執筆を振り返って~人間とは~
今まで1年間(前作を含めれば2年間)を振り返った時、登場人物を通して~人間とは~という命題に当たらざるをえないことに気付きました。
ちょっとだけ書きました。これで1年間の完結です。
執筆を振り返って~人間とは~
由美子と通子、村上先生や堀川先生・・・自分で生み出してきたキャラクターのはずなのに、もはや私の手を離れ、勝手に動き出しているようだ。
作家の先生方ってこんな不思議な気持ちになるんだろうか。書いてみるまでは、お話もキャラクターも計算し尽くされた結果だと思っていたのだけど、もしかしたら違うのかもしれない。
キャラクターは生きているのだ。私の意識の中を借りて自由に振る舞っている。私はただそれを文にしたため、読んでくださっている方々に伝えようとしているだけなのだ。そんな感じを抱いている。
以前、keyという作家の「終のステラ」というゲームを紹介したと思う。ゲームと言うよりは小説であり、美しい絵の下で展開される(文学であり美術である)芸術だと私は思っている。
フィリアというアンドロイドはその人間性から人類最後の希望として依頼主の老人から運び屋ジュードによってその地まで旅することになる。人類がほとんど滅亡し、人間ではあるがすさんだ心のジュードは、アンドロイドでありながら人間性豊かなフィリアによって心を開かれ、その瓦礫に囲まれていた人間性を取り戻しながらその人として生き方を復活させていく。そんな物語なのだ。読み進める中で、人間性というのは『器』の問題ではないということに、読むものが気付かされていく。人間の身体を持ちながら人間としての振る舞いをしていないもの、アンドロイドという機械でありながら人間よりもより人間性にあふれているもの。
人間性・・・突き詰めればいったい人間とは何なのか。
さて、この物語を書いていく中で、由美子も通子も村上も本当の肉体などない。私が死を迎え、意識がなくなってしまえばそれらも全て消えてしまうように思える。ところが、これを読んでしまった方の心の中には、もしかして由美子や通子、村上なんかが「ねぇ」か「よぉ」と言いながら生き続けてしまうこともあるのではないかと思ってしまった。これが有名作家が描く作品の登場人物ならなおのことだろう。
私の作品で『死にたがり屋のぼくと不器用な死神 』というものがある。その中で死にぞこないの主人公が文字に残すことによって『存在』になるみたなことを言っているのだが、もしかしたら、深層心理の中で今まで考えてきたようなことを思っていたのかもしれない。
令和8年度もこの続編を書こうか迷っている。書くとしたら後輩の5年生、堀川夏美が登場し、またしても物語の中を自由自在に謳歌していくのではないかと思っている。あくまで書くとしたらであるが・・・。
由美子の読書感想文 ~6年生編~ 完結
夏休みの課題で「読書感想文」に取り組んでこられた方が多くいらっしゃってアクセス数が予想を超えました。ただし、それ以降は数は少ないものの地道にお読みくださった読者の方がいらして有り難かったです。
この作品はスマホよりもPCからのアクセスが断然多いと言うことは何を意味しているか、いろいろ想像してみましたが、よく分かりませんでした(笑)
でも最後までお付き合いしてくださった方がいらしたことに感謝いたします。本当にありがとうございました。
もし、よければ4月からもmugi_LEOの作品を探してみてください。
重ね重ねありがとうございました。




