第11話
「タロちゃんっ! お願いだから、大人しくしてっ」
「わふっ」
風呂場から橘の叫ぶ声が聞こえる。
俺は、リビングで大学のレポートを書いていた。
「きゃーっ、タロちゃん!」
再び橘の叫び声が聞こえる。
「何してんだ……橘の奴…」
俺は椅子から立ち上がると風呂場へと向かった。
「おいっ、橘。何を騒いで……る…」
脱衣室から浴室へ続く扉から中を覗いて唖然とした。
何故か橘は、タロウと同じずぶ濡れ状態になっていた。
「……加藤君…タロちゃんが暴れる…」
タロウは尻尾を激しく振っていて楽しそうだ。
どうやら遊んでいると思ってるらしい。
「お前、タロウに遊ばれてるな」
「えーっ、そんなぁ……」
髪の毛から滴が垂れてくるのも気にせず、落ち込んでいる橘を浴室から引っ張り出す。
「か、加藤君?」
「俺が代わる。お前は着替えてその服を早く乾かせ」
「でも、着替えなんて持って来てないよ」
「ちょっと、待ってろ……タロウもそこで大人しくしてろ」
俺は脱衣所に橘を残し、浴室内のタロウには少し強めの口調で命令する。
「くぅーん」
タロウが悲し気に鳴いていたが、俺は自分の部屋へ彼女へ貸す服を取りに戻った。
脱衣所に戻ると、橘が堕ち込んだ様子でじっと『待て』の状態のタロウを見つめていた。
「ほら、これに着替えて……服は乾燥機にかければすぐに乾くから」
俺がジャージの上下を手渡すと、彼女は受け取りながら礼を言った。
「ありがとう……タロちゃん、加藤君の言う事は素直に聞くんだね」
「俺の言う事を聞かなければ、散歩もおやつもお預けって知ってるからな。橘はタロウ達の言う事を聞いてくれるって知ってるから、甘えてるんだろ」
俺は浴室にいるタロウの方へ近づいた。
「橘……ここを閉めるから、お前はそっちで着替えて服を乾燥機にかけろ。大丈夫、絶対に見ないから」
「え、あ……うん。加藤君が見るなんて思ってないけど……」
彼女の返事を聞きながら、俺は浴室の扉を閉めるとタロウの身体を洗い始めた。
出来るだけ扉の方を意識しない様にする為、タロウに話しかけながら身体を洗っていく。
「タロウ、お前も悪戯が過ぎるぞ」
今は大人しくしているタロウへそう呟くと『くぅーん』と、小さな声で答えた。
--- コンコン ---
扉を叩く音がした後、橘が話し掛けてきた。
「あの……着替え済ませたから……私、かえでとけいとの所に行くね」
「あぁ、分った」
橘の気配が無くなり、俺は『はぁ』と溜息を吐いた。
まずい……最近、橘の事を意識し過ぎている。
さっきも濡れた服が身体に張り付き、髪も少し濡れて頬にかかったその姿が、妙に色っぽくて思わず見入ってしまった自分がいた。
「あーっ、しっかりしろっ! 俺っ!」
彼女の残像を振り払う様に、強く頭を振ると再びタロウの身体を洗い始めた。
「おい、橘……って、寝てるのか?」
タロウの身体を綺麗に乾かし終え、リビングへ戻ると橘はかえでとけいとの間で気持ち良さそうに眠っていた。2匹は橘を守る様にジッと、彼女の傍で寝そべっていた。
俺のジャージを着た彼女は、年齢よりも随分と幼く見える。
「やばい……可愛い」
思わず漏れた独り言に自分で驚く。
俺、もしかして……
「う…ん、あっ! 加藤君っ、ご、ごめんなさいっ! 私、眠ってしまって」
目を覚ました橘は俺を見ると、慌てて身体を起こした。
「いいよ、お前も仕事で疲れてるんだろ。ごめんな、タロウの散歩に付き合わせて」
「ううん、楽しかった。久しぶりにタロちゃんと遊べたし」
「残業だったって言ってたよな?」
「え、うん」
俺の問いに、首を傾げながら彼女が答えた。
「それなら、今日は夕飯……家で食って行けよ。俺が食事当番だから、お前の分まで作るから」
「えっ、加藤君が作るの?」
「何だよ」
「意外だったから……迷惑じゃない?」
「迷惑なら誘わない」
その返事に何故か橘は安心した様な表情を浮かべ、笑顔で『ありがとう』と返してきた。
「私も手伝うね」
「いいよ、俺1人でも大丈夫だし」
傍にいられたら、意識し過ぎて大変だ。
断る俺に橘は『でも』と食い下がってくる。それを阻止する為に、後片付けを手伝う事を条件に上げると、彼女は漸く頷いた。
あの後、母さんから電話があり『父さんと一緒に出掛けてくる』と言われた。
食事は俺と橘と3匹だけとなった。
橘は何度も『美味しい』と笑みを浮かべながら、俺が作った夕飯を食べていく。
それがすごく嬉しいけど、俺は平静を装いながら食事をしていた。
食事が終わり、約束だからと橘が後片付けを済ませた後、俺は彼女がよく飲む紅茶を淹れた。
「ありがとう」
橘は美味しそうに紅茶を飲む。それを見て、俺もカップに口を付けた。
「あのね……」
不意に橘がこちらを見て声を掛けてきた。
「何? どうかしたか」
俺が視線を向けると、彼女は俯いた。
「橘?」
「もし……もしもよ? 加藤君が仕事で知り合った人に食事に誘われたらどうする?」
「はーあ?」
思ってもみなかった話の内容に、思わず素っ頓狂な返事を返す。
仕事で知り合った人?
「もしかして、誘われたのか?」
「う…ん、今日ね……星野さんに」
「星野さん?」
誰だ? それ?
「アオちゃんの飼い主さん」
橘の返事に俺は一瞬、息が止まるかと思った。
アオの飼い主……母さんが橘に好意をもっている人物だと言っていた。橘も?
「お前は……どうしたいんだ?」
「私?」
俺の問いかけに橘は顔を上げてこちらを見た。
「私は……星野さん、良い人だと思うけど……その、食事とかプライベートで会うなんて考えた事なくて……」
「ふーん、でも嫌いでは無いんだろ?」
「え? あ、うん、アオちゃんの飼い主さんだし……」
「じゃ、行ったらいいんじゃないか?」
「え?」
俺、今……何て?
「良い人なんだろ? だったら食事くらい付き合っても良いと思うけど? 俺だって仕事で知り合った女性で、良いなと思えば食事くらい行くだろうし」
何、言ってんだ! 俺っ! そんな事、思った事ないだろっ。
「そうか、そうだよね? ごめんね……変な事聞いちゃって。あっ、もうこんな時間! 私、帰るね! ご馳走様でしたっ」
橘はバッグを掴むと、ジャージ姿のまま慌てて帰って行った。
俺は椅子に座り込んだまま、彼女を引き留める事も、見送る事も出来なかった。