第3章 7節 ツァラトゥストラ
ツァラトゥストラだ、そう、ツァラトゥストラ。ぼくは彼女に会いたかった。ぼくが本当にテシーだとしたら、彼女と共に歩んできた数千日間のぼくは何だったのか。ぼくはなぜ、記憶を失っていたのか。それが気になった。
宮廷に戻ったぼくは、ジークにみっちり説教されて簡易転送装置に使用制限がかけられた。移動可能距離は宮廷の半径千心音(注釈:凡そ一キロメートル)以内だって……。狭苦しくてやってられないや。
だけどジークに、ツァラトゥストラという女とチェーカーという組織を探してくれと言ったら、それは了承してくれた。もう数日は経ってるし、そろそろ見つかってもおかしくない頃だ。
『音声電信、レイ樣、お申し付けのツァラトゥストラという女を拘束しました』
腕についていた電信装置から音声が聞こえる。早速か。こ、拘束?物騒な言い回しだ。
『ジーク、優しくしてよ!ツァラトゥストラはぼくの姉みたいな存在なんだ』
『了解致しました。これより、宮廷内の留置場に転送します』
ぼくはそのまま音声電信に当てていた指を簡易転送装置に移動し、留置場近くに自らの転送を行う。留置場の内部は完全に独立した物域で、無線転送装置で座標を選択して転送しようとしても、絶対に弾かれる。
なので、内部に繋がる有線転送装置から生体認証を用いて入場する必要がある。物理的な侵入……は絶対不可能だと思う。ぼくは、その生体認証で自らを証明し、留置場の内部に入る。
「はなしてよ!」「きゃー!」
奥から、そう声が聞こえた。ツァラトゥストラの声だ。ぼくはその声のする場所に走った。
目の前の檻の中には、鎖で磔にされたツァラトゥストラがいた。
「ツァラトゥストラ!」
ぼくは動物園の猿みたいに鉄格子を両手で掴んで、中にいるツァラトゥストラに声を上げた。
檻の中ではジークと、ズヴィカークの人達がツァラトゥストラに銃口をむけている。
「レイ樣。お申し付けの通り、ツァラトゥストラという女を拘束致しました。お話があるならば、席を外します」
「そうして」
皆は席を外して、檻の中はぼくとツァラトゥストラの二人だけになった。檻の外部にあった有線転送装置を使い、檻の中に入る。
「ごめんツァラトゥストラ。こんな手荒なことをしてしまって」
ぼくは、そう言ってツァラトゥストラの頬に手を当てた。
「レイ……?レイね。可愛いじゃない。どうしたのそのスカート」
「貰ったんだ。でも、話したいことはそれじゃなくて……」
「ぼくは君に一つ訊きたいことがある。ツァラトゥストラは、ぼくがテシー、つまり帝位継承第一位の皇太子であることを知っていたの?」
「知ってしまったのね……。そうよ。知っていたからハーネスブルグに送った。送ったら……完全に前の人格と決別できると思ったの。私は目の見えない貴女を助け、人工網膜を与え、視覚を与えた。貴女は記憶と、視覚に苦しめられていたようだった。だから、ナノマシンで樹状突起を操作し、一部の記憶を消した。貴男を助ける為に、貴女を凍結したの」
「ぼくは誰なんだ」
「貴男は、貴男はレイよ。私が育てたの。弟と同じ。いや、それ以上」
「そうか。それじゃ、ぼくは、ぼくはつまりテシーの影に過ぎない」
「違うわよ!」
ツァラトゥストラはそう大声で叫んだ。彼女が、口をあんなに広げて強く叫んだのは初めて見た。
「ねえ、私。私ね、貴男のことが好きなの」
そう彼女は震えた声で言った。ぼくは、ぼくの中には稲妻が落ちたようだった。ぼくは、そっとツァラトゥストラを抱擁して接吻をした。そうしないといけないような気がした。
超至近距離で見えるツァラトゥストラの目には、雨上がりの葉に浮かぶ雨粒のような涙が見えた。
古典のツァラトゥストラは、雨を超人の到来を知らせる告知者として表現した。だが、ぼくの目には、雨粒は超人の流す涙に見えた。
ぼくは、かたくツァラトゥストラを抱いたまま、あの日、裏切り者を殺したように自分の腰から短剣を取り出し、ツァラトゥストラの片腕を鎖から外して手に持たせる。
「ツァラトゥストラ。ぼくは、"ぼく"は君の愛を受け入れたよ。ツァラトゥストラは、この瞬間が嬉しいんでしょ?」
「うん、私は、永劫回帰の中でただ、この今という刹那を体験できたことが嬉しい。何千回と、何万回と、いや、数で表せられない程、私はこの瞬間を体験した。頭ではわかっている。でも、今その時を噛み締めたから」
「でも、ぼくの体は借り物なんだ。ぼくは、テシーにこの身体を返さないといけない。ねえ、ツァラトゥストラ。愛しているよ」
ぼくは、ツァラトゥストラの手に持たせた短剣を、ぼくの右眼に突き立てさせた。
「ぼくは、レイは、死ななくてはならないんだ。世界の為に」
「や、やめて、やめて」
ぼくの腕は華奢だけど、ツァラトゥストラの方が華奢だった。ぼくは目を見開き、ツァラトゥストラの短剣を止めようとする力に抗って、眼に剣先を近付けていく。
つくられた角膜を突き抜け、つくられた水晶体を割り、刃が目の中に入る。ツァラトゥストラに笑みをぶつけながら、段々と意識が遠のいていく。
「や、やめて、レイ。いかないで」
「さようならツァラトゥストラ。愛してるよ」




