7.僕と少女探偵
次の日の放課後、僕はまた美術室を訪れた。
「失礼します」
僕が扉を開けると、いくつかの視線が僕の方に向けられた。でも、全員のものではなかった。みんな着席して絵を描いていた。文木さんも風間先輩も、自分の手元の画用紙や中央に置かれたモチーフに集中していて、僕になんて目もくれなかった。
「何しに来たの?」
部長が訊ねた。
「ええ、ちょっと」僕は小さく頭を下げるようにして曖昧に答えた。
「ごめん山科さん、ちょっといいかな」僕はいち早く顔を上げて僕を見ていた山科悦子に声をかけた。彼女は黙って立ち上がり、僕に続いて廊下に出た。教室のすぐ外だと中に聞こえる可能性があるので、少し離れた辺りまで歩いた。
「その……昨日、あれからどうしたかなと思って」
唐突かなと思いながらも、僕はそう切り出した。すると予想外なことに、彼女は微笑みを見せた。
「昨日……ちょっと怒られた。重音先輩とか、部長とか、坂根くんとか、だいぶ怒った。でも最後は、許してくれた。もう全部今回は新しい画用紙に取り替えて、みんな一から描くことにした。……それから、ふみちゃんと、久しぶりに一緒に帰った。それでふみちゃんは、全部教えてくれた。ふみちゃんに彼氏ができたこと。その彼氏が、風間先輩の元彼氏だったこと。だから風間先輩や、部長たちがふみちゃんに怒っていたこと。それが原因で、きっといやがらせされたんだろうってこと。でも、それでもふみちゃんは彼氏が好きで、だからそんなに気にならなかったし、そういうわけで、部活動自体にも興味が薄くなってしまっていたこと。でも、その彼氏の先輩も美術部だから、相談したら、部活はやめない方がいいって言われたんだって。それから、風間先輩は悪いヤツじゃないから、それはもしかしたら風間先輩の友達が風間先輩を思ってやってるのかもしれないけれど、きっと風間先輩はそんなのいつまでも放っておいたりはしないって、そうも言ってたんだって」
彼女が自分からそんなにも話してくれるとは思いもしなかったので、僕はだいぶ面食らった。思えば僕は、真っ青な顔でぎゅっと恐怖をこらえている彼女しか見たことがなかったのだ。でも本来の彼女は、とても朗らかで、すぐに人に心を開いてしまう人懐っこい子なのかもしれない。
「……よかったね」
「うん。それで私、ふみちゃんが法月さんに口止めしてたこととかも聞いたから、何だか、悪かったような気がしてきて。昨日も、気がついたらいなかったし。私、いっぱいいっぱいだったからよく覚えてないんだけど。あのメモを本当に法月さんが書いたのだとしたら、あんな風に言ってくれるわけないと思って。法月さんに謝りたいと思ったんだけど、その、あの応接室に謝りに行く勇気が、なかなか出ないなって思ってて。そしたらちょうど、あなたが来たから」
「きっと彼女は気にしてないよ」僕は言った。
ひとしきり僕に話し終えて、彼女は満足したようだった。
僕は何もしていないけれど、彼女は僕に「ありがとう」と言い、笑顔で手を振って、美術室に戻って行った。僕は手を振り返した。悪い気持はしない。
その後すぐ、僕は家に帰った。
そうしてその次の日の放課後、僕は姿勢を正して「そとづらの道」を通った。よく考えてみると、探偵部室に彼女がいるとは限らない。そのことに急に思い当たって、僕は自分が突然馬鹿みたいに思えてきた。
けれども、行ってみると第九応接室の灯りはついていた。ノックをすると、「どうぞ」という彼女の声がした。
「なんだ君か」
法月紗羅は、ソファの奥の机に向かってパソコンのキーボードを叩いていた。彼女の顔はやはり整っていて、でもどことなく生気がない。
「何しに来たの」パソコン画面に目を戻し、彼女は言う。
「昨日、山科さんと話をして来たよ。君に謝りたいって言ってた」
「謝る理由はないだろ」
「そう言うと思った。だから気にしてないと思うって言っておいた」
僕が言うと、彼女はふん、と鼻を鳴らした。
「山科さんは、朱色のしるしと黒色のしるし、両方の件でみんなに謝罪して、少し怒られたけど、許してもらえたって。それから文木さんともちゃんと話をして、文木さんは自分に彼氏ができたことだとか、その彼氏が元々風間先輩とつきあってたこととか、いやがらせの原因がたぶんその辺にあったこととか、全部教えてもらったって。文木さんはとりあえず部活をやめないことにしたみたい。それとその彼氏は風間先輩の性格のよさを認めてて、いやがらせは彼女ではないだろうって言ってたって」
「くだらないなあ。振っといて、なんだそれ」
法月紗羅は立ち上がり、電気ポットのあるコーナーに見えなくなった。じゅぼぼぼぼ、とお湯を注ぐ音がした。しばらくすると姿を現して、テーブルの上にお茶の入った湯呑を置いた。
「まあ、どうぞ」
「それは、お客扱いなの?」
「解釈はご自由に」
法月紗羅はソファには座らず、机の椅子に戻った。自分の湯呑をパソコンの脇に置くと、また作業を再開する。
「何をしているの?」
「君には関係ないだろう」
「なんで怒ってるの?」
「別に。……ただ、なんで昨日来なかったのかな、と思って。だから、もう二度と来ないものだと思ったよ」
僕の方を見ずに言う。
ああ、それは僕が悪かったのかもしれない、と、今さらになって気がつく。
「あの、ごめん」
「別に謝る理由ないだろ」
「そうだけど。あのさ、報告書を書いてきたんだよ。昨日は山科さんに話を聞いて、すぐに帰って、報告書書いたんだ」
そういうと、彼女はちろりと僕の方に目を向けた。
「……まあ見てやるよ」
言うので僕は、彼女のところまで報告書を持って行った。何でこんなことになってるのだろう。何だかでも、怒っている女の子には、たぶん逆らわない方がいい。
彼女はぺらぺらとめくって見ると、「変なまとめ方」と即座に一刀両断した。
「なにこれ。日記みたい」
「だって、書き方なんて知らないし」
「しかもクサい。特にこの最後の文。『依頼人は、『ありがとう』と僕に言った。僕はなにもしていない。これは探偵部への、というか、彼女へのお礼だ』。なにこれ」
「じゃあ、見本見せてよ。これまでのとかあるよね」
「ない。全部提出済。いいよこれで。あいつはこういうの好きだから」
彼女はさりげなく、パソコン上で開いていたファイルを閉じた。
僕はすかさずマウスを奪おうとしたけれど、気配を察した彼女は有無を言わせず電源ボタンでパソコンをシャットダウンした。
「その終わらせ方はよくないと思うけど」
「大丈夫。こいつは頑丈だから」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「いいんだって。……それより」
彼女は僕の持ってきた紙の束をばさばさ振りながら、僕を見上げた。
「君、部活は決めたの?」
少し顔を傾けるようにして、まっすぐ僕を見据える二つの目。
「うん」
たじろぐ自分を抑えながら、僕はうなずいてみせる。
「届出は?」
「公式じゃなくても届出がいるの?」
「うん、非公式だけど公認だもの。この部に入るとしたら、の話だけど」
「じゃあ届出、出すよ」
僕が言うと、彼女は急に顔をそむけて窓の外を見た。長い髪のあいまに、白いうなじが覗いている。
少しして、
「朱色のしるしがいるよ」
と彼女が言った。
「なに?」僕は訊ねた。
「ハンコだよ。印鑑」彼女の声が、抑えきれないような笑いを含んでいた。
「……押してくれるかな……」
探偵部。
僕はその入部届を目にした時の親の顔を想像して、少しだけ憂鬱になった。