第二章幕間 『全てを照らせる光になれるように』
――暗い。怖い。寂しい。
『暗夜』に捕まって、取り込まれそうになった時、そんな感情で押し潰されそうになった。
それで、思い出した。凄くイヤで、鍵をかけてた昔の記憶――
* * * * * * * * * * * * *
パパとママは、物心がついた時にはもういなかった。どうしてそうなったのか、理由も、経緯も、何も知らない。
何でそれまで生きてこられたのかさえも、今じゃよくわかんない。
がむしゃらで必死に、でも意味なんてないまま、ただ生きてただけ。
私の世界はいつも暗かった。なのに、私以外の人が暮らしてる場所は、眩しすぎるくらい明るかった。
ヘンなニオイがする路地裏で、腐ってマズいご飯を食べてた。
ボロボロになって捨てられてた大人用のシャツは、たくさん擦り切れて、まともに原型も残ってなかった。
たまに、明るい方から美味しそうなニオイがした。
お腹は空いてた。でも、それを食べられないことは知ってた。お金が無いから。
でも、このイヤなニオイから少しでも遠ざかりたくて、ついつい歩き出してしまっていた。
その結果はいつも同じ。蝿や蛆が集ってる私に、大人たちは汚物を見る目を向ける。
それだけならまだ良かった。酷い時は、お腹や顔を蹴られた挙句、元いた路地裏に放り投げられたりしたから。
大人たちは皆、誰一人違わず、私に同じ仕打ちをした。
だから、その人たちを恨んだりすることはなかった。
きっと、こんな環境に生まれた私が悪いんだって、そう思ってた。
そうやって自分を責めると、少し楽になれた気がした。そして、こうやって意味も無く生き続けてることを、やめられるような気がした。
いつの日だったか、眠れない夜があった。というのも、その日はいつにも増してお腹も減って、喉も乾いて、とにかく不快な日だったから。
いつもなら、大人たちが静かになって、外が完全に真っ暗になる時に眠ってた。
だけど、その日は違った。
――遠い所に……行きたい……
何となく、そう思った。
前が何にも見えなくて、手探りで路地裏を進んだ。
虫の羽音だけがずっとうるさく響いてた。でも、それもすぐに気にならなくなった。
イヤな視線を感じない。風が涼しい。まだ、明るい時の美味しそうなニオイが残ってる。
ここは、大人たちがよく通ってる明るい場所なんだって、直感でわかった。
路地裏から少し抜け出しただけで、こんなに気分がいいなんて知らなかった。
この空気を、ずっと浴びていたい。そう思えるくらい、凄く心地よかった。
――だけど、心の奥底がずっと気持ち悪い。
何かが満たされない。何かが足りない。
お腹も減ってるし、少し寒いけど、それが原因じゃない。
もっと根本的な何かを欲していた。
それで、気づいた。
――いつも、ひとりぼっちだった。
明るい方から、たまに楽しそうな声が聞こえた。
大人たちのじゃない、無邪気な声。
その声を思い出した途端、今まで出したこともない量の涙が溢れ出てきた。
美味しくないご飯を食べても、大人たちに蹴られても、涙なんて出なかったのに。
――なんで……いまさらこんなこと……っ……!
きっとこれから生き続けたとしても、私にそんな機会は絶対に訪れない。それはわかってた。
でも……でも……っ……!
「――こんなじんせい……ぜったいにイヤっ!!」
大人たちの会話を盗み聞きしただけの私が紡げる、最大限の言葉だった。
誰が聞いてるわけでもないのに、精一杯叫んだ。
そうしたら、なんだか少し気が紛れた。私を無視する大人たちが自由に暮らしてる空間で、私が好き勝手に暴れてる。そんな、小さな復讐をしてる気分になれたから。
「わたしだって……しあわせになりたい……っ!」
続けざまに叫んだ。水も全然飲んでなかったから、一回叫ぶだけで喉が凄く痛かったけど、気にならなかった。
あとは何を叫ぼうかな。そうやって考えるのが少し楽しかった。
「えっと……えっと……」
「――ガキのくせに、大層ご立派な夢じゃねえか?」
大きく吸い込んでた息が、全部驚きに変わった。
振り返ると、真っ暗だったはずの視界が、全部水色に照らされてた。
「まあ、俺はそういうガキは嫌いじゃねえがな。ガッハッハッ!」
大きくて、ガラガラしてて、とにかくうるさい声だった。
でも、どうしてかイヤな気はしなかった。
「おい、グアン! お前にライトを預けているんだから、もっと慎重に行動してくれ! 僕は『深夜』でも少しだけ周りが見えるというだけで、少し離れればすぐ見失ってしまうと言っているだろ!」
水色のライトに照らされた二人の大人が、私の視界に映った。
大人は好きじゃなかった。でも、この二人は私の知ってる大人たちとは違う。根拠は無いけど、そんな気がした。
「ガキのおもしれー声が聞こえたんだぞ〜? 急がねえわけにはいかねえだろうよ。それに、ハクヤ。お前に限ってそんなヘマありえねえだろ?」
「全面的に信頼を置いてくれているのは嬉しいが、そういう話をしているんじゃない。とりあえず、今はこの子の保護だな。孤児か家出か……どう見ても前者だな」
「あ、あの……」
難しい言葉ばかりで、大人たちの会話についていけなかった。
すると、グアンと呼ばれていた片方の大人が、ライトをもう一人に一方的に押し付けた。
そして、蝿と蛆と汚れだらけの私を、何の躊躇いもなく豪快に抱き上げた。
「――こいつぁ俺が面倒見る。お前んとこ、もう少しで双子が産まれんだろ? だったら適任は俺だ」
水色の光が照らすこの人の瞳は、真っ直ぐ私を見てた。それだけなのに、心が凄く軽くなった。
「そんな勝手な……この子の親を探してもいないというのに……」
「――ガキをこんな状態になるまで放置する奴を、お前は『親』だって呼べんのか?」
「……いや、呼べないな。なら急ごう。あまりのんびり話もしていられない。アレが来るぞ――」
それからのことは、よく覚えてない。
多分、疲れきって寝ちゃった私を、この人たちが運んでくれたんだと思う。
次に思い出せた記憶は、ヨサメさんという人が、私の身体を洗って、少し大きな服を着せてくれた後だった。
「パパ……と……ママ……?」
「ああ。今日からお前は俺たちの娘、家族だ。不満でもあるか? ガッハッハッ!」
「いい……の? わたし……」
「もちろんよ。これからは、美味しいものをたくさん食べて、綺麗な服もたくさん着て、普通に生きていいの」
わからなかった。
きっと、凄く嬉しいことだった。なのに、わからなかった。
まともな食事もしたことがない私に、まともな服も着たことがない私に、急に訪れた転機。
それを、ただ受け入れてしまっていいのかわからなかった。
どうしてこの人たちが、私を受け入れてくれるのかわからなかった。
「しっかしなあ〜。ヒカリを養うのに賛成してくれたのはいいんだが、家計は本当に大丈夫なのか?」
「そのことなんだけど、私いいことを思いついたのよ。ほら、ここの土地って無駄に広いでしょう? だから、菜園でも始めてみようかしらと思って!」
知らない言葉。でも、確かに呼ばれた気がした。
私の、名前――
「ヒカリ……?」
「ん? ああ、お前の名前だ。気に入らなかったか?」
「ん〜ん! でも、なんで?」
「なんでって……由来ってことか?」
私は大きく頷いて答えを待った。でも、パパは頭を抱えて、凄く困ってたみたいだった。
「……忘れちまったな」
それだけ言って、パパは足早にどこかに行った。
その後ろ姿を、ママはくすくすと笑ってた。
「――人も、街も、世界も……全てを照らせる光になれるように……」
「はえ?」
「あなたの名前の由来よ。パパがそう言ってたわ」
「すべてをてらせる……ヒカリ……」
* * * * * * * * * * * * *
それが、私が『ヒカリ』として生まれた日。
好きなことをたくさんやって、悔いの無いように生きようって決めた日。
今になって、あの日路地裏から飛び出した時が『深夜』だったってことに気づいた。
私の人生は、本当ならそこで終わってたはずだったんだ。
だけど、パパとハクヤさんが助けてくれたから、私はこうして生きている。
この二人にお礼を言うことは、もうできないけど……
――でも、今は違う。
ママから私を助けてくれた人。『暗夜』に捕まった私を助けてくれた人。
私のいちばん大切な人は、まだ私の傍にいる。
まあ、今は疲れちゃったのか、私の膝枕で寝てるけど……
でも、だから丁度いいの。今から言うこと聞かれたら、ちょっぴり恥ずかしいから……
「私は……ミズカに……みんなに出逢えたから、こうやって生きてるよ! すっごく幸せだよ!」
小さい頃の私はきっと、嬉しい時にも涙が出るなんて、知らなかっただろうな……
それもこれも全部、ミズカが……みんなが教えてくれたことだよ。
「ねえ、ミズカ。私、これからもミズカの傍にいていいかな……?」
……って、あれ?
「な、何言ってんだろ私。なんかヘンなこと聞いてる気がする……。私の生き方は私が決めるんでしょ!? なのに何でこんなこと聞いちゃったんだろ……顔も身体もなんか凄い熱いし……そ、そうだ! あの『太陽』のせいだ! きっとそうだ! で、でも……!」
ミズカの手をこっそり握ってみると、やっぱりそうだってわかった。
「心が凄く暖かくて……ぽかぽかしてるのは……ミズカのせいだもん」
パパの言ってたような、『人も、街も、世界も……全てを照らせる光』なんかには、きっとまだ程遠いけど……
少なくとも、『私が大好きな人達を照らせる光』くらいには近付けたかな。
「……うぅ……ん……」
何の声かと思ったら、ミズカの顔が何だか凄く苦しそうだった。
悪い夢でも見てるのかな?
「うなされてる……?」
「……えっ……!?」
飛び起きたミズカは、私のことを幻でも見るような目で見てた。
その顔が、なんだかとっても面白くて笑っちゃった。
……あっ、そうだ! 昔パパが教えてくれたおとぎ話に、朝起きた時の挨拶があった気がする!
「あはっ! 何その反応! でも……」
えっと……思い出した!!
「――おはよう。ミズカ」




