13
話しを終え、僕たちは六号車へと向かった。その途中の五号車のデッキで、電話が鳴った。といってもバイブレーションだった。どうも僕は、耳がかゆくなるような小刻みな音がきらいで、たいていは電話の電源は切っていた。つまり、これは前を歩く彼女のものだ。
「あ、びっくりした!」
真乙さんは右ポケットに手を入れて、釣ったばかりの魚のみたいに震えている電話を開き、液晶画面を眺めた。口が奇妙にゆがみ、言葉を発した。
「お母さんだ……。ちょっと待ってて」
電話を持っていない左手を軽く上げて、彼女は僕から離れたところで電話を取った。
ひとり残った僕は、自分の携帯電話を意味もなく取り出していた。取り出した電話のディスプレイを確認して、現在時刻を確認した。……って、携帯電話の電源を切ってない。
時刻は九時二五分。駅を出てから、ちょうど一時間ほどが経っていた。それなのに、その一時間で知った量は、学校で一時間授業を受けた量よりも多かった。そしてそれらをまじめに考えもした。これを学力の方にまわせれば、と自虐的な思考が巡る。
――そういえば、あのときあの人は何をしたのだろう?
深夜バスの中で、真乙さんにこの電話機を一度貸した。そのとき、彼女は何やら僕の携帯電話をいじっていた。何をしていたのか、だいたいの予想はついているが、確認はしていなかった。
真乙さんの声が、車体の振動音に混じって聞こえてきた。彼女の声は元気そうだった。
それよりも僕は、携帯電話の機能のひとつである電話帳を表示させた。登録件数が、三件と表示されていた。僕は、考えがあたったことを知った。
僕の携帯電話には、家族と家の番号しか登録していないはずである。だから、本当ならば三件と表示されているはずなのに、今は四件と出ていた。
あいうえお順にならんだ電話帳の、マ行に家人以外の名前があった。まるで侵入者だと不謹慎ながら思った。『真乙夜椅』という名前が、アドレス帳に追加されていた。
――奇妙だ。まったくもって……。
世の中には奇妙な生き物が存在する。たとえばシャクトリムシ。彼らは奇怪な動きをするが、かえってその動きがおもしろい。人によってその境界は違うが、僕は彼女がその類に分類されると思っている。
電話帳のメニューボタンを押して、あらわれた選択肢の中から削除を選ぼうと、僕の指は見事に動いた。それはもう、スケート選手もびっくりなくらい。……まったく、人の電話へ勝手に、個人情報を入力してもらっては困る。もし、ここから情報が流出したら困るだろうに……。でも僕には、急に追加されたアドレスを追い出せなかった。ここで削除したら、彼女に怒鳴られてしまう。それは、おもしろくない。べつに、それだけが理由ではない気もするが……自分でもよくわかんないけど。
終了ボタンを、念を押すように押さえる。味気ないディスプレイが戻ってきた。そのままボタンを押し続け、電源が切れた。指紋で汚れた黒い画面に、虚ろな目で活力のない顔が僕を見返していた。瞬間その顔が、僕を嘲笑ったように見えた。もちろん、そんなことはありえないから、幻覚にすぎないのだが。
携帯電話を折りたたみ、もとあったポケットに戻すと、真乙さんがまだ耳に電話を押しつけたまま、僕に近づいてきた。僕の顔を見て、口は依然と言葉を電話の向こうに発しながら、目元は笑ってみせるという芸当をやっていた。
「……うん、じゃあ、代わるね。……はい」
そう言って、彼女は僕に携帯電話を渡した。流線型の形をした、あいらしいものだった。
電話の送話口を手の平で覆いながら、真乙さんをしげしげと見た。
「……?」
「うちのお母さん」
「それはわかってますけど、どうして?」
「なんかね、君と話してみたくなったんだって。迷惑だろうけど、話してやって」
真乙さんを睨みつけるが、まったく効果はなかった。それどころか「早く出てよ」と急かされた。渡された電話を、心の整頓がつかぬまま、耳へと近づけた。
「もしもし……」
そう声を出すと、「君が赤木くんね?」と、やたらと高い声色をした女性の声が返ってきた。
「はい、そうです……」
緊張からではなく、電話というものに対して煙たがる性質から、声がかすんだ。
「君が夜椅にとって、高校で唯一の友達なのね」
すばらしいほどの早口で、電話のつながっている先にいる真乙さんの小母さんが言い放った。情報分析能力が人より劣っている僕は、小母さんの言葉の意味を理解できなかった。
「あの子、高校に入ってからあまり友達が作れなかったみたいなの。でも、やっと安心ね。まあ、あと一か月ぐらいだけど、よろしくお願いね」
山で聞いた鳥たちの鳴き声なみの騒々しさで、小母さんは言い終えた。言い終えていたが、僕の脳は小母さんの言葉を理解できていなかった。不可思議な言葉があったことに気づいたのは、小母さんがそれからしばらく話し、それが一段落ついたときだった。
「……そういえば、さっき友達がどうのこうのとか、あと一か月でどうのこうのって言ってましたけど、どういうことですか?」
「え、あ、はい?」
電話の向こうで、小母さんが小さく驚いた。
「夜椅ったら、君に話してなかったの? あの子が話してないなら、私は話しにくいんだけど……」
僕は真乙さんを見た。今まで、彼女は窓の向こうに見える景色を眺めていたが、ちょうど僕の方を振り返った。何? というように小首をかしげ、「どうしたの?」と歩み寄ってきた。大きくも切れ長な目が、僕のことを数センチ下から見上げていた。
僕は視線を外し、小母さんに聞いた。
「教えてくれませんか?」
真乙さんが怪訝そうにしながら、また僕の視界に入ってきた。
「……まあいいか。どうせ、そのうちわかることだもんね。……私たち、夏休みのあいだに引っ越すのよ。そのとき、学校まで遠くなるから、夜椅には転校してもらうの」
電話を耳にあてたまま、真乙さんの表情をうかがった。