第六章 7
薔薇の花びらには、昨夜の雨が珠のような水滴を残していた。
昼間の熱気にほとんど蒸発してしまったようだが、花の奥、重なった花びらと花びらの間に残る水滴が、花が開くにつれ、ひとつ、またひとつと零れてくる。
シアの指が花びらに触れ、指についた水滴を口許に持っていく。
桜色の唇が指の先の水滴に触れ、花がほころぶような小さな笑みを浮かべる。
視線に気づいたらしく、シアが貌を上げた。眼が合うと、にこり、と笑う。
「なあに?」
「花のようだな」
「シアが?」
くすり、と笑う。月光色の髪がゆるやかな風に揺れている。蜜のような匂い。甘い匂いに誘われた数匹の蝶がシアに近寄ってくる。シアが掌を上に向けると、引き寄せられるようにシアの掌にとまった。
「誰も知らないところに行くか?」
「誰も? どうして?」
「誰にも渡したくない」
ひぃぃ――悲鳴が上がった。
あ、あ、あ――悲鳴はひとつではない。
幾つも。幾つも。幾つも。
薔薇の咲き乱れる庭のあちこちから声が響く。
シアの表情に変化は無い。恐怖を知らない少女は驚くことも知らない。
ベンチから腰を上げ、手近な薔薇の木を掻き分けた。
両肩を抱き、震えながら蹲っている男がいた。全身の鱗。魔物だった。
瞼の無い巨大な魚眼が、恐怖の涙を流している。
「何者だ」
両眼を細くすると、男は某国情報部の名を口にした。
「全員、仲間か」
庭園には少なくとも十数人が硬直している。今、この庭園はドウマの闇に支配されている。男とは別に、すぐ近くに転がっているのは強化人間だった。軍属なら人間と魔物の混成部隊も有り得る。
「違…う」
恐怖で舌が強張ったらしく、掠れた声で男が言う。
「だが……目的は同じだ」
問われる前に語った男の言葉に、ドウマは強化人間から男に視線を戻した。
「目的?」
「その……少女だ」
ドウマの背後にはシアが立っている。
「人間を支配する魔物のコントローラ……魔物も。人間も。あらゆる組織が少女を狙う」
恐怖に震えながら男は言う。
うわ言のような声を、ドウマはもう聞いていなかった。
情報がオープンになった。それだけを考えていた。
リークの可能性は考えなかったわけではない。主従契約を仕掛けた者の狙いは不明であり、何をされるかわからないという懸念は常にあった。
単にドウマが狙いなら、オープンにしない。頃合いを見計らって収穫に来る、そう考えていた。だが。
オープンにした以上、狙いは別にある。
人間を支配する魔物。そんな餌を人間と魔物の前にぶら下げれば、争いの火種になることは目に見えている。
争わせるつもりか。
魔物と人間を――
「オーマ?」
シアが声をかけてくる。
あどけない貌は何もわかってはいないだろう。
抱き寄せると、子供のように体重を預けてくる。
「おまえだけは護る」
命に代えても。
ドウマが死ねば、シアが狙われる理由は失くなる。
シアさえ無事ならそれでも――
「シアは――」
吐息を洩らすようにシアが言った。
「オーマが生きてる方がいいよ」
どくん、と心臓が動いた。
シアのためなら、自分の命を捨てても構わない。
もとより、自分の命に執着していない。
だが、シアに同じことをされたら耐えられない。
(これも計算の内か)
ずっと不思議だった。
主従契約において絶対的支配者である主人が下僕であるドウマの命を優先しようとすることに。
生も死も理解しないのに、どうしてドウマが生きることを望むのか――と。
ドウマの側から契約を解約させないためか。
そうしようとしたら、シアが死を選ぶ――と警告しているのか。
何も知らない少女は、簡単に死を選ぶだろう。
(どこまでも操ろうとしてくれる)
ぎり、と奥歯が鳴った。
「オーマ?」
胸に頬をつけたまま少女が言う。
「なんでもない。なら共に生きよう」
「ともに?」
「一緒にという意味だ」
「シアが死ぬまで?」
「不老不死ならおまえは死なない」
「オーマは?」
寿命については正直言ってわからない。だが――
「おれも死なない。だから死ぬなんて言うな」
「うん……」
シアが腕の中で頷いた。
一陣の風が薔薇を揺らし、散った花びらが夜の闇で渦を巻く。
シアの髪から放たれる蜜の匂いが、むせかえる薔薇の香りの中に消えていこうとするのを、少女の身体を抱きしめながら、ドウマは全身の感覚で追い続けていた。




