第六章 2
霧のように雨が降る。
屋上から建物の中に入るドアの前で、伯爵は雨を見ていた。
ドアを覆う透明なドームに雨の雫が珠を結び、糸のように流れ落ちていく。
水は苦手だ。吸血鬼は身体を分子単位でコントロールする。だが、周囲に水があるとそれができない。水の分子と身体の分子の区別ができず、自分を見失ってしまうからだ。
ドアには鍵がかかっていた。
普通なら身体を霧化して擦り抜ける。今は雨がやむまで何もできない。
ぽたん、ぽたん、とドームの縁から水滴が落ちる。
病院の点滴がフラッシュバックした。
――感染? 私が?
ベッドの上で身体を起こしかけ、動けないことに気づいた。
全身の力が入らない。関節は重く、深海から急浮上したような膨張感と痛みを感じた。眼だけを動かして、シーツに投げ出した腕を見たが、骨にも肉にも異常は認められない。
――《肉体の崩壊は十時間以内に始まるでしょう》
透明なカーテンの向こう側で、感染防護服に身を包んだ医師が言う。
頭部から胸までを覆うフルフェイスの防護メットの奥で、さらにガスマスクを装着しているため、表情を見ることはできない。声は電波で飛ばしたものを、ベッド脇のインターホンが受信して音声に変換している。
――《九割が死亡。一割が魔物化します》
何を言われているのか理解できない。視野が霞むのは熱のせいか。
――《安楽死を希望しますか》
――あん……らく…し
し……死……『死』――
ぎしり、とベッドが軋んだ。全身に力が入り、その瞬間、身体が拘束されていることを悟った。胸も腰も足もベルトでベッドに縛りつけられている。
――《告知時に暴れる者もいますので》
淡々と医師が言う。おかげかどうか。意識が覚醒した。
――暴れる『人』とは言わないのだな。
――《いかがなさいますか》
嫌味じみた物言いは無視された。暴言を吐く者も少なくないのだろう。
息を吐いた。
――死なせてくれ。
――《わかりました。書類をお持ちいたします》
――書類?
――《安楽殺承諾のサインをお願いします。ボディについては献体か焼却の選択が可能です。埋葬は許可されません。献体を選択した場合でも、Dウィルス研究用の細胞や臓器を採取した後、不要な部位は焼却します。二○○○度の高熱炉ですので骨も残らないでしょう》
――……
自分は今どのような貌をしているのかと思った。
医師が用意した書類にサインをし、焼却にチェックを入れた。遺言の欄で手が止まった。妻も子供もいない。爵位は消滅することになるだろう。特記無しとした。
医師に書類を返す。
――《ミスタ・ウォーカー。サイン欄にレイヴンズとありますが》
――レイヴンズ伯爵だ。
――《失礼いたしました。レイヴンズ卿。薬剤を投与します》
医師の声に敬意が混じったが、機械的な口調は変わらなかった。
点滴に注入される白濁した薬液を虚ろな気分で見つめた。
――《数分で意識は失くなります》
――生存を希望する者もいるのか。
――《います。実際に生き残れる者は少ないですが。もしその気があるなら、まだ間に合います。投与を中止し、地下の処理室に移送します》
――処理室?
――《爆発物処理室です。魔物化した直後、爆発的に魔力を放出するケースがあります。周辺への影響を最小限に抑えるためにこの処置がとられます》
――……
――《投与を中止しますか》
――いや。いい。このまま続けてくれ。
眼を閉じた。
点滴の音が耳に届く。
意識が霞み、脳裏に白い霧が広がっていくような気がした。
このまま霧の中に消えていくのか――
その瞬間、
喉の奥から獣じみた声が迸った。
背骨が反り返り、全身が跳ねた。
ぶちぶちとベルトがちぎれていく。
身体が痛い。身体が痛い。身体が痛い。
腕を伸ばす。天井の照明が白い。逆光の中で、右手が崩れた。
皮膚が。肉が。骨が。崩壊していく。
――《ばかな。早過ぎる》
医師の声。けたたましいサイレン。
全身の血液が噴き出し、透明なカーテンを真紅に染める。
悲鳴。自分の悲鳴か。その声が無音の水底に消えていく。
聴覚が。嗅覚が。触覚が。視覚が。手から零れる砂のように失われていく。
私は消えるのか。
私は――
気がつくと、ベッドに坐っていた。シーツの上に右手をついている。指の形も皮膚の色も見慣れた自分の手だ。服は着ていない。全裸だった。眼の端に、防護服が動くのが見えた。透明なカーテンの向こう側で、数人の軍人、あるいはハンターがガスバーナを構えている。医師の防護服とは色が違う。赤に近いオレンジ色。
噴き出した血の色と同じ。カーテンが赤いからそう見えるのか。いや。違う。
カーテンは透明だった。血に染まってはいない。あれほど赤くなっていたのに。
どこに消えた。
あの血は――
き、き、き、と音が聴こえた。口から聴こえる。
――《牙だ》
――《魔物化したぞ》
魔物化? 私が――
両手に視線を落とした。爪が長い。いつから。
――おおおお。
声が洩れた。ぼたぼたと手の上に冷たい雫が落ちる。
頬を伝う感触から涙だと知ったが、落ちた雫は赤かった。
血涙。その血が手の皮膚から消える。血だけではない。
皮膚も。肉も。骨も。消える。
痛みは無い。
全裸の身体が消えていく。
貌はどうなった。鼻が見えない。額に落ちていた髪の感触が無い。
消えたのか。貌も。眼も。
なのに。視える。ベッドも。部屋も。ハンターの防護服も。
あらゆる視点から。天井付近から。床から。ベッドの形を上から視下ろしながら、同時に下からも視上げている。ハンターの身体を前後左右に捉え、その内側をも視る。いや。ハンターの内側に自分が存在する感覚。空気の中に。壁の中に。ハンターの中に。あらゆる場所に自分が存在する。
――《霧化した》
――《吸血鬼だ》
吸血鬼?
――《Sランクだ。逃がすな》
違う。私は――
どん、とベッドが揺れた。
全裸のまま、ベッドの上に跪いていた。両手をついている。
ガスバーナの銃口が向けられる。
――私は人間だ。人間に……
戻りたい――ずるり、と肉が崩れた。びちゃり、と落ちた肉と血がベッドのシーツに染みを広げていく。
――あ、あ、あ、あ。
骨が歪む。シーツを握る手の骨が縮んでいく。
身体が。全身の骨が。軋みながら縮むのを感じた。
――《これは》
――《変化が終わっていない。死ぬかもしれんぞ》
死ぬ?
そうだ。死を選んだのだ。魔物になるくらいなら――
死んだ方が――
……




