第61話
『大規模な設備更改は現在の当家の財政事情に視て一旦凍結。当面は現状維持に努めよ』
「……は? 何ですか、これは?」
マッシュは執務室で男爵の正式な印が押された決裁通知を手に取り、震える声を吐き出した。
「見ての通りだよ。先週私たちが提出した設備計画は否決された」
目の前の若い上司は、三か月かけ腐心して練った提案が否決されたというのに憎らしいほど平然としている。
──ドンッ!!
「どうして落ち着いているんですか!?」
そのあまりに落ち着き払った態度に、反射的にマッシュは激昂し、気づいた時には机を殴りつけてレゼルヴに詰め寄っていた。
「あんなに反応が良かったのに、どうしてこんな──それに『財政事情に視て一旦凍結』? 投資計画は当家の財政を踏まえて余裕を持ったものとなっていましたし、資料でもそのことはきちんと示していた筈です! 何かの間違いか、そうでなければ他の話と勘違いしてるとしか考えられません!」
マッシュの言葉に、執務室のソファーに寝転がっていたメルが失笑を漏らす。
「プッ。他の話? 碌な文官もいないこの家に、他の話なんてある訳ないでしょ」
「──(キッ)!」
「おっと、失礼」
その言葉にマッシュが射るような視線で睨みつけると、メルはまるで悪いと思っていない態度で首を竦めて謝罪した。
腹立たしくはあるが今彼女の相手をしても仕方がない。マッシュは改めてレゼルヴに向き直り──
「間違いではないよ。念のため、私も母上に確認した」
「!?」
「提出した投資計画の話もした。ただアレはあくまで現時点での経済見通しがベースになっている。帝国が攻勢を強めつつある中、今後さらに情勢が悪化すれば国内の金利や物価上昇リスクも考慮しなければならない。建て替えを始めたはいいが、途中で工事が中止になりましたじゃ笑い話にもならないからね。大規模な設備投資は避けて一旦様子を見たいという言い分は……まぁ分からないでもない」
否決の理由を聞きながら、マッシュはレゼルヴの他人事のような態度に苛立ちを隠せなかった。
──何のために苦労して計画を作ったと思ってるんだ! この土地を蛮族共の侵攻から守る為じゃなかったのか!?
唾を飛ばして怒鳴りつけそうになる衝動を寸でのところで堪え、マッシュは更に言い募る。
「……帝国が攻勢を強めつつある今だからこそ防衛体制の見直しが必要なのでしょう。それに設備投資は中長期的な話である以上、その手の金利や物価リスクは避けられません。様子を見たところで今より状況が良くなる見込みがないのであれば、むしろ今長期の契約を結んでしまった方がトータルコストは抑えられるのではありませんか?」
「君の意見は正しい。だがその長期契約の為には相当額の借り入れが必要となるわけだけど、借入計画の責任者は母上なんだ」
「だから何ですか!? オルデン男爵家は王国の盾。防衛の為に必要な支援であれば王家や辺境伯は拒めない筈だ!! 今、御屋形様たちが辺境伯の軍を支援するために度々領地を離れていることは私も知っています! その穴埋めのため投資だと言えば辺境伯も──」
「マッシュ。帝国が攻勢を強めつつあるこの状況で、辺境伯も決して余裕があるわけじゃあないんだ」
興奮する部下を宥めるように、レゼルヴはあくまで落ち着いた声音で続けた。
「確かに今回の一件でウチは辺境伯に貸しを作った。既にいくらかの便宜は図ってもらったとはいえ、こちらが理を以って頼めば辺境伯も嫌とは言わないだろう。だが辺境伯に対するカードをここで切るか否かは単なる損得を超えた高度に政治的な駆け引きだ。私たちがそれを口にするのは越権行為だよ」
「……っ!」
悔しそうに奥歯を噛みしめ俯くマッシュ。
「今回の提案は否決されたけど、これはあくまで判断の見送りだ。計画そのものが否定されたわけじゃあない。ウチが現在抱えている問題を上に認識させるって意味では間違いなくやった価値があったし、分析や提案内容そのものは父上も母上も高く評価して下さっていた。特に君が出してくれた概算見積もりは今後計画がどうなるにせよ必ず必要になるものだから無駄にはならないさ」
「…………」
「それに全く何も手を付けないわけじゃあない。監視用の櫓の増設については父上とアハスが乗り気でね。こちらは多分、別途予算をつけて話を進めることになりそう──」
──バンッ!
これ以上話を聞きたくないと言うように、マッシュが否決の稟議をレゼルヴの机に叩きつけ、言葉を遮る。
根が真面目なマッシュは直ぐに『やってしまった……』と後悔の色を顔に浮かべるが、それでやってしまったことを取り消せるわけでもない。
「……次の派遣に備えて保存食の発注手続きをしてきます」
結局彼は無理くり理由をひねり出し、逃げるようにレゼルヴの前から踵を返した。
「──マッシュ」
「!」
呼び止められ、ドアノブに手をかけた状態で身体をビクリと震わせ動きを止める。
「明後日は私と一緒にヴァイスベルクに出張だ。ついでに健康診断も予約してるから、忘れないようにね」
「……失礼します!」
──バタン!
マッシュが去った後の執務室で。
「あ~あ、頑張ってたのに、嘘吐きな上司を持ってかわいそう~」
「失礼だな。私は別に嘘なんて──」
「ヴァイスベルクは例のプロジェクトのお陰で税収が右肩上がりだって噂なのに、余裕がないってどういうことですかね~?」
「…………まぁ、そこはあれだよ。今後の情勢の変化によっては、ってやつさ」
メルはクスクスと意地の悪い笑いをこぼした後、少しだけ真面目なトーンで尋ねた。
「……実際のところは、どうなりそうなんですか?」
「そうだね……」
レゼルヴは少しだけ考えるように間をとり、それに答える。
「多分、若干のアレンジを加えた上で、二、三年ぐらい時間を空けて、ってとこじゃないかな?」
「ふ~ん……それ、大丈夫なんです?」
「それは時期? それとも人?」
「時期は今更言っても仕方ないでしょ」
「人はマッシュがいるだろう? 実行に関しては彼がいればお釣りがくるよ」
「ああ……」
予想していた通り短い付き合いだったな、とメルは静かに微笑んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「えっと、人違いでは……?」
レゼルヴの出張に付き合わされヴァイスベルクを訪れたマッシュは、午前中いっぱいを商人や職人たちとの交渉、あいさつ回りに費やし、午後からは学院で仕事があるというレゼルヴと別れて健康診断に向かっていた。
指定された会場は知識神神殿の敷地内に新設された治療院。最近噂になっている医療プロジェクトの成果を取り入れた最新の施設らしく、医師・薬師・魔術師・僧侶たちの技術を結集した王都にもない最新の治療を受けられると評判だった。
『そんな凄い施設に何故自分が?』とは思ったが、どうやらレゼルヴはこの施設の責任者と伝手があり、将来的にはオルデン領にもこのスキームを導入できないかと考えているらしい。マッシュが今回ここで健康診断を受けることになったのはその一環で、後から感想を聞かせて欲しいと伝えられていた。
そうした事情があったため、健康診断という無味乾燥なイベントではあれ、一体どんな体験ができるのだろうとマッシュは若干浮ついた心持ちでその治療院に向かったわけだが──
「? 貴方、オルデン領のマッシュさんでしょ? レゼの部下で、健康診断を受けに来た」
「え、ええ。それは、そうなんですが……」
「じゃあ間違いじゃないわ」
治療院を訪れたマッシュを出迎えたのは、一目見て貴人と分かる美しい女性だった。
肩のあたりで金色の髪を切り揃えた、真珠のような肌とスラリと伸びた手足が印象的な美女。活動的なパンツルックに身を包んではいたが、その気品は隠しきれるものではない。
「いや、でも……」
まさかこんな貴人に出迎えられるとは想像だにしておらず、マッシュは目を覆わんばかりに狼狽する。
この女性の美しさの前では、豪華な治療院の設備の感動など一瞬で頭から吹き飛んでしまった。
何かの間違いだとは思うが、女性は確かに自分と上司の名前を口にしている。
──いや待て。レゼって何だ? 何であの小僧、この方からそんな親し気に──
「ねぇ。いつまで固まってるの? 予定が詰まってるから早くしてほしいんだけど」
「は、はい! ただいま!!」
女性の不機嫌な──実際には微かに呆れが混じった程度──呼びかけに、マッシュはピンと背筋を伸ばし、慌てて女性の方へと駆け寄った。
そして言われるがまま奥の部屋に案内され、椅子に座らされる。
そこは診察室というにはあまりに豪華で、サロンだと言われた方がまだ納得できる空間だった。
──何だ、ここ……?
案内役の女性が姿を消し、しばしガチガチに緊張して待っていると、シスターと思しき女性がお茶を運んできた。
その嗅いだ事の無い香りと見たこともない豪華なカップに、マッシュはやはりこれは人違いに違いないと確信し、慌てて立ち上がり逃亡しようと──
「何をしている?」
「はいっ!? ちちち違うんです!!」
現れたのは格調高い僧衣を身に纏った若い金髪の美丈夫だった。彼を呼びに行っていたのだろう、その横には案内役の女性の姿もある。
不機嫌そうな男の声音にマッシュは心臓を縮み上がらせ、声を震わせながら弁解した。
「わた、私は決して騙そうとしたわけではなくてその──」
「? 何を言っているのだ貴様は?」
「あ~、気にしないで。多分、レゼの説明不足──いや、ワザと説明しなかったのかな?」
噛み合わない会話。
「ととととにかくこれは何かの間違いで──」
「黙れ。座れ」
「──……はい」
マッシュはとにかく場違いなこの場所から逃げ出そうとワタワタ手足を震わせるが、人に命令することに慣れた男の声がそれを制止した。
ストンと再び椅子に腰を下ろしたマッシュに、続けざまに命令が加えられる。
「ともかくその茶を飲め。話はそれからだ」
「えと、私お金はあまり持っていなくて……」
「……貴様、私が貧乏人から金を巻き上げるような費用対効果に見合わん行動をとる愚鈍な人間に見えるのか?」
「ひっ!?」
睨まれ、再びすくみ上る。
──ドスッ!
「脅かすんじゃないわよ」
「ぐっ! 高貴な私の頭を殴るな!」
割としっかりとした力で殴られて抗議する男を無視して、女性は愛想の良い笑みを浮かべてマッシュに語り掛けた。
「怖がらせてごめんね~? 費用はレゼに貰ってあるから気にしなくていいわ。この街でオルデン家の人に喧嘩売る馬鹿なんていないし、後から騙してお金巻き上げるようなことはないから安心して」
「は、はぁ……」
「ささ。とにかくお茶が冷めちゃうから飲んで飲んで」
「…………」
繰り返し促され、マッシュはお茶一杯なら最悪自分の手持ちでも何とかなるかと覚悟を決め、カップに口をつける。
後からレゼルヴに文句を言ってやろうと心に決めつつ、飲んだことのないお茶の風味を堪能する、と──
「…………?」
あれ?──自分は一体何に怯えていたのだろうと首を傾げた。




