第20話 推しを、映画館で浴びる
試写当日の朝は、少しだけ落ち着かなかった。
別に初出勤でも面接でもない。ただ映画を見に行くだけだ。しかも行き先は好きな作品の試写会で、普通なら楽しみだけで終わる話でもある。
でも、今日は少し違った。
部屋の中で配信をつけるのとは違う。ちゃんと外へ出る。時間を合わせて動く。制度の都合もあって、一人でふらっと行って終わり、という感じでもない。そのひとつひとつが、朝から少しだけ肩を固くする。
「……映画見るだけなんだけどな」
口に出して、鏡を見る。
服装は何度か迷った。気合いを入れすぎるのも違う。でも、あんまり適当なのも嫌だ。部屋着のまま始めた配信の日とは真逆で、今日はちゃんと外へ出る人間の格好をしている。
持ち物を確認する。スマホ。財布。必要な案内。連絡画面。そこまでやって、ようやく少し落ち着く。
部屋を出る前に、机の方を見た。
途中まで組んだプラモ。マイク。ライト。棚の上の小物。いつもの配信部屋だ。その中にいる時は普通だったものが、今日は少しだけ遠く見える。
その代わり、今日はその外へ行く。
そう思うと、落ち着かないわりに、悪い気分ではなかった。
待ち合わせ場所に着くと、少しだけ早かった。
朝比奈さんは、俺より少しあとに来た。人混みの中でも見つけやすい。配信の画面越しで見ていた時と同じで、ぱっと見た時の明るさがある。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。すみません、お待たせしてないですか?」
「全然です。むしろ早いですね」
その一言で、少しだけ緊張が抜けた。
外で会うのは、やっぱり少し違う。配信の中でやり取りするのとも、メッセージで事務的に話すのとも違う。今日は実際に隣を歩いて、一緒に会場へ行く。それだけのことなのに、思ったより現実味が強い。
「今日はありがとうございます」
「いえいえ。私も普通に楽しみなので」
さらっと返ってくる。
重くしない。恩着せがましくもしない。でも必要な確認は先に済ませている。そういうところが、朝比奈さんは本当にうまい。
移動しながら、会場の話を軽くする。混み方とか、受付の流れとか、気をつけることとか。話している内容自体はわりと実務なのに、朝比奈さんが言うと妙に空気が固まらない。
制度の都合で、男性一人では気軽ではない外出も、隣に彼女がいるだけでずいぶん違った。
楽だ、と思う。
正確には、一人じゃなくてよかった、が近い。
道中で変に目立つわけじゃない。特別扱いされるわけでもない。でも、そういう小さい気の張り方が、今日は朝比奈さんがいるだけでだいぶ薄くなっていた。
会場に着いて、案内に従って動く。
受付。確認。待機。そういう流れを追いながら、ようやく実感が強くなってくる。
本当に来たんだなと思う。
部屋の中で好きだと騒いでいたものの続きを、今はちゃんと外で受け取りに来ている。
それだけで、少し胸が熱くなる。
「緊張してます?」
朝比奈さんに聞かれて、少しだけ考える。
「してますね。映画見るだけなのに」
「分かります。こういうの、内容の前に空気でちょっと緊張しますよね」
「それです」
すぐに通じるのがありがたかった。
好きな作品の試写だから楽しみ、で終わらない感じ。会場の空気とか、外でちゃんと参加する感じとか、そのへん込みで少しだけ落ち着かない。それを説明しなくても分かってもらえるのは、かなり楽だった。
席について、照明が落ちる。
そこで、もう余計なことは消えた。
始まった、と思った瞬間に、意識が前へ持っていかれる。
大きい画面。暗い空間。腹に来る音。部屋で見る時とは、やっぱり全然違う。同じ作品でも、立ち上がり方が違う。画面の向こうにあるはずのものが、もう少し近いところまで来る感じがした。
息をのむ場面が何度かあった。
音が入る瞬間とか、機体が映るタイミングとか、戦闘の圧とか、そういう一個一個が映画館のサイズで来る。好きなものを見ている、というより、浴びている、の方が近い。
部屋の中で同時視聴した時とは別の興奮だった。
あの時はコメント欄があって、言葉があって、一緒に反応してくれる人がいた。今日は違う。まず画面と音が来る。そのあとで、やっと気持ちが追いつく。
「……すごいな」
たぶん、かなり小さい声で言った。
自分でもほとんど聞こえなかった。でも、それで十分だった。
部屋の中で見ていた時から好きだったものが、映画館ではもう少し容赦なく迫ってくる。その迫力に単純にやられていた。
上映中、何度か隣の気配を意識した。
朝比奈さんは当然しゃべらない。ただ、同じ場面を同じ空間で受けている人が隣にいる、という感覚だけがあった。
一人で見るのでも、たぶん十分すごかったと思う。
でも、隣に同じ方向を向いている相手がいると、少し違う。感情の置き場が増える。今のこれを、終わったあと誰かと共有できる、という予感が最初からある。
それは配信でコメント欄と共有するのとも、また違っていた。
もっと静かで、でもちゃんと人がいる感じだ。
上映が終わって、しばらく席を立てなかった。
照明が戻って、周りが少しずつ動き始めて、それでも体の中にまだ音が残っている。余韻というには少し強い。もう少し、まともな言葉になる前の感覚だった。
「……やばいですね」
先に口に出たのは、それだった。
横で朝比奈さんが少し笑う。
「それは、かなり分かります」
「いや、なんか……思ってたより、ちゃんとやばかったです」
「語彙なくなるやつですね」
「はい」
そこでようやく少し笑えた。
言葉が足りないのに、足りないままで通じる感じがある。それが妙に心地よかった。
会場を出たあと、すぐに詳しい感想を言い合う感じにはならなかった。二人とも少しずつ噛みしめながら、ぽつぽつ話すくらいでちょうどよかった。
「あの場面、ずるくなかったですか」
「ずるかったですね。あれで持っていかれない方が難しいです」
「ですよね……」
そのやり取りだけで、十分だった。
一人で見終わったあととは違う。コメント欄とも違う。ちゃんと同じ場面を見た相手と、同じ温度で少しずつ言葉にしていく感じがある。
推し活って、もっと一人のものだと思っていた時期もあった。
部屋で見る。部屋で作る。部屋で満足する。
それでも十分楽しい。今もそれは変わらない。でも今日は、その先があった。外へ出て、誰かと一緒に見て、同じ熱を受けて帰るところまで含めて、ちゃんと楽しい。
それが、思ったより大きかった。
帰り道、少しだけ足が軽かった。
疲れていないわけじゃない。外へ出るだけで使う力はあるし、会場の空気も独特だったし、上映の熱量で普通に消耗もしている。でも、それ込みで満足感の方が勝っていた。
朝比奈さんと別れる前に、もう一度頭を下げる。
「今日は本当にありがとうございました。かなり助かりました」
「いえいえ。私も楽しかったですし」
その言い方が、いかにも朝比奈さんらしかった。
助けた側と助けられた側、だけで終わらせない。ちゃんと自分も楽しかった側に戻してくる。その距離感が、最後までありがたかった。
一人だったら来られなかったか、少なくとももっと固くなっていただろうな、と思う。
でも今日は違った。
好きなものに届いて、それに手を伸ばして、実際に受け取るところまで行けた。その途中に、ちゃんと頼れる相手もいた。
部屋に帰ってきて、ドアを閉める。
見慣れた空気に戻ったはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。机の上のプラモも、マイクも、ライトも、棚の上の物も、全部そのままだ。
でもその部屋の外で、今日ちゃんと推しを浴びてきた。
同時視聴をして、プラモを作って、試写招待が届いて、朝比奈さんに頼んで、映画館まで行った。その流れをひとつずつ思い返すと、全部が自然につながっている。
暇つぶしみたいに始まった配信の先に、今はこういう日がある。
それはたぶん、かなりいいことだった。
机の前に座って、少しだけ息を吐く。
推し活が、もう部屋の中だけのものではなくなっている。見て、語って、作って、外で浴びて、誰かと共有する。そこまで含めて、今の暮らしの中にちゃんと入っていた。
「……いいな、これ」
素直にそう思った。
ご褒美とか、特別なイベントとか、そういう言い方もできる。でも、今日はそれだけじゃなかった。
好きなものを好きでいられることが、ちゃんと生活の中にある。
それが今の俺には、思っていたよりずっと大きかった。
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