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第20話 処刑人

 一行は夜の高速を走り続けることを断念した。 

 五百旗頭いおきべの強い進言によるものだ。

「夜の移動は奴らの土俵だ。バスの中で、昨日のアレと戦えるか?絶対に全滅する。今夜は、全員で一緒に泊まれるところで休憩する」


 健三がもはや出費など度外視した手配で、高級ホテルにあるサービスアパートメント・レジデンスを三部屋、ぶち抜きで確保した。

 そこは地上二百メートル。

 堅牢なセキュリティと圧倒的な高さによって、下界の湿った土から物理的に切り離された天空の要塞だった。

 少なくとも『地面から伸びた腕』が届きにくい部屋を確保したのだ。


「健三さん、すまん……。絶対に支払いは後日にさせてくれ」  

 誠一が絞り出すように言うと、隣で恵も「うちももちろんよ。本当にごめんなさい」と言葉を続けた。    

 健三は疲弊した顔に微かな笑みを浮かべ、「気にしないでください。そういう話はすべて解決してから、三家族でのホームパーティー中にでもしましょう」と答えた。

 その言葉が、明日への希望という名の灯火に見えた。


 食事はすべてルームサービスで賄われ、外部との接触は一切断たれた。

「いいか、全員。風呂には入るな。水場は奴らの侵入口になる。歯磨きも、日が昇っている間か、完全に陽光が届く場所でしか許さん」  

 五百旗頭の指示により、一行は温かい蒸しタオルで身体を拭くことで凌いだ。


 その夜、リビングのソファを円状に並べ、交代制の仮眠が始まった。  

 深夜二時。静寂を切り裂いたのは、ルリルリの短い悲鳴だった。

「あ……っ!」  

 ルリルリの背後の影が、どろりと変質した。

 壁を透過するようにして、濡れそぼった「泥の手」が伸び、彼女の細い首筋を掴もうと指を広げた。

「娘に手を出すな――ッ!」  

 隣にいた健三が、反射的にその腕へ掴みかかった。

 だが、法と論理を武器にする彼の掌は、虚しく怨念をすり抜け、空を切った。

「なっ……当たらない!?」  

 健三は慌てて、実体のない恐怖から引き剥がすようにルリルリの体を抱きしめ、自分の背中で彼女を庇うように丸まった。

 その時だ。

「どけッ!!」  

 怒号と共に、仮眠をとっていたはずの義明が跳ね起きた。  

 彼は迷うことなく、一歩踏み込むと、怨霊の腕を目掛けて、全体重を乗せた拳を叩き込んだ。


 ――ドォォン!!  


 物理的にはあり得ない「肉を打つ重低音」が室内に響き渡った。  

 義明の気合一閃。

 その拳には、愛する娘を守ろうとする剥き出しの「親の情念」が、異様なまでの熱量を持って宿っていた。

『ギ……、ガアァッ……!』  

 虚空から苦悶の叫びが上がり、泥の手は焼き切られたかのように砕けたガラスの様に霧散して消えた。

 不思議なことに、その一撃の後、遠くで怨嗟の声が響くことはあっても、深淵から手が伸びたり姿を現したりする怪異はピタリと止んだ。


 翌朝。

 全面ガラス張りのリビングには、眩いばかりの朝日が差し込んでいた。

 運ばれてきたルームサービスの朝食を囲みながら、母親たちの話題は、昨夜の義明の勇姿に持ち切りだった。


「本当に凄かったわ、守屋さんのあの一撃……。空気そのものが震えたもの」  

 誠一の妻、美奈代が感嘆の溜息を漏らす。

「うちの誠一さんなんて、どう動くか考えてるうちに固まっちゃうんだから。守屋さん、あなたこそ本当のヒーローよ」

 健三の妻、佳苗も苦笑しながら頷く。

「うちのパパも、必死にルリルリを抱きしめてくれたのは立派だったけど……あんなに鮮やかに奴らを『殴り飛ばせる』のは、守屋さん、あなただけだわ」

 母親チームからの惜しみない大絶賛。

 義明は「いや、体が勝手に動いただけだ」と照れ臭そうにパンを齧る。  

 だが、その隣では、娘のみなみんが尋常ではない様子で彼に密着していた。

 彼女は義明の逞しい右腕を両手でしっかりと、爪が食い込むほど抱え込み、母親たちを牽制するように睨みつけている。

「……取らせないからね」  

 みなみんが、小さな声で、しかし断固とした口調で釘を刺した。

「お父さんを褒めるのはいいけど、近寄らないで。私のお父さんなんだからね! 私たちがピンチの時に、一番強いのは私のお父さんなの。絶対に、誰にもあげないんだから!」

 頬を膨らませて義明にすり寄る娘の姿に、一同は思わず顔を見合わせて笑い声を上げた。


 しかし、その輪から少し離れた場所で、五百旗頭だけは険しい顔で義明の右拳を見つめていた。 「……義明さん。お前のその力、誰にでも使えるものではないぞ」  

 五百旗頭の冷ややかな声に、食卓が静まり返った。


「俺の知る限り、それは怨霊にとっては本来あり得ない、自分たちを直接破壊しうる力だ。奴らは、生身の人間が自分たちに触れることなど想定していない。だがお前の拳は、娘を想う執念が極限まで昇華され、霊的な武器と化している。それは、奴らにとって最も恐るべき『凶器』だ」


 五百旗頭はコーヒーを一口啜り、窓の外の濁った空を見据えた。

「だが、その力があるからこそ、奴らはお前を避けて娘を狙うかもしれない。義明さん、……アンタはもう、ただの親ではない。奴らに引導を渡す『処刑人』だ」


 義明は、しがみついて離れないみなみんの頭を大きな手で撫で、静かに言った。

「……処刑人か。上等だ。どこであろうと同じだ。俺の拳が届く範囲にいる限り、娘には指一本触れさせん」

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