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アダンが気を失っても、夢は覚めなかった。妙に生々しい夢である。
しかし、リゼットは忙しいのだ。アダンに付き合っている暇はない。これが夢でも一秒だってアダンのために無駄にしたくなかった。
「フィン、帰りましょうか」
声をかけると、フィンはワン、と機嫌よく答えた。アダンは気を失ったので、道端に捨てておく。御者をしていたアダンの連れにまでフィンをけしかけようとは思わない。知らない人だし、母親が病気だとか可哀想だ。
リゼットが横を通りかかった時、その気の弱そうな青年はリゼットに怯えた目を向けたので、あえて声はかけなかった。
夢がまだ続いているようだけれど、それでも帰る方向へ進むしかない。リゼットが歩いていると、今度は前から馬車が来た。馬は二頭、あの車体は――。
馬車が停まった。いつかと同じだ。
クララック家の馬車だ。
リゼットは、そこから降りてくるジスランの姿を思い浮かべた。これは夢だから、ジスランがいてもおかしくない。ただ、リゼットの知るジスランとは違い、少し前に見た夢の中のようにリゼットの心を抉ってくるかもしれない。
覚悟を決め、足を止めた。
しかし、馬車から降りてきたのはジスランではなく、バディストである。
「え?」
意外過ぎる人物の登場に、リゼットは完全に拍子抜けした。
フィンもバディストには懐いている。急にキュゥンと甘えた声を出して鼻面をバディストの手に擦りつけている。
「リゼット! ズタズタじゃないか! まさか、アダンに遭遇したんじゃ……」
いつも朗らかなバディストの顔が悲愴に強張っている。
「アダン……。ええ、会いました。この先で倒れています」
「倒れて?」
「はい。フィンが噛みついたら泡を吹いて倒れました」
リゼットは、報告を少々端折ったが、問題はないだろう。
淡々と答えたリゼットと、道の先とを見比べ、バディストは目を丸くした。
「そ、そうなのか? 何もされてない?」
「ええ、フィンのおかげで指一本触れられていません。私がズタズタなのは、その、ちょっと森に行っていたからで、それはまた今度詳しく話します」
「え? 森?」
バディストは慌てふためいていたけれど、この状況で自分がやるべきことを瞬時に判断した。そういうところはさすがだ。
「リゼットはこっちの馬車に乗ってロジーナたちのところへ帰ってくれ。とにかく心配してるから。俺はアダンたちを捕縛するからしばらく戻れないって伝えて」
「わかりました。ジスラン様はまだお目覚めではないのですね?」
それを訊ねると、バディストは渋い顔をしてうなずく。けれど、リゼットは笑ってみせた。
「解呪の方法を見つけました。次にお会いする時はお目覚めになっているはずです。では、バディスト様もお気をつけて」
「リ、リゼット? 君って、時々すごいことをサラリと言うね? ……でも、今は長々と話している場合じゃないから、詳しいことはまた。ああ、そうだ、フィンを借りていくよ。人手が足りないし、今は頼もしい助っ人だから」
リゼットが答えなくとも、フィンが張りきってワン、と鳴いた。今が頑張り時であることをフィンもわかってくれているのだろうか。賢い子だから。
リゼットが馬車に乗り込む時にバディストを見遣ると、御者の青年を馬車の車体に押し込み、意識のないアダンも押し込み、そこにフィンを乗せて自らは御者台で馬車を走らせる。小さな馬車だから、方向を変えることもできる道幅だった。
「リゼット様」
クララック家の御者に促され、リゼットは馬車に乗り込んだ。馬車が動き出すと、一気に疲れが襲ってきたけれど、うっかり寝てしまって薬を駄目にするわけにはいかない。
――いや、これもまだ夢の続きなのだろうか。
どこからどこまでが現実なのかがわからない。疲れきった頭ではそれも上手く考えられなかった。
リゼットは最後まで気を抜かず、薬を胸に抱きしめたままジスランのことを想った。
✤
屋敷へ着いてホールへ入った時、ロジーナが階段を駆け下りてきた。
「リゼット!」
ロジーナが泣いているので、リゼットはギクリとして薬を落としてしまいそうになる。それを慌てて握り直した。
「どうしたの? ジスラン様が……?」
間に合わなかったのか。悪夢の最後は、最愛の人の死で締めくくられる。
そんなのは絶対に嫌だ。それだけは耐えられない。
ロジーナは汚れたリゼットを抱き締める。それでも、リゼットは薬を持っているのでロジーナに腕を回すことができなかった。
「兄様は眠ったままだけれど、兄様にミュレ団長から手紙が来て、兄様に代わってバディストと一緒に読んだの。ロッセル家のアダンが脱獄したなんて、最悪の事態にリゼットの姿が見えないんだもの。リゼットに何かあったら、私、兄様に顔向けできないって……」
ヒクッ、と子供のようにしゃくり上げるロジーナの言葉を聞き、リゼットははっきりとこれが現実であると理解した。
「ア、アダンが……脱獄?」
こんなところにアダンがいるはずがない。だから、これは夢だと思い込んだ。それが、まさか脱獄していたとは――。
今になって震えが来た。ロジーナが優しくリゼットの背中をさすってくれる。そうしたら、震えはすぐに止まった。
夢でも現実でも、もうあんな男は怖くないはずだ。
「ええ、そうよ。それで、休暇中の兄様とバディストにも出動要請が来て……。でも、兄様はこの状態だし、バディストも急いでリゼットを探さないとって出かけたんだけど、そういえば、バディストは?」
「大丈夫、アダンを捕まえて連れていくところだから。それで戻るのが遅れるって」
リゼットがそれを言うと、ロジーナは、泣くのをやめてリゼットの顔を覗き込んだ。リゼットは、にこりと笑ってみせる。
「ロジーナ、その話はまた後でするわ。それよりもジスラン様を目覚めさせる方法が見つかったの」
「ほ、本当に?」
「ええ。私を信じてくれる?」
魔女からもらった薬だと言えば、嫌がるだろうか。しかし、そんなことを言っている場合ではないのだ。ここは信じてもらうしかない。
ロジーナは涙を拭いてうなずいた。
「もちろんよ。お願い、リゼット」
「うん」
リゼットは、ロジーナと共にジスランの元へ行く前に汚れた手を清め、それから改めて部屋の扉を開いた。
ジスランのそばにいたのは、セネヴィルとデジレだ。特にセネヴィルは目の下にひどい隈を作っていた。まったく眠っていないのだろう。それがひと目でわかった。
「リゼットさん……」
セネヴィルまで泣き出しそうに見えた。ジスランを救う手立てを探せず、リゼットに顔向けできないと思っているのだろう。必死で手を尽くしてくれたのがわかるから、リゼットは彼らにもありがたい気持ちで胸がいっぱいになった。
「先生、デジレ様、ありがとうございます。呪いを解く方法を探してきました」
「そ、それは……」
リゼットは、眠るジスランの顔を覗き込む。青白く、人形のように見える。ジスランの周りだけ、時が止まっている。整った顔立ちをしているだけに、余計に生きているように見えなくて苦しくなった。
本当に、この薬が効くのか。ふと、不安になってしまう。
それはリゼットの心に残っている弱さだ。
――大丈夫、信じよう。
リゼットは、ベッドのシーツを捲り、ジスランのシャツの前を開く。程よく筋肉が浮いた脇腹の傷には変わらず呪いが――いや、リゼットが見たものよりも広がっている。時間が経過して、蔦のような模様が心臓の方へ伸びている。
あと少し遅かったら危なかったのかもしれない。
リゼットは陶器の入れ物の蓋を開け、中の桃色をした膏薬をジスランの肌に載せ、ゆっくりと広げた。そうしたら、呪いの紋様は薬を広げたところから綺麗に消えた。キラキラと、光が散って、呪いが解けていく。以前の刺された傷跡すら見えなくなった。
リゼットは、その光が完全に出なくなるまで薬を広げて塗った。そうしていると、ジスランが身じろぎする。
それから、う、と小さく声を上げた。リゼットがとっさに顔を見ると、ジスランの顔に血の気がほんのりと戻っていた。まぶたがピクリと痙攣したように動く。
「ジスラン様?」
呼びかける。覆いかぶさるようにして顔を覗き込むと、ジスランはまぶたをうっすらと持ち上げた。青い瞳が見える。虚ろなその目が、リゼットを捉えた。
「リゼット」
声が、聞けた。
名前を呼んでくれた。
それだけのことに、リゼットは人生のすべての苦労が報われたような気分だった。
メロディのことも、アダンのことも今なら許せる。
あの二人の仕打ちがあって、その結果、リゼットはジスランと出会ったのだから。
「ジスラン様……」
リゼットの目から涙が零れた。そうしたら、緊張の糸がプツリと切れて、リゼットはジスランの上に倒れ込んでいた。
その後のことはよく覚えていない。
全52話で完結になりますので、ここから完結まで毎日更新します。
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