エピローグ2.魔法少女ダルシャドー、新生す
区域二十四番地の夜は久しぶりに静まり返っている。
ここ三週間この区域は様々な混乱の中にあった。"敵"が破壊した建築物の修理費用は人類再興機関が全額負担すると公表された時は彼らを賞賛する者が多かったが、"敵"に関する一連の報道の中から不自然にブライトシャインの名前や功績が消えていることが分かると一部の人々から抗議の声が上がり、人類再興機関の支部に直接文句を言う者が毎日現れるようになった。
この事態は一時は中規模の抗議活動が行われそうなところにまで発展し、更に"敵"に実質的な致命傷を与えたのはピュアバブルだと言うニュースが流れると、新しい正義の味方にまでその火が波及した。
だがピュアバブルは肯定も否定もしなかった。ただ毎日勤勉に"敵"を倒し、区域内を巡回する。"正義の味方とは言えまだ十一歳の少女に怒りを向けるのは筋違いだ""そもそもブライトシャインは引退していたのだから仕方がない"と言う論調が強まってからはピュアバブルへの批判も抗議活動への熱気も嘘のように鎮火していき、いつの間にかブライトシャインの功績は様々な人々の心の中だけに刻まれているものとなった。
けれどこの静かな夜にも、蠢くものがいる。区域から外につながる大門が今夜開いたと知る部外者は一人の少女と三体の怪人、怪物のみ。外から区域の中に入って来た人類再興機関のトラックの積み荷に何が乗せられているのか知っている彼らこそが、トラックがいきなり動かなくなってしまったのは原因だった。
当然、トラックの運転手はアクセルを再度踏み込んだがやはりうんともすんとも動かない。仕方なくドアを開けてタイヤを確認しようとするが、突然目の前に何か大きなものが現れると、そこから低い声で響いて来た。
「動くな。動くと某の刀が額を撃ち抜くぞ」
「な、何だお前は……ってゴリラ!?あと刀はどこ!?」
「ふっ、中々愉快で度胸のある町民だな。刀は武士の魂。当然身に付けているものだ。よく見ろ、ここにあるではないか」
「ハンマーじゃん!額を撃ち抜くどころか頭が潰れるわ!」
「まぁ、武士でもない町民にそう見えてしまうのは仕方ない。武士のこころ町民知らずとは良く言ったもの。それより鍵を差した状態にして、手を上げたまま地面に座るのだ」
ぐっ、呻いて運転手は指示に従った。まだ少しひんやりとした夜の道路の感触を膝で味わうことになるなんて、と命の危機かもしれないのにぼんやり悔しがっていると、再度低い声が放たれた。
「ドラックの後ろのあの扉の鍵を渡してくれ」
「リヤドアのことか?残念ながら、このトラックのリヤドアに鍵はないんだ。力づくで開けるしかない」
それは嘘ではなかった。人類再興機関のトラックのリヤドアには鍵がついていないし、素材も構造も全体的に非常に堅固だ。トラックの運転手が運転席から降りるなんてミスをしなければ――
「あ、やっと空けられた。衰えたとはいえ、私の能力でも穴を空けるのに三回かかるって、かなりの固さだね」
「ワフフ、ワンの兵器なら一発ワン!」
「うん……トラックごと吹き飛ぶね……」
どちらにしろ変わらないようだ。
さて、開けた中を覗き込んだ有海菜とデスビーストウルフはその中をライトでかざした。すると何かが激しく移動するような足音が中で木霊し、次に明かりは鋭い目つきの少年と、その後ろの少女を照らし出す。トラック襲撃者たちは中に居るのは一人だけだと思っていたのだが、予想は外れたようだ。
「えーっと……二人とも落ち着いて落ち着いて。私たち、全然怪しい物じゃないよ。ほんとほんと。信じて」
「……わざと怪しさをアピールしてるワン?こう言うのはワンの方が得意ワンよ。二人とも良い子だから少しだけ質問させて欲しいんだワン。ワンたちは一歩もここから動かないから、お願いワン」
二つの話しかけ方のうちどちらが優れていたのかさておき、少年の後ろに隠れていた少女が反応したのは話術ではなく外見だった。
「キラキラした……犬?」
「ワンはオオカミ――ほんのちょっぴりだけ犬かもしれないワン」
「私、飼ってる……いつも一緒に山菜を取りにいってる……」
そこまで言うと急に少女が泣き出した。子供に泣かれておろおろするしかない襲撃者たちに対し、少年が噛みつく。
「お前らなんなんだ!こんな変なものの中に閉じ込めやがって!」
「えっと。私たちは、君たちを閉じ込めた奴らの敵なんだ。何をするかは辛いだろうけど自分で決めてもらうしかない。外に、元の場所に帰りたいって言うなら手伝うし、私たちと一緒に来てくれるって言うなら基地に連れていく。そのままその中に居たいのなら、すぐに立ち去るよ」
「敵?どういうことだ?何を言ってんだ!?」
少年は尚も噛みつこうとしたが、それよりも先に泣いていた少女が嗚咽しながらぼそりともらした。
「……帰りたい。パパとママに会いたいよぉ……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。無理やり暗いトラックの中に閉じ込められ、更には手に何かを嵌められて、怖くて怖くて仕方がなかったところにもたらされた外からの光は、少女に素直な願いを口にさせた。
「うん、分かった。ちょっとだけ時間が掛かるけど、必ずあなたのお父さんとお母さんを見つけて、あなたをそこに送り届けるよ。だから、とりあえず今は私の手を握って欲しい」
空いた穴からスッと伸ばされた手を見て、二人の子供は体を震わせる。しかし、その手はそれ以上動くことはなく、ただ彼らから握ってくれる瞬間をじっと待っていた。
「そんな手にだれが、あ、おい!そいつら危ないぞ!いくなって!」
「でも、こんな暗いところにずっと居るのも嫌だよ。外に出たい」
少女が自分よりも大きな手を掴むと、同時に少女に付けられていた手錠がパキンと砕けて地面に落ちた。それからゆっくり優しく引き寄せられて、外で暮らしてきた少女は区域を初めて目にした。
「わぁ!変な山みたいなのが一杯だ……!?」
「あー、あれは大きなお家みたいなもんだよ」
「お家!?こんなに大きなお家、見たことない……!」
「そっか。お父さんとお母さんが見つかるまでは、これから何度か見ることになるかもね」
「ワンも、ワンもお父さんとお母さんも探すワンよ。ワンの鼻は良く利くから、安心するんだワン」
お姉さんとキラキラした犬に優しくそう言われて、少女は有海菜の手を少しだけ強く掴んだ。少女がそうした理由のほとんどは、縋り付く相手が有海菜たちしかいないからだろう。無理やり人類再興機関に区域に連れて来られた有海菜が、リツカの手を掴んだように。
ただ自分はもっとじゃじゃ馬だったかもしれないが、と有海菜は苦笑した。
だが、微笑ましい場面は一瞬だった。突如背中に強い衝撃を受けた有海菜が、転げそうになるのを能力で必死に堪えてから振り返ると、自分を睨む少年の姿があった。
「このっ!そいつも騙して殺すんだろ悪者どもめ!!そいつを離せ!」
自分よりもかなり大きな大人の背中を全力で蹴った少年は、鬼気迫る表情でそう叫ぶ。月明かりに照らされた瞳は真っ赤で、それは少年の怒りをそのまま映し出しているかのようだった。
「君は優しいね」
「はあっ!?」
「本とはもっと怒りのままに私たちを蹴りたかったんでしょ?それこそ、この穴が開いた瞬間に。でも君は、この子を守るためにこの子の前に立った。そして、この子を守るために自分よりも大きな相手を蹴った。それはなかなかできることじゃないよ」
「わけわかんないんだよ!」
少年は再び有海菜に向かって飛び掛かった。その動きの早さは子供の範疇を遥かに超えている。
こっちが人類再興機関にとっての本命か。少年の拳を手で受け止めながら、有海菜はそろそろタイムリミットが近いと感じていた。
残酷なことだが、時間の秒針は少年相手であっても平等に動き続ける。このまま少年が選択をしないのなら、有海菜に出来るのは彼をそのままにしておくか、区域の外に放り出すことだけだ。
「あんたをこの中に閉じ込めた奴らが、殺したいほど憎いんでしょ」
「そうだよ!全員殺してやる!」
「じゃあそうしよう」
「えっ……!?」
「ゴリ、トラックの運転手を全員連れてきて」
「全員?一名しかいないがそれでいいのか?」
「え、杜撰じゃない?子供だとしても超常的な力に目覚めてるっぽいんだよ?なのに一人?」
破壊武士GORIが連れて来た運転手を見ていると、なんだか社会人の哀愁を感じずにはいられないが、それはそれ、これはこれ。
有海菜は手を上げて無抵抗を表明する男を指して少年に言った。
「彼は君をここに連れてきた奴らの仲間だよ。さぁ、恨みを晴らそうか」
少年の手にかけられた手錠が力場によって壊れると、彼は拳をギュっと握りしめたまま運転手を睨んだ。
「ま、まて。俺はただこのトラックを運転するよう言われただけだ。中に何が入っているかなんて知らなかったんだ!」
「いや、そんなの関係ないでしょ。だって彼は私を含めて全員殺したいらしいんだから。そうだよね?」
「……ッ――!」
少年は握った拳を地面に思い切り叩きつけた。ぱらぱらと砕かれた道路の一部が舞い上がる中、彼は自分の拳から流れた赤い血を静かに見つめ、震える声で言葉にした。
「そいつは……関係ない。あんたが言ってることだって信じられない」
「じゃあ何を信じて、何を信じないの?自分が敵だと思う相手は殺して、そうじゃなかったら見逃すの?それで復讐する相手を間違えたら君は後悔しないの?」
「うるさい!そんなの知るか!」
そう吐き捨てる少年の拳に有海菜は手をかざした。突然自分の拳が光始めたことに驚いた少年だったが、だんだんと痛みが引いていき、破れた皮膚が完全ではないものの癒着していく様子を見てさらに目を丸くする。
「私は後悔したよ。だから君に同じ道を歩んで欲しくない。自分が誰に、どうやって拳をぶつけるべきなのか、一度立ち止まって欲しいんだ」
「でもあいつらは俺の父さんと母さんを……!!」
「うん。復讐するな、なんて言わないよ。私はそんな善人じゃないし、君の怒りは君が燃やすべきものだから。でもそれを誰にでも揮っていいわけじゃない。赦しも罰も事前には与えてくれないからこそ、怒りが何のために身を焦がするのか考えて欲しいんだ」
「……何を言ってるのか全然分からない」
目を深く瞑って息を吐く。そうしないとまた、罵声が飛び出そうだったから。
少しして少年は自らの頬を叩いた。力が目覚めたての頃に良くあることで、加減を間違えてこけてしまったが、ひんやりとした地面に転がって暗い空を見ていると、こうやってここで怒っていても意味がないように思えて来た。
何せ先ほどからうだうだ言っている大人の女性は、この暗い空と同じくらい掴みどころがないのだ。
「あんたは一体何なんだ?本当に俺をここに連れてきた奴らの敵なのか?」
「だから敵だって言ってるで――あ、やばっ!」
有海菜は自分が良く知る相手の、正義の味方の気配が近づいてくることを察知して慌てふためき出した。
「ウルフ、ゴリ、あの娘が近づいて来てる!撤収の準備をするよ!」
「ウゥゥ。正義の味方ワン!?ピュアバブルかワン!?」
「そ。悪いけど、もう時間がない。一緒に来るか、このままか、今すぐに決めて」
「あんたら、正義の味方とか言うのの敵なのか」
少年の目に怒りの火が灯るのを見て、有海菜はふとかつての自分と彼を重ね合わせてしまった。
あの時、自分を導いてくれたのは本物の正義の味方だった。けど、いま彼を連れて行こうとしているのは悪の組織の一員だ。
「……君は、正義の味方に保護してもらった方が良いのかもしれないね。莉奈ちゃんはあまりにも若いけど、彼女なら君を人類再興機関の魔の手から守れるかもしれない」
「新鎧有海菜、そこまでです!」
丁度その時、正にその正義の味方のまだ可愛らしくも凛とした響きを持った声が悪の組織の一員に降り注がれた。
「例え悪に墜ちたとしても、あなたが子供を攫うなんて思ってもみませんでした。だから……私が今ここであなたに引導を渡します!」
たっ、と空から地面に降り立った正義の味方は少女と少年を見て、それから悪に墜ちたかつての先輩を真っ直ぐに睨みつける。流石にそんな誤解を受けるのは嫌だな、と一瞬思った有海菜だったが、外から攫ってきたわけではないとはいえ今自分がしていることは間違いなく人攫いであることは全く否定できない。
ただ元正義の味方は自分の経験を後輩に教えるように肩を竦めながら言った。
「確かに私は人攫いの最中だけど、この状況がそんな簡単なものじゃないってことは正義の味方なら勘付くべきかもね」
「何を言って……あなたは、人類再興機関で働いている方……?この車は、あなたが運転していたのですか?」
車の運転手の姿を確認したピュアバブルは、近くに止まっている車のリヤドアに穴が開いていることにも気が付くと表情を強張らせた。彼女の中で嫌な予想が出来上がってしまったようだ。
「その子らは人類再興機関が外から保護したんだ。俺は彼らを支部まで連れて行っている途中だったんだよ、ピュアバブル!けどこいつらが襲ってきやがったんだ!」
「では、地面に落ちている手錠は何なんですか?」
「そ、それは……」
今だ!
有海菜はピュアバブルの一瞬の隙をついて、閃光を炸裂させた。あまりにも眩しい光が区域の一部の夜を切り裂くと、同時に彼女は少女を抱き上げて身を翻した。
「待て!俺も、俺も連れていけ!」
「!?……君はピュアバブルに保護してもらったほうが……」
「あんなのに捕まったら、もう父さんお母さんの仇をとれない!だったらあんたらの方がマシだ!」
「……分かった。行くよ!」
有海菜は少女をデスビーストウルフの背中に預け、少年の手を強く握り締めた。悲しい理由で自分についていくことを決めた彼の手を自分が引いても良いのかどうか、確かめるように。
閃光の余韻が全て消え去った後でピュアバブルは小さな溜息をつく。そもそも有海菜の目くらましを一度経験している彼女に、その時間稼ぎは全く通用していなかった。だから彼女は少年がかつての先輩に言った言葉も冷静に聞いていたし、少年の手を引く先輩の姿もちゃんと見えていた。見えていたから、溜息をついたのだ。
「何をしているのですか、ピュアバブル!早く"悪"を追って始末して下さい!」
「……はい。分かりました」
ピュアバブルに出来ることは、目くらましが効いていたフリをすることだけだ。それは自分の正義に反するのか、自分自身に問いかけることだけだ。
通信機器越しから聞こえて来たオペレーターの怒り混じりの声に応じると、ピュアバブルは自分の体五つ分にもなる巨大な泡を一つ生み出して軽く弾けさせた。するとソナーのような衝撃波が周辺のあらゆる場所を駆け巡り、彼女は新鎧有海菜の現在地を完全に把握する。
「これから追跡します」
ピュアバブルはそう言うと、"悪"がいる場所とは違う方向へと飛んでいく。
新鎧有海菜だから見逃したのではない。ピュアバブルの中の正義が、今日の彼女の行いを辛うじて認めたのだ。だがもし、小さな正義の味方の中にある正義と反する行動をとったのなら――例え先輩であろうとも今のピュアバブルは容赦はしないだろう。
それはきっといつか、自分自身に対しても。
「あー、疲れた。いつの間にか二人とも眠ってるんだもんなぁ」
とあるビルの地下に巨大な秘密基地がある。"悪業連合・煩天"の首領、ドン・インヴェストの能力と一時異常なほど急騰した(株)バスリー出版の株を売り抜いた資金によって築かれたこの基地には、連れて来た二人の子供の他にもう一人子供の姿があった。
いや、それを子供と表現して良いのかは分からない。何故なら彼女の背中には巨大な漆黒の翼が生えているからだ。
「おかえりアミナ。あたし、今日も良い子にしてた。褒めて?」
「うん、偉い偉い。私の質問に正直に答えてくれたら、もっと褒めてあげる。今日は体のどこか痛くならなかった?」
「ちょっと頭が痛い。でもインヴェストおじちゃんにちゃんと伝えたし、前と比べたら全然平気」
「そっか。よしよし、良い子だ。でもちょっとでも痛くなったら我慢せずに言ってね?我慢出来るってことは、平気ってことじゃないんだから」
「うん。分かった……あ、ウルフだ!遊んで遊んで!」
「良い子はもう寝る時間だワンよ?明日一杯遊ぶワン!」
「おのれデスビーストウルフめ!子供からちやほやされおって!某も子供をあやすくらい出来るのだぞ!」
実動実験第五号に人間だった時の記憶はない。この異形の存在が生きていける場所は悲しいことに"悪業連合・煩天"と言う組織にしかないだろう。それでも彼女は生きている。生きてさえいれば、それが変わる瞬間と出会えるかもしれない。
有海菜は今日連れて来た二人の子供をベッドに寝かし毛布をかけると、基地の休憩に向かった。
休憩室には先客がいた。いや、彼は有海菜が戻ってくるのを待っていたのだ。
「帰ったか。ご苦労だったな、有海菜……いや、ダルシャドー」
「ダルシャドー?それ、私の"悪"としての名前?」
有海菜が上司にして"悪業連合・煩天"の首領、ドン・インヴェストに尋ねると、初老の男は深く頷いた。
「そうだ。この私自ら考えたのだ。名とは、己が何者であるのかを表す大事なものだからな。ついでにこれも渡しておこう」
そう言ってドン・インヴェストがダルシャドーに突きつけたのは名刺入れだった。ご丁寧なことにその名刺入れの中にはすでに名刺が入れられている。
(株)悪業連合・煩天 総務兼営業担当ダルシャドー。そう記された名刺が。
「ウルフと同じ役職かぁ。なんか納得いくような、いかないような……」
インスタントコーヒーを淹れながら、有海菜は微妙な表情を浮かべて見せてから小さく笑った。
「でも、私はこの区域で働けないでしょ。まぁそれを言ったらあんたが働けているのがおかしいんだけど」
「……それが、私が怪人であったころ"悪業連合・煩天"を能力で作った目的だったからな」
「……は?」
有海菜は今まさに口をつけようとしていたコーヒーカップから顔を離してドン・インヴェストを見た。悪の組織の首領の様子は変わりがないが、その声は少しだけ重々しかった。
「私の元々の能力は、支払うものが金銭に限られなかった。この世界に生じたばかりの頃の私は、自身の何かと引き換えに"悪業連合・煩天"と言う組織の概念を作り出したのだ。こちらから手を出さない限り、所属している怪人、怪物が人間から怪しまれなくなる認識阻害を持った組織を」
「……」
自分の上司となった男から全く目を離さず、有海菜が椅子に座る。もし目の前の存在が"悪"としての本性を露わにするのなら、彼女は自身の力を上司に使うことも辞さないだろう。その"悪"と彼女の"悪"は交わることはないのだから。
「言ってしまえば私は人間社会に溶け込み、"悪"がひっそりと蔓延るための基盤を作りたかったのだ。だが私はその基盤と引き換えに、怪人としてのほとんど全てを失ってしまった。身体能力、思想、寿命、性……劣化した能力を除いて全て、失ってしまったのだ」
「それは……皮肉だね」
「ああ。今や私を怪人たらしめているものはたまたま出会った二体の、いや二体と一人の部下だけだ。彼らが悪の首領、と呼んでくれているから私は怪人でいられるのだ。でなければ私は何者でもない。人間でも、怪人でもない。ただの老いているだけの生き物なのだ」
「……自分が何者なのかを決められるのは自分だけでしょ?人間でも怪人でもないからって別に気にすることないでしょ」
「果たして本当にそうなのだろうか?生きるために、欲しいもののために、損をしないために、妥協するために、そうやって生き物は自分自身に言い訳しながら自分を歪めていく。私が現にそうなのだ。そして歪んだそれを、本当の自分だと納得し誇れる者がどれだけいるのであろうか」
「……」
「だからこそ、自分で自分の道を進むと決めたダルシャドーを私は首領として応援しよう。私が、私であるためにな」
「それは、どうも」
有海菜はコーヒーカップに唇を付けた。熱い液体が喉を通って胃に満ちると、不思議とホッとした気持ちになる。
もっとも彼女に休んでいる暇はない。企みの一つ潰したところで、人類再興機関は大して痛みを感じていないだろう。感じていたとしても、蚊に刺された程度だ。
けれどいつか人類再興機関すら乗っ取るか利用して、区域に居る人々が、外に住む大勢の人々がもっと楽に生きていけるような仕組みをつくってやる。
それが今の自分が自分であるための理由だ。
有海菜は改めてそう決意すると、休憩室にやってきた二体の同僚たちに微かに笑いかけるのだった。




