第21話 新種の多本足生物
一行を乗せたバスがたどり着いたのは、寂れ果てた小さな漁港――静ヶ浦だった。
そこは、観光客が足を踏み入れるような陽気な海辺とは程遠かった。
潮風に錆びついたトタン屋根の小屋が並び、コンクリートの岸壁は、まるで死者の墓標のように冷たく濁った海へと突き刺さっている。生臭い魚の腐敗臭と、澱んだ潮の匂いが鼻をついた。
波打ち際で待ち構えていたのは、側面の窓を分厚い鉄板で塞いだ、無骨で不気味な大型漁船だった。
その脇に立ち、全身から異様な潮の匂いを漂わせているのは、顔に鋭い傷痕のある屈強な漁師だった。
「……健三の旦那。これか? 今回連れてきたのは」
漁師は、父親たちに抱きかかえられ、怯えた目で周囲を見回す少女たちを一瞥し、不機嫌そうに眉をひそめた。
その剥き出しの野性味と底知れない眼光の鋭さに、少女たちは一層身を縮こまらせ、父親たちの背中に顔を深く埋める。
「ああ……すまないが、途中で何があっても、何を聞いても、俺たちをあの島へ降ろすまで振り返らず、余計なことは言うな。……分かっているな、鉄」
健三が弁護士としての冷徹な鋭さを宿した表情で念を押すと、鉄と呼ばれた漁師は、不敵な笑みを浮かべた。
その捲り上げたTシャツの袖からは、まるで長袖の服を着ているかのような、緻密で毒々しい和彫りの刺青が禍々しくのぞいている。
「……旦那の頼みだ。命に代えても舵は離さねぇよ。心配すんな、他の野郎なら積めるだけ金を積ませるところだが、俺は旦那から金を取るなんてことは絶対にできねぇ。帰りも連絡をくれりゃあ、たとえどんな大嵐だろうが真っ先に迎えに行ってやるぜ」
しかし、いざ船に乗り込もうとしたその時、最大の難関が立ち塞がった。
「嫌……! 海の底に、何かいる! 私、あんなところに行きたくない!」
瑠璃が桟橋の木の柵にしがみつき、絶叫するように泣き叫んだ。
ユイもまた、血の気のない青白い顔で両足がすくみ、誠一がなだめすかして抱きかかえようとしても、「手が、足が……たくさんの首が、海面からこっちを見上げてるの……!」と、ひきつった声をあげる。
そんな阿鼻叫喚の修羅場の中で、みなみだけは少し様子が違っていた。
彼女は恐怖で震えながらも、義明の右腰にまるでコアラのようにがっしりとしがみつき、一瞬たりとも離れようとしなかった。
「みなみ、大丈夫だ。パパがしっかり抱っこしてやるから……」
「ダメ! それじゃ全然足りないの! 私、お父さんのベルトの一部になるの! 誰にもお父さんを渡さないし、私も絶対に離れないんだから!」
みなみは義明のウエストに両腕を回し、顔を背中に押し付けたまま、目をぎゅっと固く瞑っている。
「これじゃあ足が引っかかって、まともに歩けないんだが……」
困り果ててため息をつく義明だったが、娘のあまりにも必死すぎる独占欲に、殺伐とした緊迫感の中にわずかな苦笑が漏れた。
「……ふふ、守屋さんのところは、本当に……お父さんが絶対的なヒーローなのね」
その微笑ましい光景に、張り詰めていた大人たちの空気が一瞬だけ緩んだ。
だが、次の瞬間、周囲は言葉を失うことになった。
なんと、恐怖で泣き叫んでいたはずのルリとユイまでが、いつの間にか義明の背中や反対側の腰にしがみつき、ゾロゾロと一塊になって乗船しようとし始めたのだ。
まるで新種の多本足の生き物のように、屈強な義明の体に三人の少女が鈴なりにぶら下がっている。
「ちょっとルリ、もっとしっかり詰めてよ、落ちちゃう!」
「ユイだって、みなみんが真ん中すぎて隙間がないし……みなみん!わざと肩張ってるでしょ? イジワルしないでよ!」
「私のお父さんなんだから、離れなよ……! 自分のお父さんにくっついてればいいでしょ!」
船のタラップの上で、少女たちが義明の衣服を引っ張り合いながら、なぜかキャッキャと小競り合いを始める。
先ほどまでの絶望的な泣き声が嘘のように、娘たちが元気に口喧嘩を始めた姿に、大人たちは呆気にとられ、ポカンと口を開けたまま固まっていた。
やがて、少しだけ緊張の解けた恵がクスリと笑い声を漏らし、「まあ、元気があるのは良いことだわ……」と呟いたことで、ようやく一同も強張った肩の力を抜いたのだった。
エンジンが重苦しい爆音を響かせ、船が静ヶ浦の岸壁を離れていく。
陸地が徐々に遠ざかり、周囲を振り返れば、そこにはどこまでも続く360度の海――一切の逃げ場のない「水」の絶望的な世界が広がっていた。
重く低いエンジン音が耳をつんざく中、不安に耐えかねた美奈代が、操舵席に立つ漁師の背中へと歩み寄った。
「……船長さん、あの、一つだけ聞いてもいいかしら」
「ああん? 何だい、美人ママさん。もう船酔いか?」
「海の中に……変なもの、見えませんか? 何というか、この船の周りをもの凄い数で泳いでいるような……」
「はあ? 何言ってんだ、目でも回ったか。何もいねえよ。今の時期はこの辺、魚影すらまばらだ。心配すんな、ここは俺の庭だ。魚以外出やしねえよ」
漁師は豪快に笑い飛ばしたが、その言葉を聞いた瞬間、一行は背筋が凍るような絶望的な確信を得た。
――自分たちにしか、見えていない。
この海の異常さは、彼らにしか認知できない領域なのだと。
「いやだ、いやだ……お父さん! 海の中に、すごい数がいる……!」
ユイが船底を激しく指差して、再び悲鳴を上げた。
「首が……首のないお侍たちが、私たちの船を真下から引っ張ってる! お父さん、お願い、私から手を離さないで!!」
海面下。
一般の人間が見れば、ただの太陽光が反射する青黒い水面にしか見えないその場所には、恐るべき光景が広がっていた。
船影が作る不気味な暗がりや、波のうねりの合間から、あの水死体のような白い肌の少女たちと、首の断面がグロテスクに黒く爛れた幕末の侍の亡霊たちが、無数に這い出してきていた。
奴らはうごめく泥の手で船体に群がり、スクリューの回転を止めようと絡みつき、冷たい白い指先で船の底をビタビタと狂おしく叩き続けている。
「大丈夫だユイ。……父さんがついている。絶対に離さないから安心しろ」
「何だぁ……船足がおせぇな……異常はねぇ……。まぁ、いっか。魚を獲る訳でもあるめぇしな……。おお、そうだ、旦那に言われた窓を塞ぐ鉄板が重いのか、旦那も何だって、鉄板なんかつけるのかね」
船長のつぶやきは潮に消えて誰にも聞こえない。
誠一は、かつて趣味の狩猟で鍛え上げた力強い腕で、恐怖に震える娘の体を自分の胸にしっかりと固定するように、痛いほど強く抱きしめた。
船は、呪われた海原の真ん中を、確実に出口のない深淵へと進んでいく。




