鋼面の剥がれた日
※本作は短編版『私に「ジャンケン」で勝とうなんて二十五年早い』を大幅に加筆・改稿した連載版です。
旧版約3万字から約6万字へ加筆し、各話の構成・描写等も再構成しています。
第1話 鋼面の剥がれた日
蝉がうるさい。
ヒカリおすすめのカフェへ向かう途中の歩道で、真田吉兆は右手を握っていた。
その右手は、これから二百八十六回目の仕事にとりかかる。仕事の内容は、ジャンケンで負けることである。
「最初はグー、ジャンケン、ぽん」
吉兆はパーを出した。
ヒカリはチョキを出した。
やっぱり負けた。
「やったぁ! 吉兆のおごりね!」
ヒカリが両手を合わせて飛び跳ねる。その隣で、吉兆は空を見上げた。歩道の上に、勝者と敗者がきっちり一人ずつ。
「これで……連続二百飛んで八十六の負け……はは、そしておごった金額は……九万八百四十六円……」
「相変わらず、記憶力と計算はいいよね」
「なんなら今までの負け、一つ一つ全部覚えてるよ……」
これは自慢ではない。どちらかといえば、持病である。
ここまで来ると自然災害に近い。
台風に負けた人間は、いちいち落ち込まない。
「お前さ」
「なに?」
「彼氏に勝ってそんな喜ぶ?」
「だって、勝ちは勝ちだもん」
ヒカリはスキップで半歩先に出た。振り返って、もう一度チョキを作って見せる。
この天文学的数値の破壊者に、悪びれるという機能は搭載されていない。
鈴宮ヒカリ。前髪のあるロングの姫カット、長袖のブラウスにロングスカート。黙って立っていれば清楚という単語がそのまま歩いているような女だ。
吉兆が同じサークルの歓迎コンパで最初に彼女を認識したときの感想も「顔の整った糸目の美人」だった。
半年ほどして、吉兆はその糸目の理由に気づいた。この女は誰にでも分け隔てなく笑う。だから笑ったまま目が戻らないのだ。
我ながら大した発見だと思った。勝手に感動し、勝手に惚れ、押しの一手で半年粘って、根負けさせる形で交際にこぎつけた。
付き合って二年。その間、ジャンケンで一度も勝てていない。
二分の一を、二百八十六回連続で外し続けた計算になる。確率にすると、小数点以下にゼロが八十六個並ぶ。年末ジャンボの一等に十一回続けて当たるほうが、まだ現実的な数字だ。
とにかく説明不能だ。
そのときだった。ヒカリの足が止まった。
「吉兆、見て! 見て!」
右手を口に当て、左手でウィンドウの中を指している。驚いたときに口へ手をやるのは、この女の癖だ。
吉兆の右足が、勝手に半歩下がった。
ヒカリの指先にはウェディングの専門店があった。
「このドレス可愛くない?」
「知らん」
「海辺の式場もいいよね」
「知らん」
「子供は二人かな」
「誰の話だ」
「私たち」
「してない」
ヒカリはガラスに額をつける勢いで店内を舐めるように見ている。若干、目が血走っていた。
この女がガラスに額をつける場所は、この世に二種類しかない。ウェディングの店と、スイーツ食べ放題のショーケースの前である。どちらも吉兆には請求書に見える。
吉兆はこの状態をウェディングトリップと呼んでいる。原因は不明。発症すると五分から三十分ほど、結婚の妄想を語り続ける。
治療法も存在しない。
平時はゆるふわ系のおっとり美人なのだが、発症中だけはバーサーカーの類である。
否定は無意味だ。一度だけ軽い気持ちで茶々を入れたことがある。その代償として、吉兆は海辺の式場と森の中の式場の比較検討に、まる一日を差し出すことになった。
熱された鉄は、冷めるのを待つ。急冷は厳禁である。
「ねぇ! 私たちの結婚っていつにするの? 来月? それとも今月? 私は今月でもいいと思うの! むしろ今月……いや来週でも!」
「いや……おぅ……いあぁ……」
牛追い祭りの牛のような鼻息が、吉兆の顎の下まで来ている。
このオリハルコン製の地金を、どうやって冷ますか。
吉兆は視線を泳がせ、そして見つけた。街頭の大型ビジョンである。
「なんか、あれ、やってるぞ」
自分でも聞こえるくらい、声が裏返っていた。
ビジョンに映っていたのは、ニュースの映像だった。キャスターが慌てた様子で原稿を受け取り、緊迫の面持ちで話しだす。
『臨時ニュースです。田中総理が先程の国会で、前代未聞の発言をしました。それでは三十分前の国会の様子を、VTRでごらん下さい』
「何だろうね? 前代未聞だってよ」
吉兆は隣を二度見した。
「……あれ? 早いな」
「ん? 何が?」
「いや、なんも」
三秒で戻ってきた。現実への帰還ワールドレコードだった。
どうやら前代未聞なのは総理だけではないらしい。
画面に、田中総理が映った。
「なんか少し笑ってない? この総理」
「たしかに……この人、いつも堅そうな感じだもんね」
鋼面の賢者。
弱腰だった日本の外交を一新し、Noと言える日本を取り戻した男である。就任以来、笑っている写真が一枚も存在しない。大手三社が総力を挙げて探し、一枚も出てこなかったという話まである。
笑わない人間が笑うと、人は喜ぶ前に、まず身構える。その顔が、いま、心なしか紅潮していた。
VTRの中でも議員たちがそれを感じ取ったらしい。「その席で笑うな!」「引っ込め!」と野次が飛んでいる。
その野次を無視するように、総理が口を開いた。
「数字とは面白い物で、見方によっては不可能にも見えますが、可能にも見えます」
「場所間違えてるんじゃないのか!」
「議場を何だと思っている!」
野次もヒートアップしてきたが、田中総理は、それらを無視し続けた。
「例えるなら、日本全国民一億三千万人でトーナメント方式によるジャンケン大会をしたとします。優勝するには何連続で勝ったらいいと思うか、皆さんご存知ですか?」
「ヒカリ。俺達が見てるのって『算数すいすい』だったっけ?」
「いや……違うと思うけど」
総理の顔がさらに紅潮し、今にも声を出して、笑ってしまいそうなほど、口角が上がっている。
最早、国会は年始の福袋販売会場のように混乱し、野次が飛び交っている。その場を宥めるように総理が一呼吸おいて言葉を発した。
「……たった二十七回ジャンケンで勝てばいいんです。たった二十七回です! 一億三千万のトップになるのはっ、日本一になるのは二十七回です!!」
両手できつく拳を作り、腰を落とし、力を溜める構えをとる。田中総理の目は、少年のように輝いていた。
「二十七回……一億三千万のトップになるのに!? えぇと……たっ確かに二十七回だ!」
吉兆の人差し指が、太腿の上で二度だけ跳ねた。
それから両手が、頼んでもいないのに総理と同じ構えを作った。
「……」
ヒカリは田中総理と吉兆を交互に見比べ、言葉にならない引き笑いをした。
もう国会は野次だらけ罵声の海。ついに総理はマイクを握り締め、激しい身振り手振りで熱弁する。
「数字的には二十七回勝てばいいんですよ! テレビの前の皆さん! ただ確率で言うとぉ! 一億ぅ三千万分のいぃぃちぃ! でぇもでもっ! にじゅぅなぁなぁかぁぁいぃ! 連続でVICTORYすればっ! TOP OF THE NIPPONN! とぉっぷおぶざぁ! にっぽぉぉん! なんですよぉ!」
最早、理性を失った獣のように、目を見開き唾を飛ばし続けながら演説する田中総理。
すでに国会は総理の豹変ぶりに静まり返っていた。
「……TOP OF THE CRAZY……」
吉兆が半笑いで漏らした。
「確かに……前代未聞だよね……これ」
「そこでぇー!」
静まり返った国会で、総理がマイクを鷲掴みにした。それから演説台の下にもぐりこみ、ゴソゴソと何かを取り出す。前の晩から仕込んでいたのだろう。
「よいしょ」と立ち上がる途中で、ハウリングが会場に響き渡った。総理は左手でマイクを握り直し、一呼吸置いた。
大きく息を吸い込みスケッチブックを広げると同時に叫んだ。
「ぜぇん国民っ⤵一億っさぁんぜん万人による⤴全国民ジャンケン大会を実施するぅぅぅ⤴!」
感極まったせいか、宣言の語尾は、次回予告のナレーションのように激しく裏返っていた。スケッチブックには、筆で「全国民ジャンケン大会」と書かれている。
「ヒカリ。俺、夢見てるのかな?」
「いや、しっかり起きてるよ」
総理はスケッチブックをめくり、書いてある内容を読み上げていく。
「一つ、参加権は日本国民である事!」
「一つ、ジャンケンを出来る者であれば誰でも参加可能!」
「一つ、トーナメント方式による勝ち抜き戦!」
「一つ、参加費は一人百円!」
「一つ、優勝者は参加費を総取り!」
総理が一呼吸置いた。
六十年以上、生きた人間にしか取れない間だった。
「えっ……ちょ……マジで」
吉兆が前のめりになりながら、声を漏らす。
「冗談でしょ……」
ヒカリの目が、いつもの線から丸く開いた。右手はもう口へ行っている。
「勘の鋭いテレビの前の挑戦者よ……そう! つぅまぁりぃぃ!」
そう言って総理はスケッチブックをまためくる。
「優勝賞金は! 百三十億円なりぃぃぃ!」
「さらに! この賞金は非課税! つまり百三十億総取りである!」
スケッチブックには大きく強く荒々しく百三十億円と書かれていた。
百三十億という数字を、人は一度で理解できない。だが計算そのものは、恐ろしく単純である。一億三千万人が百円ずつ出せば、それだけで百三十億になる。
集めて、一人に渡す。それだけのことを誰も思いつかなかったのは、金額が大きすぎたからではない。あまりにも子供じみていたからである。
「この疲れきった日本に私は夢と希望を与えたい!」
「二十七回勝てば優勝! 日本のトップ! そして百三十億円!」
「私は、ここに全国民ジャンケン大会を宣言する!」
同時に、総理の後ろで紙ふぶきの大砲が爆発した。これも仕込みである。
国会は静まり返っていた。誰も原稿をめくらない。誰も水を飲まない。時間にして数秒だったかもしれない。それは永遠に続くものと思われた。
「ふ……ふざけんな……」
静寂を破ったのは独り言のように消えそうな誰かの声だった。それは混乱した国会を生き返らせるには十分だった。
その声を皮切りに、「そうだ! ふざけんな!」「ジャンケンとは何事だ!」「恥を知れ!」の大合唱が始まった。
蝉と同じである。一匹が鳴けば、あとは一斉に鳴く。
「だまっ! らっ! しゃい!!」
田中総理がマイクを使わず一喝する。
再び会場は静まり返った。そう、会場を黙らせたのは田中総理の声だけではない。その眼力だ。日本が他国と対等に意見を交わせるようになったのは、この眼力ありきだ。まさに邪眼と言ってもいい。
「君達は私を何だと思っている? 聖人君子だと言いたいのか?」
「はっきりと言ってやる。私は生まれついてのガキ大将だ」
「ただ全国民でジャンケンがしたいという、小学生で誓った夢のため政治家になった」
「そして、夢を実行するためには全国民の信頼を勝ち取る必要があった。誰しもが私の声を聴くほどの人間力と説得力が必要だった」
「しかし、私は生まれ持っての愚者である。だから感情を殺し、賢者の仮面をかぶり、何十年も君達を騙し続けた。信頼を勝ち取るためだ」
「結果どうだ? 騙し続けられた君達の日本はどうなった? 私が賢者の仮面を被り続けた結果、戦後最大級に日本は成長した」
「そして、更に問いたい。君達日本国民が国の代表として選んだのは誰だ? 君達政治家が国の代表として選んだのは誰だ?」
田中総理は一呼吸おいた。
「YES! IT'S ME!(そう、私だ!)」
「選んだ者たちは最後まで信じろ! 選ばれた者は最後まで責任を持つ! 私は私がこの国の代表である限り、この日本を豊かにする」
「そして、騙されて信じた者たちは最後まで私についてこい! それが、私が総理になった理由だ!」
「さぁ私の鋼面に騙された者たちよ。選んだ人間と、選ばれた人間は表裏一体だ。お互いに責任がある。私は私の責任を果たし、命がある限り国民の為にあろう。今度は君達に私の祭りへ付き合ってもらう番だ。これは等価交換だ」
「始めよう! 誰しもが平等な戦いを」
「思い出せ。幼き日の給食の残りかけたジャンケンを」
「思い出せ。結婚式二次会の少し景品が熱いジャンケン大会を」
「血肉沸き滾るヒリヒリした展開を忘れた大人よ。純粋に後出しする子供達よ」
「これは聖戦だ。非課税百三十億をかけて国民全体で一喜一憂しようじゃないか!」
田中総理はゆっくりと息を吸い、一呼吸おいた。そして、ため込んだ空気を全部使い切るように吐き出した。
「LET'S PARTY TIME」
演説が終わった。
声を出せる者は、その場に一人もいなかった。
音を消す魔法をかけられたようだった。
その魔法を破ったのは、どこからか聞こえてきた、不規則な拍手だった。
最初に叩いたのが誰なのかを、議場の誰も見ていなかった。
知っていたのは、叩いた本人だけである。
拍手は徐々に大きくなり、やがて会場を埋めた。
我に返った野党から野次が飛んだ。浜辺の文字が波に消されるように、それも拍手にかき消された。
モニターは、しばらく拍手で埋まった議場を映してから、スタジオのキャスターに切り替わった。キャスターは必死に何かを言っている。その内容は、二人の耳に入ってこなかった。
ようやく吉兆が「何これ……」と声を絞り出した。
「わかんない……」
二人とも、それ以上の言葉を持っていなかった。おそらくこの国の全員がそうだった。
のちに、この日は『鋼面の剥がれた日』と教科書に載ることになる。
人は、正しいことを言う人間より、恥をかいてでも本気になる人間についていく。この男は六十年かけて前者になり、七分間で後者に戻った。
その七分が、この国の夏を丸ごと作り変えることになる。




