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今日も今日とて変わらぬ日常。朝早く家を出て、保健室に向かう。そこで透子先生と駄弁り、課題をこなす。バイトがある日は仕事をし、家に帰る。その繰り返しだ。
劇的な何かを望んでいるわけじゃない。ただ、俺の人生はこうした作業をこなすだけで終わっていくのだろうか、と一抹の不安を残しながら、明日を迎える。
けれども、少し変わっていく日常があった。毎朝、体育館で練習する彼女、朝比奈千晴。名前も知らない相手だったが、知り合い程度にはなったと思う。
一目見るだけだった彼女が手を振ってくれるようになったのだ。
「よく気づくよな」
保健室に向かう廊下。そこを歩きながら、一人でボソリと呟いた。
朝比奈千晴は練習しているにも関わらず、俺が体育館の横を通ると毎回こっちに気がつく。
すごいなと感心しながら保健室の扉を開けた。
「おはよう、直人」
「おはようございます。透子先生」
養護教諭である久遠透子。彼女は、カップから立ち上る紅茶の湯気越しに、いたずらっぽく微笑んだ。
「君は今日もカッコいいね」
「あざす」
「もっと喜んだらどうだい。私のような美人でセクシーなお姉さんに褒められてるんだよ」
「うれしいなー」
彼女に軽口をあしらいながら、席に着き、机に教材を並べていく。教科書、ノート、問題集、そしてイルカのキーホルダーが付いた筆箱。チャックにキーホルダーが付いていると開けやすいのだ。
すると彼女は俺の元へ近づいてきた。体も密着させ、耳に息を吹きかけてくる。さらに片手で膝をくすぐってきた。
「あんまり私に意地悪しちゃダメだよ。君の弱いところを知ってるんだから」
「すみませんでした」
こういう時は、すぐに降参すべきなのだ。別に負けたわけじゃない。戦略的撤退ってやつだ。それに彼女は謝れば大抵許してくれる。
「謝れば済むと思ってるでしょ」
そんな俺の心境を見透かしたのか、彼女の攻撃が止むことはなかった。
「…っ!」
これはかなりヤバい。体に当たる柔らかい感触。甘く華やかな匂い。脳までダイレクトで伝わってくるような耳元で囁く声。艶めかしく膝をなぞる指先。
得意のポーカーフェイスが崩れそうだ。
「以前と比べて随分と感情を隠すのが上手になったようだね。今の君も好きだけど、昔の感情さらけ出した君も素敵だと思うな」
俺は透子先生の肩を強引に掴み、向かい合った。
「もう我慢できません。動かないでください」
「…も、もしかしてキスするの!?ついに君も本気になってくれたんだね。私はいつでもいいよ」
彼女は微を赤らめ、そっと目を閉じた。この教師が何を言っているかよく分からないが、俺はそんな彼女を尻目に勉強を始めることにした。
透子先生は、それから10分ほど目を閉じたままだった。時折、「君は緊張しているんだね」とか、「私はいつまでも待ってるよ」とか、「さすがに待たせすぎじゃない!?」などと言っていたが、知ったこっちゃない。
保健室登校を始めてから最も集中できた10分間だった。
◇◇◇
時刻は昼過ぎ、昼食を食べ終えたすぐのことだ。
「君は好きな子とかいないの?」
そう聞いてきた透子先生に、俺は肩をすくめて答えた。
「いませんよ。だいたい交流関係が狭いですし。先生だって知ってるでしょ」
「拗ねないの」
彼女は笑って、紅茶の入ったカップをくるくると回す。
「無理に広げる必要はないと思うけど…君の場合は、自分から狭めてるところがあるじゃない?」
「……それは、自覚あります」
「今の君はちょっと危うい。誰かに嫌われにいく必要なんてないんだよ。学校だけがコミュニティの全てじゃない。でも、せっかく人が多い場所にいるのに、自分で全部の扉を閉めたら、誰にも触れられなくなるよ」
彼女は最後に「無理をする必要はないんだけどね。頭には入れておいて欲しいな」とも付け加えた。
耳が痛い話だった。だから誤魔化そうと、冗談を言ってしまう。
「俺は透子先生がいれば十分ですね」
「…っ! う、嬉しいけどぉ。そういうこと言ってほしいわけじゃないから!」
先生は顔を少し赤くして、視線を逸らす。
つくづく自分が嫌になった。自分の核心を突かれたとき、誤魔化そうとか、話を逸らそうとか、言い訳ばかり思い浮かんでしまう。
彼女を直視できず、逃げるように記憶の引き出しをひっくり返した。そこで、ふと一人の女の子が頭によぎる。
「それで言ったら、体育館で毎朝自主練してる女の子と、少しだけ話しました」
「へぇ、どんな子?」
「朝比奈さんっていう子です。毎日欠かさず練習していて…上手くいかなくても黙々と体を動かして、すごいなって思いました」
「うんうん」
透子先生は楽しげに頷いて、ニヤニヤした笑みを浮かべる。
「何ですか?」
「いや、何でもないよ」
この人の笑みはむず痒いな。
「あっ!そういえば用事があるんだった。悪いんだけど、私は少し席を外すよ。何かあったら呼んでね」
「了解です」
俺は敬礼をして答えた。そんな様子を見て、透子先生はクスッと笑い保健室を後にした。
「今、保健室に人が来たら嫌だな」
この部屋にいるのは、俺だけだ。訪問者が来た場合、俺に養護教諭の居場所を聞くだろう。それだけならまだしも、会話になってしまうかもしれない。それは少し面倒であり、避けたいと考えていた。
しかし、コツコツと廊下から足音が聞こえてきた。
「神様は信じないって決めてたけど」
そう呟いて、拝み始めた。「保健室に入ってきませんように」と。俺は、こういったときにだけ神頼みをする男なのだ。そんなエセ信者の願いが届くはずもなく、無情にも我がオアシスの扉は開かれた。
「失礼します」
様子を伺うように入ってきたのは、二人の女子生徒だった。
一人は朝比奈千晴。そして、もう一人。
「…西遊真里奈」
俺の口から、自然とその名前が漏れた。彼女は一瞬、眉をひそめる。
「千晴ちゃん体調悪いみたいで、ベッド使わせてもらっていいですか?」
柔らかな声。外向けの顔だ。
「どうぞ」
真里奈は朝比奈に付き添ってベッドまで歩く。
「ちゃんとして休んでなきゃダメよ」
「大げさだなぁ。真里奈ちゃんは」
朝比奈が目を閉じるのを見届けてから、真里奈はベットを囲むカーテンを閉め、俺の方に歩いてくる。
「あんたさ…」
低く、小さく。それはベットで眠る彼女に聞こえないようにという配慮か、それとも自然に出た言葉なのか。
「いつまで保健室に入り浸ってるつもりなの?」
「入り浸ってるというか、活動拠点みたいなもんで。学校側だって許可してくれてるし」
「学校がいつまで許してくれるかわからないわよ。2年になってクラスも変わった。教室に戻るチャンスでしょ」
「心配してくれて、ありがとうな」
「心配なんてするわけないでしょ。私は自分のことしか考えてない。あんたもそうしなさい。…本当の意味で自分を守れるのは自分だけよ。」
真里奈の声は冷たかった。だけど、その冷たさの奥には、何かを押し込めたような、そんな苦い響きが混じっていた。
たしかに、そうかもしれない。
自分のそばにずっといてやれるのは、結局、自分しかいない。眠れない夜、泣きたくなるほどの孤独の中にいるとき。誰にも言えない痛みを抱えて、息が詰まるような朝を迎えたとき。
その苦しさを一番知っているのは、自分自身だ。その悲しみに真っ先に気づいてやれるのも、自分しかいない。
誰かが心配してくれたって、その人に自分の痛みの全部をわかってもらえるわけじゃない。
──だったら、守ってあげられるのは自分しかいない。
そう思っていた。いや、今でも、そう思う自分がいる。
でも、それだけでいいのか? と、どこかで問いかける声がある。
苦しさを全部わかってもらえなくたって。悲しみの奥深くまで届かなくたって。
それでも傍にいようとしてくれる人がいるなら──その存在は、守るとはまた別の意味で、自分を救ってくれてるんじゃないか?
俺は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「“自分だけ”って、そう思うのが楽なときもある。でも、本当に守ってくれるのが自分しかいないって決めつけたら、誰の優しさも信じられなくなる。それは、ちょっと……寂しすぎるだろ」
信じたい。優しさが、ちゃんと届く世界を。
自分ひとりで閉じこもらなくても、誰かと少しでも分け合える明日を。
そう思うのは、間違いなんだろうか。
「あんたがそう思うなら勝手にすればいい。私は私の好きにさせてもらうわ」
俺の視線を避けるように彼女は髪をかきあげ、保健室を後にした。
扉が静かに閉まる音が、どこか遠くに感じられる。その場に取り残された俺は、ふぅ、と息を吐いた。
「…何熱くなってんだ」
そして、すぅ、と息を取り込み、冷静に自分を見つめ直す。
「ねぇ」
すると、閉まっていたカーテンが勢いよく開いた。
「眠れないから、ちょっとお話しようよ」
彼女はベットから体を起こし、人懐っこい笑みをニコニコと浮かべ、話しかけてきた。
「ごめんなさい」
俺は断ることにした。




