第一話
# 第一話 冬の言葉、春の名前
最初の一週間、清馬はほとんど言葉を発しなかった。
あの夕餉の席で三姉妹と引き合わされてから、清馬を娘たちから遠ざけていた見えない壁は、ようやく取り払われたようだった。素性の知れぬ余所者から、家の子として迎え入れられるまでの、最初の一歩。もっとも、壁が消えたところで、肝心の言葉が通じないことに変わりはなかったが。
そして、冬は長かった。清馬が雪原に倒れていたのは、この土地の長い冬の、まだ入り口に過ぎなかったらしい。窓の外は来る日も来る日も白く閉ざされ、春の気配は、どれだけ待っても訪れる様子がない。裏を返せば、言葉を覚えるための時間だけは、嫌というほどあるということだった。
正確には、発せなかった。頭の中では軽口がいくらでも浮かぶのに、それを訳す術がない。何か気の利いたことを言って場を和ませたいのに、口から出るのは意味をなさない音の切れ端だけだ。もどかしさが苛立ちに変わりかけて、清馬はその感情を封じ込めた。苛立ちは判断を鈍らせる。前世で叩き込まれた教訓だった。
封じ込めてなお、奇妙な喪失感は残った。
軽口は、清馬にとって単なる癖ではない。絶望的な状況ほど冗談を叩いて場を保つ。誰かがそうしなければ、隊は簡単に崩れる。清馬はいつもその「誰か」だった。三十六年かけて身につけた、他人との間合いの取り方。いわば人格の芯だった。
その芯が、今は使えない。
言葉を奪われた清馬は、自分がひどく削り取られたように感じた。何者でもない、ただ黙って観察するだけの生き物に成り下がったようで。
――言葉が通じないなら、通じるものから始めればいい。
だから清馬が最初に覚えたのは、単語ではなく「間合い」だった。サーラが朝の支度をする動線。アルヴィが薪を割るときの立ち位置。三姉妹が食卓につく順番。人の営みには必ずリズムがある。そのリズムに体を合わせるところから、清馬は生活を組み立て直していった。言葉が戻るまでの、せめてもの足場として。
*
体調が戻ると、清馬は誰に言われるでもなく手伝いを始めた。薪運び、水汲み、家畜小屋の掃除。まだ本調子には遠い十三歳の体は、記憶している自分の体力とは比べ物にならない。それでも同年代の子供と並べば、妙に手際が良かった。無駄のない動き。荷物の担ぎ方。力の配分。染みついた体の使い方だけは、年齢を超えて残っていた。
最初に気づいたのはアルヴィだった。ある朝、清馬が斧を振るう様を見て目を丸くする。振り方も、体重の乗せ方も、力みのなさも、明らかに素人のそれではない。アルヴィは何かを言いかけ、しかしすぐに首を振って笑った。言葉が通じない以上、詮索してもどうにもならないと悟ったのだろう。
代わりにアルヴィは、薪割りの「この土地のやり方」を教え込むことにしたらしい。手本を見せ、清馬にやらせ、違うところがあれば身振りで直す。清馬はあえて完璧にやらなかった。教わった通りに、時に少しぎこちなく。過剰に有能さを見せる必要はない。今はまだ、探るべき情報のほうが多かった。
その情報の一つに、清馬は早々に引っかかっていた。
食卓である。
拾われて数日、体が動くようになって最初に囲んだ食卓で、清馬は並んだものを見て首をひねった。根菜の類はいい。寒さの中でも保つ。だが皿の隅には干した果実があり、汁物には青物が浮いている。木の椀には、乳を固めたものまであった。
外は、雪だ。それも、生半可な雪ではない。清馬が行き倒れたあの雪原が、まだ村を包んでいる。
――この時期に、これだけ食えるのか。
決して裕福な家ではない。一目でわかる。衣服の繕い跡が、道具の使い込まれ方が、それを物語っていた。物を最後まで使い切る、倹しい暮らしだ。その家が、冬の最中にこれだけの蓄えを崩して食っている。
清馬は幾度も飢えた土地を見てきた。冬に人が痩せ細り、春を待たずに土に還る集落を。糧秣が尽き、補給の途絶えた前線を。だからこそ、目の前の食卓が奇妙に浮いて見えた。倹しいのに飢えていない。この二つは清馬の知る世界では両立しない。
貧しい村の冬は、削るものだ。人も、食も。なのにこの家は、削っていない。
――夏に、よほどの実りがあるってことか。
そこまで考えて、清馬は思考を止めた。今は言葉も通じず、村の外も知らない。手札が足りなすぎる。
――まあ、異世界だしな。
清馬は匙を進めた。腹の底に、小さな違和感を一つ澱のように残したまま。
*
言葉を覚えるより先に、清馬が試したことがあった。
きっかけは、ひと月に一度ばかり村を訪れる、行商人の一団だった。塩や鉄物を積んだ荷馬車を引く彼らは、この閉じた村がよそと繋がる数少ない糸らしかった。ふだんは余所者に固く閉ざされた村が、その日ばかりは門を開く。清馬は、行商人と村の顔役が言葉を交わすのを遠目に眺めていた。
妙だった。村の言葉と、違う。
耳を澄ませば、顔役のほうもたどたどしいながらその言葉を操っている。清馬は直感した。共通語だ。どれほど言語が違えど、交易のある土地には、必ず橋渡しの言葉がある。前世でも、その手の言葉に幾度も助けられてきた。
ならば、と清馬は一縷の望みをかけた。後日、行商人の一人がひとりになった隙に、英語で話しかけてみたのだ。
反応は、なかった。
男はきょとんと清馬を見返すだけだった。日本語で話しかけたときと、何も変わらない。清馬の知る言葉は、この世界のどこにも通じないらしい。後になって知る。彼らが交わしていたのは、この世界で交易に使われる共通語だった。だがそれは、清馬の操る英語とはただの一語も重ならなかった。
――そうか。ここじゃ、俺の手札は全部、ただの紙切れだ。
母語も、覚え込んだ第二の言葉も。三十六年で身につけたものが、この土地では何一つ通用しない。清馬は、静かにそれを飲み込んだ。抜け道はない。ならば、ゼロから覚えるしかない。覚えるまでだ。
*
言葉を教えてくれたのは、主に三姉妹だった。
最初に距離を詰めてきたのはリーナだ。清馬が家事をしているとどこからともなく現れ、手当たり次第に物を指差しては発音してみせる。清馬が真似ると、正しければ手を叩き、間違えれば顔をしかめる。遊びのようなものだったが、清馬にとっては何よりの教材だった。
ある朝、その指が食卓の上で止まった。
「Pōla.」
黒く重い、酸っぱい匂いのする塊だった。
「……Pō…… Pō…… pōla……?」
「Pōla! Jē, jē!」
リーナが手を叩いて喜ぶ。その反応が嬉しくて、清馬もつい口元をゆるめた。三十六年生きた男が、パン一語を言えただけでこんなに褒められている。
――俺、今けっこう情けないな。
そう思いはしたが、悪い気分ではなかった。むしろ、久しぶりに誰かと心が通った気がした。言葉ではなく、笑いで。
この繰り返しが、清馬にとって最初の授業だった。名詞をひとつ、またひとつと拾っていく。物には名前がある。その当たり前が、今はただありがたかった。
だが、言葉の壁は単語を覚えた程度では越えられない。
覚えた名詞を並べても、文にならない。動詞の変化がまるで掴めない。「行く」の形が、誰がいつ行くのかで、ぐにゃぐにゃと姿を変える。清馬は自分の手帳が欲しくてたまらなかった。書いて整理すれば、規則が見える。だが紙もペンもなく、文字そのものも読めない今、清馬にできるのはひたすら耳で覚えることだけだった。
もどかしかった。頭の中には、言いたいことが山ほどある。この村のこと、食卓のこと。聞きたいことは尽きない。なのに口から出るのは、たどたどしい単語の羅列だけ。三十六年ぶんの中身が幼児の器に押し込められ、身動きが取れずにいる。
それでも――生きるために要る言語というのは、驚くほど吸収が早い。教科書で学ぶそれとは、根本的に速度が違った。飢えたくない、寒さで死にたくない、この家の役に立ちたい。その切実さが清馬の舌を、少しずつほぐしていった。
ミーアのやり方は、リーナとは違った。
教えるというより、そばで本を読んで聞かせる形で言葉に触れさせる。村では珍しく文字が読める少女で、暖炉の前に座って古い物語を低い声で語った。
最初は、ただの音の羅列だった。意味の切れ目すらわからない、のっぺりとした響きの帯。清馬はそれを、波の音でも聞くようにぼんやりと聞き流していた。
それが数ヶ月のうちに、少しずつ形を持ち始める。
ある晩、暖炉の前で聞いていたミーアの声の帯の中に、清馬はふと、聞き覚えのある区切りを見つけた。
「……Hīvanna kāra……」
kāra。
家。その一語が、意味を持って耳に飛び込んできた。のっぺりとした帯の中から、一粒の言葉が輪郭を持って立ち上がった瞬間だった。雪の中に、家。物語の筋はまだ半分も追えない。それでも、清馬は自分でも驚くほどの達成感に胸を突かれた。
真っ暗な壁に、穴が一つ開いた。そこから、光が差し込んできた。
清馬が思わず顔を上げると、ミーアが本から目を離してこちらを見ていた。清馬が今、何かを掴んだことに気づいたのだろう。ミーアは何も言わず、ただ小さく微笑んでまた物語の続きに戻っていった。その気遣いが、清馬にはありがたかった。
エリカは、三人の中で最も距離を置いていた。
警戒しているというより、観察していると言うほうが近い。清馬が失敗しても笑わない。成功しても大げさに褒めない。ただ、じっと過程を見ている。清馬はその視線に、どこか懐かしいものを感じていた。部隊にいた頃、新人を値踏みする古参兵の目に似ている。信用するに足るか、背中を預けられるか。それを見極めるまで、決して気を許さない目だ。
ある日、清馬は薪割りで手元を誤った。刃が跳ね、危うく足を持っていかれるところをとっさに体を捌いて逃げる。
見ていたのは、エリカだけだった。
エリカは何も言わなかった。翌朝、清馬が水を汲みに出ようとすると桶が戸口に用意されていた。二つ、ある。片方はエリカが黙って持ち、先に立って歩き出した。
言葉ではなく行動でしか信頼を得られない場面があることを、清馬はよく知っている。だから、その桶の意味も正しく受け取った。エリカは、清馬を認め始めている。少なくとも、水汲みの相棒くらいには。
*
長い冬がようやく緩み始める頃には、清馬は日常会話に不自由しない程度まで言葉を覚えていた。
雪に閉ざされた数ヶ月を、まるまる言葉に注ぎ込んだのだ。それだけの時間があれば、否応なく身につく。
まだ訛りは抜けず、時折おかしな言い回しで三姉妹に笑われたが、意思の疎通に困ることはなくなった。村の子供たちの中では明らかに異質な速度だったが、「異国から来た子供」という前提が幸いした。誰も不審には思わない。むしろ「あの子は賢い」という評判が、良くも悪くも先行するようになった。
そして言葉が戻るにつれ、清馬は失っていた芯を少しずつ取り戻していった。軽口を、笑いを。たどたどしくとも、場を和ませる冗談が言えるようになった頃、清馬はようやく自分が自分に戻ってきた感覚を得た。何者でもない観察者から、桐生清馬に。名は変わろうとしていたが、中身は確かに戻ってきていた。
*
村に馴染むということは、ヤルヴィネンの家の外を知るということでもあった。
そしてその一歩が、清馬の足場を思いがけず揺さぶった。
きっかけは、村の子供に誘われてよその家に上がったことだった。リーナの友人の家だという。土間に足を踏み入れた清馬は、そこで奇妙な光景を目にした。
母親が、二人いた。
二人とも、当たり前の顔をしていた。同じ竈で煮炊きをし、どちらの子ともつかぬ子供らが、五人、六人と土間を駆け回っている。年嵩の娘が、一番下の子に乳をやっている。誰も、それを奇妙とは思っていない。奇妙に思っているのは、戸口に立ち尽くした清馬だけだった。
清馬は努めて表情を動かさなかった。
――こういう土地があるのは、知ってる。
かつて、似た制度の国を通ったことはある。一人の男が複数の妻を持つ。知識としては知っていた。知っているのと、その食卓に自分が立つのとはまるで違った。頭で理解しているつもりのものが、いざ目の前に据えられると据わりが悪い。生まれ育った現代日本の感覚は、三十六年かけて骨の髄まで染みている。そう簡単には上書きされない。
それでも清馬は、それを口にしなかった。よその家の在り方に、余所者が口を挟む筋合いはない。ましてや自分は、そのよその家に拾われた身だ。
口をつぐんだまま、清馬はもう一つのことに気づいてしまった。
――逆か。
そういえば、この家だけではない。村を歩けば、母が二人三人といる家はいくらでもある。子は五人、六人が当たり前だ。あちこちの家から、子供の声が溢れている。
そう周りを見渡して、清馬は初めて理解した。珍しいのは、この多妻の家々ではない。珍しいのは――自分を拾った、あの家のほうだ。
ヤルヴィネン家。母は、サーラ一人きり。子は、三姉妹の三人きり。
清馬はいつのまにか、ヤルヴィネン家を「普通」だと思い込んでいた。母が一人、子が三人。現代日本人の清馬にとって、それはあまりにも自然な形だったから。だが、この村では違う。ヤルヴィネンのような家のほうが、よほど数えるほどしかない。
――なんで、あの家だけ。
その問いが、頭の隅をかすめた。だが清馬は深追いしなかった。文化の違いを一々気に病んでいては、異郷では暮らせない。それに、母が一人で子が三人であることの何が問題だというのか。清馬にとっては、それが当たり前なのだ。
ただ――村の在り方と、拾われた家の在り方。その二つがずれているという事実だけが、澱の中にまた一つ沈んだ。
*
春が浅いうちに、清馬の身の上に一つの区切りが訪れた。
ある日、アルヴィとサーラが村の年長者らしき白髭の老人を家に招いた。清馬はその日、朝から何か改まった空気を感じ取っていた。サーラがいつもより念入りに家を整え、アルヴィが一張羅らしき上着を出してきたからだ。
三人は、炉端で長いこと話し込んでいた。清馬の言葉は、まだその全部を追えるほどではない。ただ話の中で、自分の名が幾度も出てくることには気づいた。
「Seima」
その音が繰り返される。老人が清馬を見て、何かを問う。アルヴィが頷く。サーラが、少し潤んだ目で頷く。
やがてサーラが清馬を手招きした。老人の前には一枚の書き付けが広げられている。清馬には、その文字が読めない。何が書かれているのかも、わからない。ただサーラが清馬の手をそっと取り、指先につけたもので書き付けの端に印を押させた。
――これは。
清馬は断片から意味を組み立てようとした。改まった席。年長者の立ち会い。書き付け。自分の名。三姉妹が、部屋の隅でなぜか嬉しそうに身を寄せ合っている。
そこまで揃えば、さすがに見当はついた。
――どうやら、正式にこの家の子になったらしい。
確信は、なかった。言葉が微妙にしか通じない以上、細かいところはわからない。手続きの意味も、これに何の効力があるのかも清馬には掴めない。ただ、雰囲気がそう告げていた。自分は今、ヤルヴィネンの家の一員として村に認められたのだと。
驚くほど、あっさりしていた。
清馬は内心で舌を巻いた。余所者の子を、これほど容易く家に入れていいものか。
――普通なら、あり得ない。
この国がよそから来る者にどれほど神経を尖らせているかは、短い滞在でも肌で感じていた。村は外に対して固く閉じている。行商人ですら、限られた日にしか門をくぐれない。当然だろう。豊かな土地は、奪いに来る者を引き寄せる。余所者とは、まず疑うべき対象のはずだった。
現にこの夫婦も、最初の数日は清馬を娘たちに近づけなかった。その用心は、まっとうなものだ。
それでも、と清馬は思う。おそらく自分は、その警戒の網から零れ落ちたのだろう。
真冬の雪原に、裸で、傷だらけで倒れていた子供。話す言葉は、この村の誰も聞いたことのないものだった。近隣の国々の言葉でも、交易に使う共通語でもない。どこの国のものとも知れぬ、たった一人の言語。どの勢力の手の者にも見えず、何かを奪いに来た強者にも見えない。ただ、どこかで酷い目に遭って逃げ延びてきた――そういう憐れな姿だったのだろう。
奪う者ではなく、奪われた者。収奪に晒され続けたこの土地の人間にとって、それは他人事ではなかったのかもしれない。
そこまで見極めた上で、あとはもう早かった。前世の常識なら、身元不明の子供を家族に加えるなど面倒な手続きの山だ。役所があり、書類があり、審査があり、いくつもの関門をくぐらねばならない。だが、この村では違うらしい。年長者が一人立ち会い、書き付けに印を一つ。それで、済んだ。
――受け入れると決めた途端、ずいぶんと身軽なもんだ。
その身軽さが、清馬の腹の底の澱と静かに繋がった。倹しいのに飢えない食卓。母が二人も三人もいる家々。溢れるほどの子供たち。そして今、余所者の自分すら、いざとなれば何のためらいもなく抱え込むこの家。
疑うときは疑う。だが、養うと決めれば、人ひとり増えることなど、なんの重荷でもないかのようだった。
――根っこのところが、豊かなんだろうな。
清馬はそう結論づけた。まだその豊かさの本当の意味には、遠く届いていなかったけれど。
その晩、皆が自分を新しい名で呼ぶようになった。
「セイマ・ヤルヴィネン」
清馬はその響きを口の中で転がしてみた。舌になじまない。ヤルヴィネン。この土地でも古いという、湖にちなんだ家の名。そこにセイマという、この国のどこにもない音が接ぎ木される。
――セイマ・ヤルヴィネン、か。
桐生清馬という名は、もう誰も呼ばない。あの名は、あの雪原で中東の爆炎とともに死んだのだ。今の自分は、蘇った借り物の若い体にもらいものの名を載せて生きている。何一つ、元から自分のものではない。
それなのに、悪い気分ではなかった。
妙なものだった。借り物のはずのその名が、その家が、日ごとに体に馴染んでいく。死んだと思った命に、帰る場所が一つできてしまった。
リーナが飛びついてきて、何かを早口でまくし立てる。ミーアが、静かに笑っている。エリカでさえ、いつもより少しだけ口元をゆるめていた。
――まあ、悪くない。おまけの人生にしちゃ、上等だ。
清馬はそう思った。
*
家族になったからといって、村のすべてが清馬に優しかったわけではない。
「Čē…… tān, vēranel nā.」
村の男児の一部があからさまに棘のある視線を向けるようになったのは、春も深まった頃だ。ヤルヴィネン家の養子となり、村での立ち位置が定まってきたことが、一部の反感を買ったらしい。特に、それまで少女たちの注目を集めていた年長の少年ヨナスは、露骨な敵意を見せた。
清馬の評判は、いつのまにか少女たちの間で囁かれるようになっていた。
「Seima, nērija oča hiuta.」
「Pāve nuppe, aikke.」
囁かれていたのは、造形の優劣の話ではなかった。
清馬とて、前世では人並み以上に整った顔立ちをしていた自覚はある。都会で探せばいる程度ではあれ、女には不自由しなかった。だが、この国では話が違う。造形の精度でいえば、すれ違う女たちの誰もが前世なら人だかりのできる顔をしている。井戸端の老婆でさえ、皺の下の造作が明らかに常軌を逸していた。
――この国で顔の造りを競うのは、やめておこう。勝てる気がしない。
だが、少女たちが清馬に目を留めたのは、造りの美醜とは別の理由だった。
黒い髪。黒い瞳。彫りの浅い、東方の面差し。この世界には、そもそも東洋も西洋もない。ゆえに清馬の顔は、美しいか否か以前に、誰も見たことのないものだった。見慣れた美貌ばかりのこの村で、清馬だけが、まるで異なる意匠でできている。その物珍しさ、その異国めいた響きこそが少女たちの好奇を刺した。
加えて、同年代の少年にはない落ち着き。言葉を交わすたびに礼儀正しく、気安く冗談を交える。それが大人びた余裕として映ったらしい。当然と言えば当然だった。中身は三十六年ぶんの男なのだから。
その評判が、ヨナスには面白くなかった。
きっかけは、駆けっこだった。
村の広場の端から端まで。子供たちが囃し立てる中、清馬はヨナスと並んで立った。相手は頭ひとつぶん背が高い。体格でも脚の長さでも、勝ち目はない。
だから清馬は、最初の三歩に全部を賭けた。
合図と同時に低く沈み、地面を掻くように出る。前世で覚えた、装備を担いだまま遮蔽から遮蔽へ跳ぶときの初速だった。ヨナスが歩幅で追いついてきたときには、もう半分を過ぎていた。
差は、指一本ぶん。
周囲が驚きの声を上げる。ヨナスにとっては、屈辱だったらしい。
「Uute! Onme jē!」
清馬は内心で小さく苦笑した。この手の反応は、あの頃も何度も見た。負けを認められない人間の反応は、どこの世界でも大差ない。
「……Jē. Kā……kāve.」
肩をすくめてみせる。挑発するでも驕るでもない、あっさりとした態度。それがかえってヨナスの神経を逆撫でしたらしい。二度目も、三度目も、結果は変わらなかった。
その日から、ヨナスを筆頭とする男児たちとの間に微妙な緊張が生まれた。あからさまな暴力沙汰にはならない。ただ無視されたり、遊びの輪から外されたりする。清馬は気にする様子もなく受け流していた。
「Nā mērvak, muive ep.」
ある日、そんな清馬を見かねたのか、リーナがぼそりと呟いた。その声には珍しく苛立ちが混じっている。清馬は少し驚いてリーナを見た。義理とはいえ妹になった少女が、ここまで自分のために感情を動かすとは思っていなかった。
「O……ošanna. Mā…… sēva.」
軽い調子で返した。嘘ではない。理不尽な扱いにも、集団の中の駆け引きにも、とうの昔に慣れている。ただその慣れを見せる相手が義理の妹であることに、清馬自身どこか面映ゆさを覚えていた。
*
村での立ち位置が定まっていく中で、清馬はもう一つの日課と向き合うことになった。
週に五時間。村の広場で行われる軍事教練だ。
カレヴィアでは、成人前の子供にも簡易な教練が課される。木製の模擬銃を使った基本動作、隊列行進、体力錬成。内容そのものは、かつての清馬から見れば児童教育の域を出ない。だが、その仕組みには興味を惹かれた。国民皆兵という制度が、これほど早い段階から生活に組み込まれている。その事実が、この小国の抱える事情を、静かに物語っていた。
――守るものがある国は、こうなる。
清馬はそう見て取った。豊かな土地は、狙われる。飢えない村は、飢えた誰かに欲される。この国がこれほど早くから子供に銃を握らせるのは、そういう歴史を潜り抜けてきたからに違いない。腹の底の澱が、また少し重みを増した。
指導するのは、片足を引きずる初老の男だった。ヴィルホという。若い頃は猟兵として国境警備に就いていたという噂だ。眼光の鋭さが、他の村人とは一線を画していた。
最初の教練の日、清馬はあえて周囲に合わせた。模擬銃の構え方も隊列の動きも、他の子供と同じ拙さを演じてみせる。だが、演技を貫き通すのは思いのほか難しかった。
体に染みついた動作は、意識せずとも滲み出る。号令への反応速度。姿勢の作り方。視線の配り方。清馬が「これくらいなら」と見積もった些細な部分に、ヴィルホは早々に目を留めていた。
教練が終わったあと、清馬だけが呼び止められた。
「Tēn, kuse harmo seno sō?」
意味は、かろうじて理解できた。だが清馬は、うまく答えられなかった。言葉がまだ足りない。気の利いた作り話をこの国の言葉で組み立てるには、清馬の語彙はあまりに乏しかった。
前世の清馬なら、ここで淀みなく嘘を並べただろう。もっともらしい生い立ちを、その場で仕立て上げて。だが今はそれができない。冗談で誤魔化すことも、饒舌に煙に巻くことも、言葉の壁が許さなかった。
「Mā…… mā, mā…… harmo……」
言いかけて、続かない。「習ったことはない」と言うにも、そのための言葉を、清馬はまだ持っていなかった。
だから清馬は、黙るしかなかった。
そしてその沈黙こそが、老猟兵の目には何より雄弁に映ったらしい。
ヴィルホは、しばらく清馬の顔を見つめていた。答えられずにいるのか、答えたくないのか。それを見極めるような深い眼差しだった。清馬は下手に取り繕うのをやめ、困ったように眉を下げてみせた。言葉が足りない子供の、精一杯の演技として。
やがてヴィルホは片方の眉を上げただけで、それ以上は追及しなかった。
「……Jē. Hiive.」
老人は清馬の頭に、ごつい手をのせた。
「Tēn, tuori hiive.」
短く言い残し、ヴィルホは去っていった。清馬は小さく息を吐く。危ないところだった。この老人の観察眼は、村の子供たちのそれとは質が違う。言葉が不自由なうちは、下手な嘘より沈黙のほうがまだ安全かもしれない。清馬は内心で警戒を強めた。
同時に、清馬はこの教練に奇妙な物足りなさも覚えていた。木製の模擬銃を構える子供たちの動作は、あくまで「型」を教えるだけのもので、実戦を想定した緊張感には程遠い。それも当然だろう。この国はまだ、清馬が知る戦争の本当の恐ろしさを子供たちに教える段階には至っていない。
――いずれ、そういう時が来る。
漠然とした予感が、胸の奥に小さな影を落とした。豊かすぎる土地。飢えない村。守るために子供にまで銃を握らせる国。それらの断片が指し示す先に、清馬はうっすらとした不穏を感じ取っていた。だが今は、口にする段階でもない。清馬は努めてその考えを頭の隅へ追いやり、目の前の生活に意識を戻した。
*
長かった冬が終わり、短い春を経て夏が来ると、村の景色は一変した。
深い雪に覆われていた大地が、噎せ返るような緑に変わる。空気は湿って重く、汗が背中に張りついた。草いきれと、耳元をかすめる羽虫の音。前世で過ごした日本の夏と、驚くほど似ていた。
そしてその緑を見て、清馬は冬の食卓で感じた違和感の片鱗に触れることになる。
育つのが、速すぎるのだ。
つい先日まで黒い土がのぞいていた畑が、あっという間に緑で埋め尽くされていく。麦が、豆が、根菜の葉が、日に日に丈を伸ばす。清馬の記憶にある作物の育ち方とは、まるで速度が違った。かつて得た乏しい農業知識を総動員しても、この生育の速さには説明がつかない。
理由の一端は、すぐに知れた。
違うところが、一つだけあった。
日が、沈まないのだ。
夜半を過ぎても空の縁は白いままで、薄い水色の光が村の屋根を照らし続けている。清馬は寝台の上で何度か目を覚まし、そのたびに窓の外を見た。何度見ても、慣れなかった。
――ああ、そうか。日が沈まないなら、その分だけ育ちも速い。
理屈は、わかる。植物は光で育つ。その光が夜通し降り注ぐのだ。ならば南の土地より育ちが速いのも道理ではある。
だが――と、清馬は思う。
だが、それにしても速すぎないか。日照が長いだけでここまでの差が出るものか。冬のあの豊かな食卓は、この畑が吐き出すのだろう。短い夏に、この村が一年を食い繋ぎ、なお余りある実りを。日の長さだけでそのすべてが説明できるとは、どうしても思えなかった。
まるで大地そのものが、常軌を逸して肥えているかのように。
――まあ、異世界だしな。
またもその言葉で、清馬は思考に蓋をした。腹の底の澱は、もう小さくない。冬の食卓、多妻の村、養子縁組の軽さ、そしてこの異常な地力。すべてが、同じ方向を指しているような気がする。だが、その方向に何があるのか、今の清馬にはまだ見えない。
見えないものを、無理に見ようとしても仕方がない。清馬はそう自分に言い聞かせた。手札が揃うまでは、澱は澱のまま、腹の底に沈めておけばいい。
「Seima! Vuolela kāve!」
リーナの声が、思考を断ち切った。
村の外れを流れる川は、夏になると子供たちの遊び場になる。エリカは最初こそ乗り気でない素振りを見せていたが、結局は誰よりも早く水辺に足を浸していた。ミーアは岸に腰かけ、皆の様子を眺めながら時折口元をゆるめている。
清馬はその姿を眺めながら、ふと思う。この日々が、いつまで続くのだろうかと。
村での生活は穏やかで、前世の緊張とは無縁の温かさに満ちていた。義理とはいえ家族ができた。妹が三人、父と母が一人ずつ。名前も、居場所ももらった。だが清馬は知っている。穏やかな日常が、いかに脆く、容易く崩れるものかを。
腹の底の澱が、それを静かに告げていた。豊かな土地は、いつか必ず誰かに狙われる。
――だからこそ。
だからこそ、この時間を大切にしようと思った。同時に、いつか来るかもしれない崩壊に静かに備え続けようとも思った。守るべきものが、できてしまったのだから。
沈まない夏の光の下、水しぶきを上げて笑う三姉妹の声を聞きながら、清馬は自分の中に眠る戦士の勘が、まだ死んでいないことを確かめていた。
カレヴィア語、目に痛いですよね。すみません
清馬が完全に習得したら辞めるので、よろしくお願いします。




