第12話 一杯だけ、付き合ってください
配信を切ったあと、部屋が急に静かになった。
さっきまで声を出していたせいか、余計にそう感じる。机の上にはUSBマイクがそのまま置いてあって、横には見返したメモと、途中でずらした箱が残っている。片付ければいいんだろうけど、今はまだその気になれなかった。
終わった、とは思う。
初案件。たぶん大きな失敗ではなかった。たぶん変な嘘も、そこまで混ぜずに済んだ。そういう意味では無事だったはずなのに、気持ちの方が少し遅れている。
肩のあたりだけ、まだ妙に固い。
「……疲れたな」
言ってみたら、思ったより小さい声だった。
椅子から立って冷蔵庫を開ける。水でも飲んで今日は終わりにするつもりだった。けど、奥に入れていた缶を見つけて手が止まった。
酒に強いわけではない。むしろ弱い方だと思う。飲むとしても、気を抜きたい時に少しだけだ。
一杯だけならいいか、と思った。
本当に、一杯だけ。
つまみになるような立派なものもない。小袋の乾き物と、冷蔵庫の端にあったチーズっぽいものと、昨日買ったまま残っていた惣菜の半分くらい。それで十分だった。
缶を持って机に戻って座る。
このままひとりで飲んでもよかったんだけど、なんとなくそのまま配信ソフトを立ち上げた。
案件のあとだからかもしれない。妙に静かな部屋にひとりでいるより、少しだけ誰かの気配がほしかった。
タイトル欄にカーソルを置いて、少し考える。
深い話をするつもりはない。しんみりもしたくない。打ち上げというほど立派でもない。ただ、ちょっと気が抜けた夜に少しだけ付き合ってもらえたら、そのくらいでいい。
『一杯だけ、付き合ってください』
それで配信をつけた。
【いた】
【二回行動だ】
【今日はそういう日か】
【おつかれ会じゃん】
「こんばんは。いや、こんばんはっていうか……お疲れさまです、ですかね」
【固さが消えた】
【さっきよりだいぶ人間】
【案件終わりの顔してる】
【飲むのか】
「飲みます。と言っても、一杯だけです。そんな強くないんで」
【知ってる】
【強そうではない】
【つまみ何】
【机の上、いつもの感じで安心する】
「机の上は見ないでください。つまみは、そんな大したもんじゃないです。乾き物と、これと……なんか半端に残ってたやつです」
【いつもの湊人飯】
【そういうのでいい】
【今日は豪華じゃなくていい回】
【打ち上げなんてそんなもん】
缶を開ける音がして、自分でも少しだけ気が抜けた。
ひと口飲む。冷えてはいるけど、すごくうまいというより、ようやく終わった感じがした。喉を通ったあとで、肩の力が少し下がる。
「……ああ」
【こういう日の一口は違うな】
【分かる】
【今日はこれでいいやつ】
「いや、ほんとそんな感じです。味がどうこうっていうより、終わったなって感じですね」
コメントの流れも、いつもより少し柔らかかった。
さっきの案件配信の直後だから、みんな空気を分かっているんだと思う。変にいじり倒すでもなく、かといって重くするでもなく、今日はこういう夜なんだな、くらいの距離で見ている。
その感じがありがたかった。
「思ったより、緊張してたみたいです」
【見てて分かった】
【最初ちょっと面接みたいだった】
【声が一段高かった】
【でもちゃんとやってた】
「面接はやめてください。自分でもちょっと固いなとは思ってましたけど」
笑いながら言って、また少し飲む。
案件。たったそれだけで、思っていたより空気が変わった。視聴者の見方が変わるというより、自分の方が勝手に身構えていたんだと思う。
普段みたいに、話がちょっと散ってもいい雑談じゃない。机の上にある物について、ちゃんと説明しないといけない。向こうから預かった物で、しかもそこに金が発生する。そう考えた瞬間、急に姿勢がよくなる感じがあった。
「うまくやれた感じは、あんまりないです」
【初回ならそんなもん】
【いや十分だった】
【変に盛ってなかったの良かった】
【正直で見やすかった】
「そう言ってもらえると助かります。いや、助かるっていうか……ちょっと安心します」
言い直してから、自分でも少し笑った。
今日は、そういう言い直しが多い。
「なんか、うまくやろうとは思ってたんですよ。でも、うまくやろうとしすぎると急に俺じゃなくなる感じもあって。かといって、いつも通り雑にやるのも違うし。そのへんが、ずっと落ち着かなかったですね」
【分かる】
【その揺れ込みで見てた】
【でもあれくらいでよかったと思う】
【案件だけど湊人の配信ではあった】
そのコメントを見て、少しだけ黙る。
案件だけど、湊人の配信ではあった。
そう言われると、じわっと遅れてくるものがある。
うまくやることより、たぶんそっちの方が大事だったんだと思う。見た人にとって広告として完璧かどうかは分からない。でも、いつもの自分から急に別人みたいにならないこと。それは、たぶん守れた。
「金額としては、全然大きいわけじゃないんですけど」
そこまで言って、つまみをひとつ摘んだ。
少し塩気が強い。酒に合わせてるんだろうけど、こういう時じゃないとあんまり食べない味だと思う。
「でも、ゼロじゃないの、変な感じですね」
【あー】
【そこはある】
【初案件の実感ってそこかも】
【分かる】
「自分の言葉に金がつくって、もっと遠い話だと思ってたんですよ。見てる側の話というか。配信で稼ぐ人がいるのは知ってても、自分の机の上で起きる話ではなかったんで」
缶を持ったまま、机の上を見る。
マイク。メモ。開いたままの袋。いつもの部屋のままなのに、そこに今日だけ少し違う意味が乗っている感じがした。
「重かったですね。思ったより」
【だろうな】
【初めてだとそうなる】
【軽い金ではない】
【でもちゃんと越えたな】
「越えた、って言われると大げさですけど……まあ、でも前よりはちょっと違う場所に来た感じはあります」
生活費のことが頭にないわけではない。ないわけではないんだけど、それだけで考えると少し息が詰まる。
今日のこれだって、家賃が全部どうにかなる金額じゃない。食費が一気に楽になるわけでもない。現実的に見れば小さい。かなり小さい。
それでも、小さいから意味がない、でもなかった。
生活の土台そのものを支えるというより、そこから少しだけ先へ出るためのもの。言葉にするとまだ雑だけど、そういう種類の金に見えた。
「なんて言えばいいんだろうな……」
【珍しく考えてる】
【今のは言語化むずい】
【分かるけど言いにくいやつ】
「そうなんですよ。生活費、ってだけで考えるのと、ちょっと違うんですよね。もちろん現実にはそっちもあるんですけど、それだけじゃないというか」
そこでまた少し飲む。
酔うほどではない。頬が少しゆるむくらいだ。でも、そのくらいだから逆にうまく隠せなくなっているのかもしれない。
「前より少し、自分の暮らしに手が届く感じがしたんです」
言ってから、自分でその言葉を反芻した。
暮らしに手が届く。
変な言い方かもしれない。でも、近かった。
生きるだけなら、たぶん今のままでも一応できる。制度もある。最低限の生活は回る。けど、それだけで全部が足りるわけじゃない。好きなものとか、楽しみとか、そういうものまで含めて自分の暮らしだと思うなら、まだ足りないところがある。
今日の金は、その足りないところに少しだけ手を伸ばせる感じがした。
【あー、なるほど】
【生活の延長って感じか】
【分かる気がする】
【ちょっと嬉しいやつだな】
「……そうですね。ちょっと嬉しかったです」
素直に言ったら、コメント欄が少しだけゆるんだ。
【よかったじゃん】
【それは嬉しくていい】
【今日の回で一番いい顔してそう】
【そういう実感は大事】
嬉しい、という言葉を使うのは少し照れくさい。
でも、近かった。不安がゼロになったわけじゃない。むしろ、配信が前より現実になってきたぶん、考えることは増えたと思う。見られ方も、言い方も、何を受けて何を受けないかも。
ただ、その全部をひっくるめても、今日のこれは少し嬉しかった。
「だからまあ……何でもやればいいって感じには、したくないですけどね」
【お】
【そこ大事】
【なんでも案件男にはなるな】
【急に強い】
「いや、別に強くはないです。ただ、金になるなら何でも、ってやると、たぶん俺、どっかで変になる気がするんですよ」
これは、さっきからぼんやり考えていたことだった。
案件はありがたい。金が動くのも現実だ。でも、それだけに引っぱられると、配信そのものの意味までずれていく気がする。
自分がちゃんと話せるもの。自分の生活や感覚から遠すぎないもの。そのくらいの距離でいたい。そうじゃないと、続けるほど苦しくなりそうだった。
「ちゃんと話せるものだけでいい、っていうと、ちょっと贅沢かもしれないですけど。でも俺は、たぶんそのくらいじゃないと続かないです」
【それでいい】
【むしろそこ守ってくれ】
【その方が見る側も楽】
【湊人っぽい】
湊人っぽい、と流れたコメントを見て少しだけ笑う。
自分っぽさなんて、普段はそんなに考えない。でも、配信ではたぶん、それを手放しすぎない方がいいんだろう。
配信を守るために案件をやる、というより。
自分の暮らしの感じとか、好きでいたいものとか、そのへんを変に削らないために、配信の続け方を選ぶ。たぶん順番としてはそっちの方がいい。
缶の中身は、もうだいぶ減っていた。
「一杯だけって言ったので、今日は本当にこのへんで終わります」
【えらい】
【ほんとに一杯だった】
【今日はそれでいい】
【おつかれ】
「はい、お疲れさまでした。付き合ってもらって、ありがとうございます」
最後にそう言って、少し間を置く。
今日の酒は、特別うまかったわけじゃない。
でも、ちゃんと抜けた感じはした。緊張も、少しだけ残っていた固さも、この一杯のあいだにだいぶほどけた。
金額がどうこうというより、受け止め方が少し変わったんだと思う。
配信で金が動く。そういうのがちゃんと自分のところにも来た。で、それが苦しいだけじゃなくて、少し嬉しい話でもあった。
それが分かっただけで、今日は十分だった。
配信を切って、空になった缶を机に置く。
その音は小さかったけど、妙に静かな部屋の中で、きれいに聞こえた。
「……続け方は、自分で決めよう」
口に出すと、さっきよりしっくりきた。
案件も配信も、その先で何を残したいかも。
そのへんだけは、なるべく自分の手の中に置いておきたかった。
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