、空手、柔術、剣術、中国拳法をそれぞれ別の師範から学んでいた。
九条グループほど企業としての存在が大きくなると、その関係者の命を狙う者も現れる。
九条家にはボディーガードや警備員が何人かいるが、俺は自らの生い立ちとその性質上、他人のことを完全に信じることができない。
結局、自分の身を守ることができるのは、自分しかいないのだ。
「お言葉ですが、そろそろ通う道場の数を減らしてもいいのではないでしょうか? 今では透様も九条家のボディーガードに勝るとも劣らない実力の持ち主ですし。武器を使わない素手での戦闘なら、私とも同レベルでしょう。これ以上強くなられては、私の出る幕がありません。このままでは、私は不要になってしまいます」
京香は表情を曇らせてしゅんと目を伏せた。
――京香が不要になる? そんなことはありえない。京香は俺の数少ない理解者であり、信用できる人間だ。それを自ら手放すことなど、絶対にない。在り得ないことだ。
「京香さん、その心配はないよ。俺はいつも京香さんに助けられているじゃないか。それに、武器を持った京香さんに勝てる見込みはないわけだし……」
京香の戦闘能力は、明らかにまともな人間のそれを越えている。人外の域だ。
「しかし、最近はボディーガードとしての仕事が少なく、ただのメイドになっているような気がするのですが……」
それでもなお、京香は不安そうな顔をする。ここは一つ、京香を安心させるために、俺の気持ちをはっきりと伝えておいたほうがいいのかもしれない。
「いいか。よく聞け、京香」
俺は京香を呼び捨てにした。いつも心の中では呼び捨てにしているが、京香は年上なので、普段は「さん」をつけて呼んでいる。しかし、仕事のときや、公の場、真面目な話をするときは体面上、使用人である京香のことは呼び捨てにしていた。
「俺はいつも京香に助けられている。あの屋敷で心から信用できるのも京香だけだ。表面上は取り繕っていても、他の使用人は俺に取り入り、九条家の恩恵を受けることで頭がいっぱいだからな。俺にはこの『洞視眼』があるからすべてわかる。あいつらの浅ましい考えなんて、透けて見えるんだよ」
俺は左目に手を当てて話を続ける。
「初めて京香と会ったとき……お前だけが、俺を九条宗司の息子としてではなく、一人の人間として、九条透として見ていた。だから、俺は京香に可能性を見出した。この人なら、俺の力になってくれるかもしれないと」
その後、京香は俺の専属ボディーガードになり、俺たちは友好を深めていった。
しかし、ある日、ちょっとした出来事で、京香に俺の『目』の秘密がばれてしまった。
だが、京香はそれを嫌悪することなく受け入れ、俺の力になると言ってくれた。
それは俺が得た、人生で二人目の理解者だった。それから、京香は不慣れなメイドとしての家事スキルを磨き、俺の専属メイドにもなってくれたのだ。
「俺は京香のことを必要としている。貴女が好きだ。京香が俺を見限ることがあっても、俺が京香を見限ることはない。これからもずっと側にいて欲しい」
俺は京香の目を見て、真剣に思いを伝えた。それが大切なことだと知っているから。
「まぁ、京香さんが俺を見限るときは言ってくれ。そのときは退職金をがっぽり出してやるからさ。後ろから急にグサッと刺されるのはごめんだよ」
途中で自分の発言が照れ臭くなり、冗談交じりにそう言った。
すると、対面に座る京香が俺の手を優しく包み込む。
「私があなたを裏切ることはありません。なぜなら、あのとき私はあなたを側で支えて心を癒し、あなたの身を守る盾となり、あなたの夢を叶える剣になると約束しましたから」
京香が微笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込んでくる。
純真な笑顔を浮かべる京香はいつもより輝いて見えた。
「最近は誰とも戦う機会がなく、少し退屈で拗ねてみただけです」
そう言って、京香はわざとらしく頬を膨らませる。メイド服を着ている彼女はおしとやかな女性に見えるが、その実、気性が荒く、根っからの戦闘狂であること思い出した。
誰かと戦うことができずに拗ねているというのは、冗談ではなく本当のことなのかもしれない。そういえば最近少し不機嫌だったな。そんなことを考えていると、車内のトランシーバーが鳴り、車が目的地についたことを告げた。ここから先は徒歩での通学になる。
「じゃあ、行ってきます」俺は席を立ち、車の扉を開けて外に出た。
「お気をつけて」座席に座ったままの京香が、綺麗な姿勢で頭を下げて見送ってくれた。
車を降りて住宅街を少し歩くと道が広がり、登校する生徒が目についた。
白麗院は偏差値六十五を超える、格式のある私立の高校である。
太陽の光を浴びて楽しそうに登校する生徒を尻目に、俺は冷めた目で横切っていく。
何がそんなに楽しいのやら、生徒たちの顔は笑みで溢れていた。
春休み明け。久しぶりの登校で友達に会い、休みの間の話で盛り上がっているのだろう。
「……不快なんだよ」
徹夜明けに浴びる陽の光は身体に毒だ。眩しい。眠い。だるい。
「ああ、なんだか猛烈に帰りたくなってきた……」
憮然として歩く俺の視界の先に、白麗院の女子制服を着た一人の少女が映る。
その少女――詩乃は俺の姿を視界に捉えると、小走りでこちらに向かってきた。
「遅いよ、透! 私、二十分も待ったんだからっ!」
詩乃が文句を言いながら茶髪のツーサイドアップを揺らす。
「別に待ち合わせしてないだろ。というか早いな。なんでそんなに早く来たんだよ?」
「だって、今日は始業式だからねっ! クラス替えがあるんだよ! また透と同じクラスになれるかどうか不安で、居ても立っても居られなくて……」
彼女の名前は、姫宮詩乃。
俺がこの世で信頼を置いている、たった二人の人間のうちのもう一人。中学一年生のときに詩乃が転校してきたことで出会った、京香より先にできた俺の初めての理解者。
俺は彼女のためなら、自らの命を捧げることができる。それくらい大切な存在だ。
白麗院の黒いブレザーに赤のスカート。髪は明るい栗色で、花飾りのヘアピンをつけ、ピンク色のリボンを使ってツーサイドアップに結っている。そのリボンは、去年の詩乃の誕生日に俺が渡したものだ。ちなみに、リボンと一緒に『貧乳』と書かれたピンク色のティーシャツを渡したら、グーで顔面を殴られた。……軽い冗談のつもりだったのに。
詩乃は家事全般が得意で勉強もよくできる。そして何より元気いっぱいで笑顔が絶えない。俺はその明るい言動に、いつも励まされていた。
「まぁ、大丈夫だろ。三クラスしかないわけだし、一緒になる確率は高いと思うぞ」
「そうだといいんだけど……」
依然として不安そうな顔をしている詩乃を見て、俺は歩みを速めた。
「なら、さっさと確認すればいいだろ」
「それもそうだね。……うん! 見てみないことには何も始まらないよ!」
詩乃と一緒に早歩きで白麗院へと向かう。
「ところで透、今日は身体測定なわけだけど……背は伸びたのかな?」
詩乃が表情を緩ませながら訊いてきた。心なしか顔がニヤついている。
――こいつ! 人が気にしていることを。
「まぁ、去年から一年も経ったわけだし、そ、そりゃあ伸びているだろう。むしろ伸びていなかったら不自然だな」
「うーん。私から見ると、去年からまったく変わってないように見えるけどなー。でも、毎日会っていたら変化に気付きにくいって言うしねー」
確かに、改めて詩乃を見てみると、俺と詩乃の目線の高さは五センチくらいしか変わらない気がする。……あれ? こいつ去年、こんなに大きかったっけ?
そのとき、詩乃のお腹から「きゅうぅぅ~~~」という可愛らしい音が鳴った。
「おい、詩乃。今のお腹の音は何かな?」
俺がからかうように言うと、詩乃は下を向いて顔を赤く染めた。
「もしかして、身体測定で少しでも体重を減らすために、朝食を抜いてきたとか?」
詩乃は目を伏せたまま身を震わせている。……図星か。
「そんなことをしても大して変わらないのに、女の子は大変だな」
詩乃はうつむいたまま何も言い返そうとしない。
ははははは、ざまぁ見ろ。俺は一通り言いたいことを言ったので満足した。
が、その刹那――詩乃が怒声を上げて右拳を俺の腹に打ち込んでくる。
「と、透のばかぁ~~~!」
「ぐふっ!」
完全に油断していた俺の腹に、詩乃の右ストレートが深々と突き刺さる。
思わずその場にうずくまった。油断していたとはいえ、鍛え上げた俺の腹筋をいとも容易く、なんて威力だ……というふりをしておこう。本当はまったく効いていないが。
俺の腹に拳を打ち込んだ詩乃は、顔を赤らめてそのまま走り去ってしまった。
詩乃は中学のとき陸上部に所属していたこともあって、その姿はすぐに見えなくなる。
「相変わらず、腰の入ったいいパンチだった。俺じゃなかったら悶絶ものだぞ」
そうぼやくと、俺は仕方なくトボトボと一人で白麗院に向かった。