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第22話 流刑の島

 漁船での航海は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。  

 日が落ちた瞬間、海面はどろりと黒い油のように変質し、そこから数え切れないほどの土色の腕が這い上がってきた。

 娘たちの細い手首や足首を、品定めするように執拗に絡め取る指。


「嫌ぁぁっ! 離して、離してよ!」  

 娘たちが悲鳴を上げる。母親たちは半狂乱になり、その腕を振り払おうと何度も手を伸ばした。 

 しかし、彼女たちの手は虚しく空を切り、冷たい霧を掴むかのように霊体をすり抜けてしまう。 「嘘……触れない!? ユイ、しっかりして! 離さないで!」  

 母親たちにできるのは、娘の体を必死に抱き締め、力任せに引き戻そうとすることだけだった。だが、海中から伸びる指は、見かけによらず冷たい鉄杭のように固定され、どれほど母親たちが力を込めて引っ張っても、娘の体は一ミリも動かない。

 むしろ、その細い肢体はジリジリと舷側の向こう、暗い海面へと引き摺り込まれていく。


「夫がいなければ、この子は終わる」  

 母親たちは、自分たちの絶望的な無力さと直面しているもののあまりの重さを、震える体で実感していた。


「どけぇッ! 娘に触るな!」  

 そこへ義明の咆哮が響く。

 彼が全体重を乗せた拳を、霊体の腕目掛けて叩き込む。  

――ドォォン!!  

 気合一閃。

 その一撃で五本目の腕が砕け散り、ガラスのように霧散した。

 ようやく自由になった娘を、父親たちが間一髪で甲板へと引き戻す。

 しかし、倒しても倒しても、海からは新たな腕が、今度は妻を、あるいは別の娘を狙って際限なく伸びてくるのだった。


 船長の鉄は、自分には見えないはずの「何か」と死闘を繰り広げる一行の姿に、極限の恐怖を感じていた。

(これは精神異常じゃねえ……。旦那たちは、本当に、とんでもねえ『何か』とやり合ってやがる!)  


 五百旗頭いおきべが呪符を振り翳し、十八枚目の札が灰となったとき、「……もう品切れだ」と苦い呟きが漏れた。    

 水平線がようやく白み始めると、亡霊たちは潮が引くように一斉に海中へと沈んでいった。

 ようやく現れた黒い島影――神無島。

 一行はボロボロになりながら、島の一軒の民宿へと這うように辿り着いた。


「お父さん方は、今のうちに寝てください。夜になれば、また文字通りの死闘になる」  

 五百旗頭(いおきべ)の冷徹な指示が飛ぶ。

 特に消耗の激しい義明に対し、彼は「あなたは体力の回復に努めてくれ。その拳が唯一の希望だ」と念を押した。  

 

 部屋の四隅を囲うように、五百旗頭が黒いしめ縄を張り巡らせる。

 その縄には、古びた、しかし禍々しいほどに鋭い白い文字が書かれた護符が等間隔で編み込まれていた。

「これは、とっておきだ。この結界の内側は、現世と幽世かくりよの波長を強制的に断絶させている。奴らには、この部屋に干渉出来なくなるはずだ」

 五百旗頭は、指先で縄の感触を確かめながら、静かに、しかし残酷な事実を付け加えた。

「……だが、これはあくまで『一時的な措置』に過ぎない。夜になれば、また、やつらがこの部屋へ圧力をかけてくるだろう。そうなれば、この縄は奴らの圧力に耐えきれず、一瞬で崩壊する。……しかし、日が昇っている今の時間なら有効だ。陽が落ちるまでの数時間、ゆっくりと休めるだろう」


 五百旗頭の言葉の通り、部屋は全く怨霊の声も聞こえない一時的な静寂に包まれた。


 午後三時。

 枕元を洗うような不気味な波の音の中、三人の少女は久しぶりに「正気」を取り戻し、肩を寄せ合っていた。

「……ねえ。ルリルリ、あの話、本当なんだよね」  

 ユイが膝を抱え、掠れた声で漏らす。

 資料室で知った、十歳と十三歳の少女たちの過酷な運命。

「つらいよね……。私たちと変わらないのに。お父さんの目の前で……」  

みなみんが自分の足首に残る紫色の指跡を見つめ、涙をこぼした。

「謝って済むことじゃない。でも……知っちゃったから。あの子たちの苦しみを。……ごめんなさい。あの日、あんなふざけた写真を撮らなければ」  

 それは恐怖から逃れるための命乞いではなく、同じ年頃の少女として、凄惨な過去に触れてしまった純粋な哀悼だった。

 しかし、カーテンの影で揺れる黒い影は、その言葉を嘲笑うかのように殺意を研ぎ澄ましている。


 そこへ、インターネットで地域の伝承を補完していた母親たちが戻ってきた。

「分かったわ……すべて繋がった」  

 母親たちが持ってきた報告は、想像を絶するものだった。  

 一つは党首の最期。

 彼は流刑後、生きたまま空井戸に放り込まれ、紐で縛られ、野晒しのまま「強制的に即身仏」にさせられたという。

 いわば生きたまま埋められたのだ。  

 もう一つは、その井戸から離れた場所に家族三人の「首だけ」を葬ったとされる墓が存在すること。

「家族の首と自分は縛られて即身仏……島の中でも、この家族は別々に引き裂かれたままなのよ。あの子たちの首は、今もあのお墓の中に……」


 緊迫した空気の中、部屋の扉が控えめにノックされた。  

 入ってきたのは、一人の若い男だった。

 整った顔立ちだが、その眼光には三人の父親たちと同じ「極限の緊張」が宿っている。

「……突然失礼します。住職から紹介されて来ました。私はこの島の駐在、神代かみしろ 蓮と申します」


 神代は帽子を取り、居住まいを正した。

「私の先祖も鳳党との因縁がありまして……代々、何かがあればこの島へ赴くよう言い伝えられてきました。二週間前、急な欠員で私が異動してきたのも、偶然ではないと思っています。……そして、申し訳ありませんが廊下でお話を立ち聞きさせていただきました」  

 神代は少女たちを一瞥し、静かに告げた。

「私にも、皆さんと同じものが見えています」


「え……駐在さんにまで? どうやって、この異常な状況に耐えているんだ?」  

 義明が驚きと共に問いかける。

 神代は自嘲気味に、しかし力強く笑った。

「耐えられませんよ。いつ気が狂うか分からない。……ですがね、寝ている時に奴らが出たら、拳を固めて殴りつけるんです。そうすれば、数日間は消える。幼少期からそれを繰り返してきました」  

 神代はチラリと義明を見た。

「……どうやら、殴れるのは私だけではないようですね」


 新たな「戦える大人」の登場に、父親たちの間にわずかな希望が灯る。

 五百旗頭はカバンの中の水晶玉を強く握りしめた。

「……役者は揃ったな。明日、井戸の石碑と首の墓、その両方を調べる」


 神代は「駐在所を空にするわけにはいかない」と、夕闇が迫る前に戻っていった。  

 呪われた離島の、本当の最後の夜が始まろうとしていた。

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