幻影の迷宮 —小悪魔の囁き—
横浜の海風に吹かれたあの日から、数日が過ぎた。
窓の外を流れる景色はいつもと同じはずなのに、
僕の目に映る世界は、まるで色褪せた古い映画のようだ。
「……やっぱり、幻でも彼女はかわいかったな」
独りごちる声が、虚空に溶ける。
あんなにも無邪気に、太陽のように笑っていた彼女。
その満面の笑みの裏側に、
誰にも踏み込ませない冷たい深淵が横たわっているなんて、
今はまだ想像したくない。
出会っているあの瞬間、
僕を真っ直ぐに見つめるあの瞳こそが、
彼女のすべてなのだ……
そう自分に言い聞かせ、胸の震えを抑えるしかなかった。
日常が、音を立てて崩れていく。
平凡だが、決して不満のある人生ではなかったはずだ。
愛する妻がいて、娘がいて。
安定という名の穏やかな川を流れていたはずだった。
ただ、ほんの少しの「刺激」が欲しかっただけなのだ。
掲示板という名のパンドラの箱を開け、
彼女……「〇〇ちゃん」に出会ってしまうまでは。
「もう、私は戻れない」
鏡に映る自分は、
見たこともないほど惨めに歪んでいる。
家族を裏切り、虚像の恋に身を焦がす自分は、
救いようのない愚か者だろう。
それでも、止まらない。
恋心とは、なんと残酷な劇薬なのだろうか。
〇〇ちゃんの笑顔で、
頭の中の余白はすべて埋め尽くされている。
そこにあるのは、底知れない虚しさと、
胸を焼き尽くすような排他的な熱。
「日常」と「狂気」がぶつかり合い、
僕の中の境界線はドロドロのぐちゃぐちゃに溶けていた。
その時だ。
スマホが、微かに、でも鋭く震えた。
『おはよ。今から通話していい?』
心臓が、跳ねる。
指先の震えを隠すように、
「待ってる」とだけ打ち返した。
数秒後、スマホから響いてきたのは、
低くて、それでいて鼓膜を心地よく震わせる、
〇〇ちゃんのよく通る声だった。
「……なにしてたの?」
少しだけ弾んだ、甘い声。
僕は掠れた声を絞り出す。
「〇〇ちゃんのこと……ずっと、考えてたよ」
「……っ、ふふっ。うれしいな♪」
スマホ越しでも、〇〇ちゃんが悪戯
っぽく微笑む気配が伝わってくる。
その屈託のなさが、
僕の心に鋭いナイフを突き立てる。
「……どうしたの、急に?」
「うん、えへへ……。声、
聞きたかっただけだよ。ただ、それだけっ」
あ……。
絶望的なまでに、小悪魔だ。
絶対に、僕の心が今どんな状態か分かっていてかけてきている。
僕を翻弄し、自分なしではいられないように
追い詰めていると分かって、その声を届けているのだ。
それでも。
たとえ地獄への招待状だとしても、
僕は心の底から嬉しかった。
あいの声を一言聞いただけで、
積み上げてきた理性が粉々に砕け散り、
どうしようもない渇望が突き上げてくる。
「よかった♪ 元気な声聞けて」
〇〇ちゃんの声が、さらに一段と弾む。
「また、デートしようね♪
今度はどこ行くか、あいが考えとくね。
またLINEする。……じゃあねっ!」
プツッ、という無機質な切断音。
スマホは元の冷たい板に戻り、
部屋には再び、重苦しい静寂が降りてくる。
〇〇ちゃんは、僕をあんなにも激しくかき乱しておきながら、
風のように去っていった。
僕はただ、熱を失い始めたスマホを握りしめ、
二度と戻れない日常の淵で、呆然と立ち尽くすしかなかった。




