✤40
セネヴィルが使用人たちに急かされながら部屋に駆け込んできた。ベッドで眠るジスランを見て眼鏡を押し上げる。
「少し前にお会いした時は、これといって問題もなさそうでしたが……」
「ええ、健康そのものでしたわ。それが急に倒れてしまって」
ロジーナが返す言葉もいつもより力がない。それでも、その後すぐにバディストと中年の男性が入ってくると、ほんの少し表情を柔らかくした。この男性は多分、バディストの父親だろう。白いものが混じっているが、バディストと同じ黒髪で、どことなく近しいものを感じる。
バディストは、しっかりして見えてもロジーナのことが心配のようだった。すぐさまロジーナの肩に手を回し、背中を摩った。ジスランも意識があれば、バディストにはロジーナの支えになってくれと願っただろう。
――大丈夫だと信じている。ジスランがどうにかなるなんて思っていない。
この時のバディストの表情からはそれが読み取れた。
バディストの父親が、ポツリと立つリゼットに挨拶をしてくれた。
「私はバディストの父親で、エストレ地方の管理をお手伝いしておりますデジレと申します」
驚くほど丁寧に挨拶をされたので、リゼットの方が驚いた。
「リ、リゼット・ルグランです。あの、私は身分も何もない庶民ですし、そんなに畏まらなくても……」
「ジスラン様はあなたを配偶者にとお考えだと伺っておりますので、間違ってはおりませんよ」
と、デジレは苦笑した。
バディストのおおらかさとはまた違った気真面目さである。
「そうそう。だから、ジスランには起きてもらわないとな。で、先生、何が原因ですか?」
ジスランの脈を取ったりと体を調べていたセネヴィルは、難しい顔をしていた。その横顔には脂汗が浮いている。不吉な予感しかしなかった。
「あの……」
リゼットは考えがまとまってもいないのに口を開いていた。セネヴィルには、疲れただけだろうとか他愛のないことを言ってほしかったのだ。
「脇腹の傷を押さえていたというのですが……」
ロジーナが、黙ったリゼットに代わってつぶやく。
セネヴィルは、ジスランのシャツを開き、脇腹の傷口をあらわにする。
「これは――」
この時、セネヴィルの声が震えた。
傷口があった脇腹には、蔦のような文様が浮かんでいた。一瞬、鬱血しているのかと思ったほどに赤黒い紋様だ。以前、濡れて服が透けて見えた時、こんなものはなかった。刃物によるものだという傷跡があったはずだ。
セネヴィルは、ゴクリと唾を飲んで汗を手の甲で拭った。
「これは、私の専門外だと言わざるを得ません。本当に、申し訳ない……」
ロジーナがヒュッと息を呑んだ音がした。
リゼットは、セネヴィルが言わんとすることをまだ理解できない。一体、ジスランに何が起こっているのだろう。頭が受け入れたがらなかった。
「先生、それはどういうことでしょうか?」
デジレの硬い声が響く。バディストはロジーナの肩を抱きながらも、見たことのない厳しい面持ちに変わっていた。
セネヴィルはジスランのシャツを直しながら、揺れるろうそくの火のように頼りなくつぶやいた。
「あの時、ジスラン様が刺され、私はその処置をしました。ごく浅い傷でした。ジスラン様の記憶は抜け落ちておられましたが、それもショックによるところだという診断をしました。けれど、刺した傷そのものに意味がなかったとしたら……? あれが、この呪いを刻みつけるために放った楔だとしたら、時間をかけてその呪いが成就したのでしょうか……」
呪いとは。
そんなものが存在するとは思えなかった。医師のセネヴィルに、そうした不確かなものを口にしてほしくはない。
しかし、医師が口にしたからこそ、それが事実なのだとは認めたくない。呪いなんて存在しないと、そう思って逃げ道にしたいのかもしれない。
リゼットは、自分の心をどこか他人事のように見つめた。
「先生、呪いなんてあるんですか? ちょっと信じられません。彼女はそこまで計算づくでいたってことですか?」
バディストが問いかける。この場にいる誰もが同じことを考えていただろう。
ロジーナに話を聞いて、アリアンヌの行いは自暴自棄だったのだと思えた。それが、そうではなくて、簡単に死なせずに苦しむように呪ったのだというなら、その憎しみの深さに気が遠くなる。
「こうなると私も門外漢でしかないので、確かなことは言えないのですが、うちの父親が過去にこういうものを見たことがあると言っていたのを思い出しただけです」
「先生のお父様にお会いしてお話を窺えますか?」
そこに糸口がある。リゼットがとっさに言うと、皆が消沈したのがわかった。
セネヴィルはかぶりを振る。
「すみません、父はすでに他界しております」
ただ、とセネヴィルは言いにくそうにうつむきながら言った。
「医者に解呪はできません。悪魔祓いも見当違いで効果がないとのことです。知っている症例は衰弱死の一手だったと」
誰もがゾッと血が凍る思いをしたはずだ。
アリアンヌは何故、その場でジスランの命を奪うのではなく、こんなにも時間のかかるやり方を選んだのだろう。わからないことだらけではあるけれど、当の本人がいない以上、もう訊ねることもできない。
リゼットは、涙が出なかった。現実味がない。
それでも、指先は冷えきって震えている。リゼットがセネヴィルの見立てを信じていないのではなかった。
怖いし、それだけは嫌だと思っている。
ただ、どこかでまだジスランは大丈夫だという希望を捨てていないから、今は涙が流れない。
――リゼットを幸せにすると言ってくれた。
約束を違える人ではないから、今も必死で呪いと戦ってくれている。少なくともリゼットはそう信じる。
ジスランが目覚めるためにリゼットが手助けできることはなんだろうか。拳を握りしめて考える。
「……医者が門外漢なら、呪いの専門って誰だよ?」
バディストの苛立った声が静かな室内に響く。
呪い。怪異。
不可思議で、皆が触れることを忌避するもの。
もし、それに詳しい者がいるとするのならば、それは――。
「……魔女?」
リゼットはポツリとつぶやいた。
それしか思い浮かばなかったのだ。
けれど、場の空気は一層重たいものに変わっただけだった。




