第六章 5
軍の命令は受けない――そう宣言した。
宣言と同時に逃亡した。始末されることは覚悟の上だった。軍の対デーモン部隊を敵に回して生き残れる可能性はゼロに等しい。吸血鬼の弱点など研究し尽くされている。
だが。
二十五年間、軍の兵器であり続けた。とっくに嫌気がさしていた。
魔物を殺すことも。人間を殺すことも。
極東の島国で逃亡を決意したのは、魔物人権保護法が制定される前から、この国の人間が魔物を受け入れていたからだ。
良くも悪くも影響を受けやすい国民性は、『ハロウィンの狂気』において、どこの国よりも狂気の渦に呑み込まれたが、狂気の熱が冷めた後は、憑き物が落ちたように魔物を受け入れ始めた。
民衆の心が右から左に動く反動作用は社会心理においてよく見られることだが、キリスト教圏では考えられない受容力であった。
神も悪魔も魔物もこの国では等しく畏怖の対象であり、同時に崇められる存在でもあった。蛇系の魔物が蛇神として信仰の対象になっていたりする。犬系の魔物は犬神だった。
神と魔の境界線が曖昧な宗教観のせいだと多くの神学者が論じた。
ただ畏怖にしろ、崇拝にしろ、それはすなわち選別を意味し、選別は差別に繋がっていたが、少なくとも、魔物だというだけで殺そうとする国よりは遥かにマシであった。
だから、逃げて、可能なら生きるつもりで、この国で発した離隊宣言であったが。
――帰隊する。
少年に救けられた翌日の夜。伯爵は軍にコンタクトをとった。
その変節ぶりに一瞬絶句したようだが、
――認める。
大佐は苦虫を噛み潰したような声で応じた。
――どういうつもりかね。
極東支部のビルの一室で、大佐は憤慨したように言った。軍に所属した際の大佐ではない。二十五年もたてば、当時、四、五十代の者は全員退官している。
――どう、とは?
ソファに背中を預けて足を組み、膝の上で手の指を絡み合わせ、伯爵は言った。
不遜とも言える態度だが、身体は五歳児のままである。
――戻るつもりなら逃げなくても……
――戻るつもりはない。
遮るように言うと、対デーモン部隊の精鋭がリベット銃を構えた。
左右に二人。背後に二人。全員が対デーモンスーツを装着している。強化された人間。心臓も肺も血管も筋肉も人工物だ。脳さえ無事なら肉体はいくらでも換装できる。パーツを交換できる兵器のように。
魔物と闘うために兵器にされた人間の気持ちはいつか知りたいものだが。
――自分はもう兵器として使われる気は無い。たとえ始末されるとしてもその気持は変わらない。だが、条件次第では戻ってもいい。
――条件?
――私への命令権の放棄。ならびに行動の自由を要求する。
――拒否すれば?
――答えるまでもないと思うが。
伯爵は両眼を細くした。
大佐は唸り声を洩らしたが、
――了解した。
言って、右手を振った。強化人間が銃口を降ろす。
吸血鬼を失うデメリットを考えれば、要求を呑んだ方がいいと判断したのだろう。
伯爵はソファから立ち上がった。
――定期的に連絡を入れる。
それはすなわち、それ以外は好きにさせてもらう、という宣言だが、大佐は文句を言わなかった。あるいは、本部上層部から好きにさせろと言われているのかもしれない。
ドアに足を向けると、
――理由を訊きたいのだが。
大佐が口を開いた。
――理由?
――戻らないという選択肢もあったはずだが、貴公はあえて軍との接点を残したように見える。なぜかね?
――……
伯爵は無言で天井に設置された監視カメラに眼を向けた。
ここでの会話は記録にとられているだろう。カメラに画像は残らないが、音声は残る。
あの少年のためだ――とは言えない。
逃げ帰った男達がどのような報告をあげたかは知らない。少年に言及したかどうかも。だが、言及していれば、あるいは、男達の中に考えるだけの頭を持つ者がいれば、あの少年の危険性に気づくはずだ。
あの少年は他者を支配する。
その手の力は吸血鬼や蛇系の魔物も持つが、精神波を遮断されると何もできなくなる。あるいは眼を閉ざした者にも効力を及ぼせない。
だが、あの少年は違う。
あらゆる精神攻撃を無効にする対デーモンスーツ。少年の背後にいた伯爵。
そのどちらをも支配していた。
湧き上がる恐怖。ひれ伏したくなるような圧倒的な存在感。
その影響範囲は不明だが、使い方次第では世界をどのようにでもできる力だ。
たとえば国家の指導者を支配したら――くらいのことは容易に思いつく。
あの少年の存在を知れば、軍は間違いなく手に入れようとするだろう。
軍に残れば、多少はその動きを牽制できる。命を救けてくれた少年に、そのくらいのことはしてやりたい。だが、それだけではなく――
――レイヴンズ卿?
大佐の声に、伯爵はカメラから大佐に眼を向けた。
――私は最近思うことがある。
――思うこと?
――魔物と人間の関係はどうなっていくだろうか、と。願わくは、すべて世は事もなし。どちらかにパワーバランスが偏るのは好ましくない。
――それが?
――私という存在はこのバランスを崩す存在だ。
――……
――ゆえに、魔物側にも人間側にも組みしない。ただ世界がどう動くか見ていようと思うが、それには情報が欠かせない。
――情報……
繰り返しながら、大佐の眼に理解の光が揺れる。
何を言おうとしているか、察したのだろう。
――軍には情報が集まる。魔物の動静も。人間の情勢も。自由が保障されるなら、戻る価値はあると判断した。答えになったかな。
そう結ぶと、大佐は無言でドアを手で示した。なったのだろう。
肩をすくめてドアに向かった。廊下に出る。誰も追っては来ない。
歩きながら、あの少年について思いを巡らす。
あの少年もまたバランスを崩す存在だ。あの力を誰かに利用させてはならない。
軍はもちろん。他の誰にも。
むろん――
あの少年自身にも。
軍に残れば、あの少年を監視することもできる。
世界を傾けてはならない。
願わくは
すべて世は事もなし




